「二月、かけめぐりとまらなくなるもの」





カリカリカリ、と鉛筆を滑らせる音がやけに響いて聞こえる。

面白いとも思わないが、ここ最近志波は珍しく授業に真面目に出席し、課題もとりあえずはクリアしている。 化学担当の若王子に「志波くんはやれば出来る子ですね、偉いです」とほめられ、補習仲間であるハリーからは「こんの裏切り者っ!!と」涙目で抗議された。
別にやる気になって取り組んでいるわけではない。ただ、野球をする以外の時間でも、何かを自分に課していなければ落ち着かないのだ。ふと気が付くと、あの保健室での事を思い出してしまう。

手を握ったことではない。その後の、彼女の視線。
彼を追いかけていた、あの表情。

実際には海野あかりはあのままベッドにいたままだったが、体調が悪くなければ、きっと飛び出して追いかけて行っただろう。 そういう顔をしていた。根拠なんてない単なる勘でしかなかったが、きっとそう外してはいないと思う。

あれから数日経ったが、彼女はまだ登校してこない。思った以上に悪かったらしく、今でも寝込んでいるらしい。 事情を教えてくれた水島は「きっと無理がたたったんだわ」と言っていた。何に対しての無理かは言わなかったが。

ふと窓から空を見上げる。重たそうな灰色の雲が、空全部を埋め尽くしていて息がつまりそうだった。木枯らしの音が寒々しい。

軽くため息をつき、志波は机に広げた教科書に目を落とした。



「はい、どうぞ」

目の前に、ことりと、小さなラッピングされた箱が置かれる。
一体何だと、差し出した本人を見上げると「バレンタインだから」と水島密はにっこり笑った。 呆気にとられていると、横から西本はるひにも「はいはーい!あたしも志波やんにチョコ〜!」とやけにキラキラした包みを押しつけられた。「何だよ、モテてんなぁ志波!」とからかうハリーの手にも同じような包みがある。
そういえば今日は二月十四日。女の子が男の子にチョコと、そしてあるいは心を伝える日。
差し出されたチョコレートをしげしげと見つめ、やっぱりわからないと志波は水島と西本の顔を交互に見る。

「……それで、何で俺に?」
「いーやーやーわー!!義理に決まってるやん!!そんな固まらんとって!まぁそれに、志波やんは友達やし、な?」
「そうねぇ。それにこの間あかりちゃんを保健室に連れて行った時もお世話になったし、お礼もこめて」

そう言われれば断る理由もないので礼を言って、もらったチョコを鞄に直す。それを見ていた西本が「志波やん、チョコバッグ持ってきてへんの?」と不思議そうに首をかしげた。

「チョコバッグ?」
「チョコレート専用の袋」
「要らないだろ、そんなの」

第一、今日がバレンタインであったことも今気が付いたくらいだ。誰かにチョコレートをもらうだなんて考えもしなかった。
しかし、西本はるひは志波の答えに「ええええぇええっ!!」といつもの甲高い声で不満の声を上げる。

「ちょっ、志波やん!?アンタそら認識甘いわ、甘すぎるわっ!!今日はバレンタインやで!?乙女の祭典、告白オールオッケー、ちょっぴり大胆になって失敗しても笑って許してもらえる、ハッピーバレンタインやねんで!?」
「………だから、俺には関係な」
「あ、まーーーーーいっっ!!」

びしぃっ、と人差し指を立てる彼女の勢いは最早止められない。

「た、し、か、に!今までのアンタは何やぼっさりしてて何考えてるかわからん、ていうか何も考えてなさそうな背ぇ高いだけが取り柄のウドの大木!! バレンタインなんて無縁の人生やったかもしれんけど、けど!!アンタは変わった。生まれ変わったんや。さなぎが蝶になるかのごとく、みにくいあひるの子が白鳥になるかのごとくっ!!」

「…何気にひどくね?」というハリーのツッコミは誰にも聞こえない。

「そう、今のアンタは野球!野球部員っちゅー、かなりハイレベルなオプションが付いてる!!そしてそれによって何故かカッコよさは5割増!それを恋とときめきに貪欲な乙女が見逃すわけがないっ!」

「すばらしい解説ね、はるひちゃん」と水島密はにっこり微笑む。

「…………と、まぁそんなわけで。今年は絶対いっぱいもらう事になるから覚悟しといた方がえぇで〜…て、あれ?志波やん?」
「…おい、志波のやつ、固まってんぞ」



怒涛の勢いの西本のはるひの「予想」は、しかし見事なまでに的中し、志波は困り果て、すっかり疲れてしまった。
部活の練習中だろうと終わってからだろうと、彼女たちは止まらず、帰れと言っても聞く耳など持っていない。 最終的にはいちいち関わるのも面倒になって彼女らに振り回され、最後の一人が帰る頃にはぐったりと大きな疲労だけが残った。
あらかじめハリーに分けてもらっていた紙袋にもらったチョコレートを詰め(西本と水島がくれた分だけは鞄に入れてある)、しかしこんな量一体どうすればいいだろうかと半ば呆然としながら部室のドアを開ける。紙袋はやけに重たく、送ってくれた彼女たちには悪いがこの塊りごとどこかに投げ捨ててしまいたいとさえ思った。

(…ついてないな)

欲しくもないチョコばかり押し付けられ、本当に欲しい子からにはもらえないなんて、寝込んで学校にすら来てないなんて期待の持ちようもない。

(……もしも、元気だったらくれただろうか)

恐らくはもらえるだろう。ただしそれは純然たる「義理チョコ」だ。西本や水島がくれたチョコレートと全く同じ意味でくれただろう。
彼にはどうなのだろうか。佐伯。羽学のプリンス(と呼ばれているらしい)、けれど、海野には別人のように無愛想にしていた彼。

そんな事を考えながら校門をくぐると、「志波くん」と、背中に声が掛けられた。小さい消えそうな声、けれどはっきりとそれは自分の名前だった。
半分信じられない思いで、志波はゆっくりと振り返る。

(…だって、熱だして、ずっと寝込んでて…)

けれど、間違いなくそれは海野あかりの姿だった。ダウンコートを着込んで首には暖かそうなカシミヤのマフラーがぐるぐるに巻いてある。彼女は志波を見るとえへへと笑った。
久しぶりに見る、彼女の笑顔。
それを見ただけで、何だか胸がいっぱいになる。

「今日、遅かったんだね。練習…よりも、そっちの方が大変だったみたいね」

志波の手にある紙袋を見て、あかりは苦笑する。

「遅かった…って、おまえ、まさか」
「……うん。ちょっとだけ、待ってた」
「ばか!お前…具合悪いんだろ。それなのにこんな所で…っ!」

思わず声が大きくなったところに「はい」と目の前に差し出されるそれ。
もう今日何度も見て、うんざりしたはずのかわいらしいラッピングの小さな箱。かすかな甘い匂い。
驚いて、声も出なかった。
「…ごめんね。手作り…は、さすがに作れなくて。でも、これはるひちゃんがオススメのチョコレートだから、絶対に美味しいと思う」
「………そんな。別に、今日じゃなくても」
「ううん。今日、渡したかったの。……これからも、よろしくね」

彼女の手から、チョコレートを受取る。触れた手は冷たかった。思わずそれをぎゅっと握りしめる。

「…志波くん?」
「いつから待ってたんだ、一体」
「…志波くん、もしかして怒ってる?」

(違う)

彼女を手を握ったまま、志波は歩きだした。彼女も引っ張られるようにしてつられて歩く。

「いつから待ってたんだ、って聞いてる」
「ええっと……実は、普段志波くんが練習終わって帰るくらいの時間。えへへ」
「…笑ってる場合か。ゆうに一時間は待ってるじゃねぇか」

具合悪くて、学校休んでて、それなのにこんな所に一時間も突っ立ってるなんて。

(嬉しい)

「ちょ、志波くん。もうちょっとゆっくり歩いて。こ、ころぶ…!」
「じゃあ担いでやろうか?」
「えぇっ!?あ、歩けるよちゃんと!」

慌てる彼女の手を握ったまま、彼は歩調をゆるめない。これでギリギリ合わせられる速さだ。 いつもみたいに合わせている余裕がない。それでなくても走りだしたいような、わけのわからないものが全身を駆け巡っている。
気持ちが溢れるみたいに止まらない。どうしようもない。

(好きだ)





すごくすごく好きだ、お前のことが。







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