「まるでしらない彼女」





海野あかりは、やはり熱があった。
保健室に行っても部屋には誰もおらず、「職務怠慢だわ」と水島は言い捨て、それからまるで自分の家かのように棚からさっさと薬やら額に張る保冷剤やらを取り出し、あかりに手渡した。

保健室に着いてからは気が抜けたのかいよいよあかりの具合は悪くなり、それまでのが本当にただの強がりだったことがわかる。とりあえず薬を飲んだあかりをベッドに寝かせて、けれども一向に保健医が戻ってこない事に水島は困っていた。彼女はあかりを一人にするのが心配なのだが、かと言って授業をさぼる事には抵抗があるらしい。それを見て、志波は「俺がここにいる」と彼女に声をかけた。 彼女は意外そうに目を見開く。

「でも、志波くんだって授業があるでしょう?」
「別にかまわない。元々そんな熱心でも真面目でもないしな」

サボリがてらここで看てると言ってやれば、彼女は少し考えてから、やっと少しだけ口元を緩ませた。
そのほっとした様子に、彼女があかりの事をずいぶんと心配していたのだというのがあらためてわかる。

「そう…、それじゃあお願いしちゃおうかな。ありがとう、志波くん。あかりさんの事、よろしくね」
「ああ、わかった」
「あと、大丈夫だとは思うけど、あかりさんに変なコトしたらダメだからね」
「……ああ」

絶対よ、と(顔だけは)笑いながら出て行った水島を見送り、志波は大きく息をついた。 この強いられる緊張感は何なのだろうか。あいつだけは絶対に敵に回さないでおこうと心底思った。

それから、どれくらい時間が経っただろう。志波はあかりのベッドのそばに座り、初めは彼女の寝顔を眺めていたのだが、そのうちに眠ってしまったらしい。
気付けばもうそろそろ午後の授業も終わり、帰りのHRの時間だ。

(…勿体ない)

一瞬、自分の迂闊さを呪ったが、考えてみれば寝てしまった方が良かったのかもしれない。見ているだけで済ませる自信が、今の自分には持てないのだ。
「絶対よ」と去って行った、水島の笑顔が浮かぶ。

(うん…まぁ、良かったか、今回は)

何となく背中が寒いような気分になりつつ、志波はあかりの様子を見る。顔色は悪くないし、寝顔も穏やかだ。見つめていると、彼女の長いまつげが微かに震える。
閉じていた目が、ゆっくりと開いた。

「…ん。あれ、志波くん…?」

少し掠れた声が妙に艶っぽく聞こえて、それだけで心拍数がいくらか上がったが、努めて平静さを装い彼女に笑いかける。

「気分どうだ?」
「ん、楽になったよ。ありがとう」
「俺よりも水島に礼言っとけ。すごく心配してたしな」
「うん…」

きっと、まだ薬が効いているのだろう。あかりの目はとろんとして今にもそのまま閉じてしまいそうだ。

「寝てていいぞ、まだ。眠いだろ?」
「うん…でも、話、していたいから」
「無理するな」
「ううん、大丈夫。…志波くん、ずっとここにいてくれたの?」
「ああ。よく寝た」
「でも、授業…」
「今日出なかったからって、今さらだ」

お前、知ってるだろと、冗談めかして言ってやれば、彼女は目元だけで、ふ、と笑った。

「……野球部、は?どう?楽しい?」
「あぁ…そうだな。充実してる、っていうのかな。そんな感じだ」
「そっか。…忙しそう、だもんね。でも、よかった」

彼女はそこで言葉を切って、肩まで掛けられた布団の中から手を出した。それをそのまま、志波の方に伸ばしてくる。
まるでそれは「手をつないで」と言われているような気がしたのだが、単に自分がそう思っているだけかもしれないと思い、けれども散々迷った挙句、志波はその手を取った。 驚いて引っ込められるかと思ったが、彼女は安心した顔つきでこっちを見ているだけだ。
そうっと、少しだけ力を込めてその手を握ってみる。小さくて柔らくて、そして今は少しだけ熱を持っている手。

「…今日も、練習あるよね」
「…ん?あぁ」
「じゃあ…それまで、ここにいてもらってもいい?」
「わかった。ここにいる」

そう言って、あかりの顔にかかった髪を指でよけてやる。
今日はずいぶんと甘えられるなと驚いていたが、甘えられるのはむしろ嬉しいのでかまわない。 彼女の安心しきって向けられる視線は、恐らく自分を「男」としては意識してはおらず、「変なコト」になんてなりようもない空気だったが、今はどうでもいいことだった。 ただ、彼女を安心させることが出来ればそれで良かった。

不意に、後ろでガラリとドアの開く音がする。保健医がやっと戻ってきたのか、それとも水島かと思い、志波は咄嗟に握っていた手を離したのだが、入ってきたのは予想したどちらでもなかった。

それは、昼休み女子生徒に囲まれていた人物。涼やかな笑顔を振りまいていた、彼。

彼は志波の姿を確認して一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐにそれも引っ込め、つかつかとあかりの方に歩み寄る。手には二人分のカバンがあった。ひとつは恐らく彼女のものだろう。
佐伯の姿を見て、あかりは明らかに驚き、動揺していた。びっくりしている、という表現がピッタリだった。
しかし、彼の方はそんな彼女の驚きに関心はないらしく、昼休みの時とはまるで別人のような仏頂面で彼女を見下ろす。

「熱、出したって聞いて…。これ、荷物。若王子先生に頼まれて」
「あ、ありがとう…」
「…じゃあ、僕はこれで」

ベッドの脇に荷物を置いて帰ろうとする彼を「佐伯くん!」と、あかりは呼び止めた。

「あの…、今日……」
「店はいいから。じいちゃんには俺から言っとく」
「でも」
「そんなフラフラで来られてもメーワク。……ちゃんと治してからでいいから」

ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼はさっさと保健室を出て行ってしまった。

(店……じいちゃん?)

志波は彼らの会話の内容はよくわからなかったが、それでも聞き取った単語から考えると、以前、彼女が話していたバイト先というのは彼が言った「店」なのだろうか。
あの時の、彼女の言葉を何故か唐突に思い出す。


―――力に、なりたいんだけど。


あかりは、佐伯が出て行ったドアの方をまだ見詰めていた。そして今度こそ、彼女は辛そうに顔をゆがめている。
それを見ていると、知りたくもない答えを導き出してしまいそうで、志波は無理やり視線を引き剥がした。





揺れる心が、まだ落ち着かない。







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