「たとえばそれが僕のものなら」
「お前、ほんっっとバカな」
カップにコーヒーを淹れながら、瑛は思いきりそれを言ってやった。コーヒーの香りが辺りにたち込める。
仕事終わりの一杯のコーヒー、以前は一人か、祖父と飲んでいたが、今ではもっぱらアルバイトに入っている海野あかりと飲むことが多くなった。彼女には大きめのマグカップにコーヒーと、あとたっぷりのミルク。これが一番好きなんだそうだ。初め聞いた時は「そんな奴が喫茶店でアルバイトだなんて」と呆れかえったものだが。
出してやったマグカップを前に、彼女はすっかりしょげた様子でため息をつきながら「だって」とか「でも」とか何とか、ごにょごにょと言い淀んでいる。
「あんなに手間ヒマかかったっつうのに…つうか、俺の労働時間を返せ。金払え」
「うぅっ……ほ、本当に佐伯くんには申し訳ないと思ってるってば…」
「…どうしてもって言うから、協力してやったんだぞ、俺は」
バレンタインの前日。突然あかりから電話がかかってきた時には本当に驚いた。彼女はここしばらく体調が悪くずっと学校を休んでいたからだ。
そんな彼女が開口一番「お願い」と言ってきた。「チョコレートを作りたいから手伝って」と。
瑛は全く迷いなく「断る」と返事をした。それでなくても彼女は病み上がり、どころか病真っ最中なのだ。
そのうえ他の男に渡すチョコレート作りなんて、たとえ彼女がいつもの体調だったとしても断るに決まっている。
そんな事を、仮にもいくらか関わりのある「男」の自分に頼んでくるなんて、相変わらずデリカシーのない奴だと腹立たしささえ感じたほどだ。
しかし、彼女は引き下がらなかった。もう絶対に「珊瑚礁」を休まないし、購買の人気商品「超熟カレーパン」も買ってくるし、いたずらでチョップしたりなんてしないし、と言い、
最後に「今回だけだから、だからお願い」と必死な様子で言われれば、もうイヤだとは言えなかった。
それからすぐに材料を持って「珊瑚礁」にやって来た彼女の顔色を見て、想像していたよりもずっと良かった事にほっとなり、けれども長時間は無理させられないと思い、すぐに二人で作り始めた。
彼女は味覚やセンスに関しては、実は瑛もちょっと認めているぐらいなのだが、器用ではないので中々うまくいかない。
しかも、どうせ他の男に渡されるのだからと適当に終わらせるつもりが、ついプロ根性を発揮してしまい、納得のいくものが出来た頃にはすっかり遅い時間で、二人共クタクタに疲れた。
十四日当日は、瑛の方がむしろ落ち着かなかった。その日、彼女は学校にも来ると言っていたがやはり前日の疲れがたたったらしく「チョコだけは渡しにいくね」とメールが来た。
本当にちゃんと渡せるのだろうかと心配になり、それから、何故そんな心配を自分がしなければならないのだろうかとまた腹が立った。
そして、ふたを開けた結果が「結局、渡せなかった」という彼女の言葉だった。
何でも渡す直前に女子の集団に囲まれている「奴」を見かけ、怯んだらしい。それでも、やっぱりどうしてもチョコレートは渡したくて全速力で評判の店に駆け込み、一番小さな、曰く「迷惑にならなさそうな」チョコを用意したんだそうだ。
…恨み事の一つくらい言いたくなる気持ちは仕方がないと思ってほしい。
「…ったく、怖じ気づきやがって。あのなぁ、ああいうヤツラからのチョコなんて、ぶっちゃけ数のうちに入らないんだよ。どうせ野球部ってだけで色めきたってんだからさ。
それに、お前アイツと仲良いんだろ?友達なんだからサクっと渡してくりゃ良かったんだ」
「だって!凄い人数だったんだよ?それに…なんか、迷惑そうだったし、ていうか怒ってたような気もするし…」
「知るか、そんなもの」
そんな事で怒るような男なら渡せなくていい、とは、心の中だけで呟いた。そんな奴に、お前が頑張って作ったチョコレートを渡すことなんかない。
ふと、彼の姿を思い出す。保健室で偶然会った、あの時。
彼については、たぶん向こうが自分を知るよりも良く知っている自信がある。
あかりに散々話を聞かされているからだ。彼女の話に出てくる友達の名前は大体覚えている。密さん、はるひちゃん、ハリー、クリスくん、竜子さん、千代美ちゃん、氷上くん……。
そして、「志波くん」
背が高くて、よく図書室で寝てて、かと思ったら他の場所でも寝てて、野球が大好きなはずなんだけど何故か野球部には入部してなくて、でも、この間試合に出て入部出来ることになって。
優しくて、いつも助けてくれて、手が大きい志波くん、だ。
あかりが話してくれる中で、一番よく聞く名前が彼の名だ。それが何を意味しているのか、もうずいぶん前から瑛は察しがついているのだが、当の本人はまるで気付いていない。
ずうっと気が付かなければいいと、瑛は思っている。
「…それにしても、せっかく作ったのに勿体ないことしちゃったなぁ、どうしよう…」
「……お前、アレまだ持ってんの?」
彼女の方を見ると、「実は今も持ってるんだけど」とごそごそとカバンの中から取り出して見せてくれた。
大きくはない箱に水色のリボンが結んであるそれ。確かピンクにするか水色にするかで喧嘩したんだったよなと、思い出して、口元に笑みが浮かぶ。
(…おまえ、頑張ってたよな)
それは、俺に向けられたものではないけれど。そんなことはわかってるけど。
「……なぁ、それ。俺にくれよ」
「え…でも、大丈夫かな?これ…」
「んな簡単に腐るかよ。協力した礼は、それでチャラにしてやる。まぁ、ほとんど俺が作ったんだしな、それ。回収だ回収」
「うっ……、そりゃまぁ、私はもらってくれるなら嬉しいけど…。でも、佐伯くん他にもいっぱいもらったでしょ?お店でもいっぱいプレゼントもらってたって、マスター言ってたよ?」
そんなにたくさん食べられるの?と、首を傾げる彼女に、だからそれは数のうちに入らないってさっき言っただろうと、声高に叫びたい気持ちを何とか抑え、代わりに軽くチョップをお見舞いする。
「あぃたっ!な、何でいきなりチョップ…」
「ウルサイ。とりあえずコレはもらっておく。…それか明日から一週間毎日、超熟カレーパンか、どっちがいい、海野サン?」
「えええぇ!?ど、どうぞお納め下さいっ!!」
ずいっと、差し出される箱を、瑛は両手で、丁寧に受け取る。ただの手作りチョコレート、でも自分にとってはそれだけじゃない。
行き場を失った、彼女の気持ち。いつだって、こうして受け取る準備は出来ている。
バレンタインじゃなくても、いつだって。
「……来年」
「え?」
「来年も、手伝ってやるよ。どうせ一人じゃ無理だろうしな、お前。こうなったら次はめちゃめちゃ凝ったの作るぞ」
「ホント?でも、何でそんなに佐伯くんが張り切ってるの?」
「うるさいよ。お前はせいぜい今回みたいに寝込まないよう、気をつけてろ。あれからじいちゃんにバレて、俺、めちゃめちゃ怒られたんだからな」
(そしてそれが、叶うなら、どうか俺のものでありますように)
カップの中のコーヒーは、少しぬるくなっている。
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