「あまい錯覚」





「あぁー…かぁわいかったねぇ…」

ほっぺたに手を添えながら、海野あかりはさっきまでいた「わんにゃんランド」の光景を思い出しているらしい。にまにまと口元がゆるんでいる。

「ふわふわでちっちゃくて……、あと、目!あの上目使いはダメだよ!うるうるってしてて…はぁ」
「……上目使いって」
「それにしても!あんなにいっぱい寄ってきちゃって!志波くん、相変わらずモテモテだったね」

前に行った「ふれあいコーナー」の時も凄かったもんね!と、目を輝かせて話すあかりは今日の動物園に大変満足したらしい。
もちろん、犬や猫と戯れる彼女を見ることが出来た自分も充分満足したわけだが。

「…?なぁに?何で笑ってるの、志波くん」
「いや…別に。笑ってない」
「…むぅ、どうせ子供っぽいとかって思ってるんでしょ?」
「思ってない…くくっ」
「うーそーだー!絶対思ってるよ!!」

ぷぅっと頬を膨らませて彼女は反論したが、「でも」と、志波を見て笑う。

「でも最近、志波くん良い感じだよね。笑顔が増えた気がする」
「…そうか?」
「うん。…ね、やっぱり野球部に入れて良かったね」

(…あ)

どきりと、心臓の音が聞こえるような感覚。最近、彼女といると時折感じる感覚。
居心地が良いだけじゃない、落ち着かない感じ。
それが何なのか、志波はもうわかっている。そこまで自分は鈍くないのだ。
あの日、気が付いた。野球をもう一度取り戻した日。
もちろん、それを彼女に気付かれるような事はしない。もしかしなくても、彼女にとって自分は「友達」の一人なのだ。だからこそ得られるこの居心地の良さを、そう簡単に手放す気にはなれなかった。

(まぁ、心配しなくてもお前は何も気が付かないんだろうけど)

…それはそれで、面白くない気もするのだが。

「…海野のおかげだ」
「え?」
「お前のおかげで、俺は野球部に入れたんだ。感謝してる」
「そんな。だってあれは志波くんが頑張ったからだよ?私は何も…まぁあの場に引っ張っていったくらいかなぁ」
「…わかってない」
「え?なに?」
「いや…ホラ、来たぞ。お前のぶん」

彼女の反応に「やっぱりな」と苦笑いしながら、ウエイトレスが運んできた皿を目で促す。
動物園に行った帰り道、「寄りたいところがある」と言って連れてこられたのがここ、洋菓子店のアナスタシアだった。何でも、期間限定ケーキというのが出ているらしく、「食べへんかったら絶対に後悔するで!」と友達に言われたらしい。目の前に置かれたケーキを見て、あかりは「おいしそう!」と歓声を上げる。

「でも、志波くん一緒に来てくれたの意外だった。断られるかと思ったのに」
「俺は甘いものは好きだ」

それに、「来てほしい」と言われ、断れるわけがない。

「そっか、よかった。…でも、こういう所って平気?前にハリーを放課後誘ったら、そんなトコ行けるわけねぇだろっ、て怒られたんだけど」
「……あいつならそう言うかもな」

真っ赤になって喚く彼の姿を想像しつつ、「俺は別に気にしない」と言葉を続ける。

「確かに、ここってハリーの好きなロックな感じとは違うけど。でも、ケーキ食べるくらい付き合ってくれてもいいのにねっ。ホントかっこつけなんだから」
「……まぁ、そうだな」

答えながら、針谷が気にしていたのはそういう事じゃないだろうと目だけで周りを見回す。
志波は彼ほどは気にしないが、こんな男女二人組ばかりの中に入るのは、ロックなくせして実は割と古風な考えを持つ彼にとっては、考えられない話だったのだろう。
「あいつはマジすっげぇ良いダチだけど、たまにぶっ飛んだ事言うから疲れる」と仏頂面して零してたことを思い出す。

「お待たせしました」と、ウエイトレスが志波が注文したケーキと飲み物を持ってきた。その流れるような作業を、あかりはまじまじと見詰めている。
「ごゆっくりどうぞ」とウエイトレスが去ってから、彼女はほぅ、とため息をついた。

「すごいねぇ…いっぱい練習したのかな、あの動き」
「さぁ…慣れもあるんじゃないか?」
「慣れ、か。そっか…」

俯きかげんになる彼女に、思わずフォークを持つ手が止まる。

「……どうかしたか?」
「あっ、ううん。ごめんね、何でもないよ」
「何でもないのに、そんなため息つくか?」

不意に真剣になる志波の声に、あかりは慌てて「そ、そんな大した事じゃないんだけど!」と困ったように笑った。

「その…私もあんな風に出来たらなって、思っただけ」
「あんな風にって、ウエイトレスのことか?」
「うん。バイトで、私もウエイトレスしてるから」
「…へえ」

アルバイト。意外な話に、思わず志波は目を見開く。彼女がバイトをしていたなんて話は初めて聞いた。

「だけど、私、結構失敗も多くて…その度に怒られちゃって」
「…」

言葉にはしなかったが、そうかもしれないなと思う。特別に運動が苦手というわけではないらしいが、それにしてもよく転んだりぶつかったりしているのを見かけた。あの感じでウエイトレスの仕事を卒なくこなすというのは、確かに難しいような気もする。

「そんなにコワイ店長なのか?そこ」
「えっ?ううん、マスターは優しいけど、さ……えっと、その、バイトの先輩っていうか、その人が、ちょっとね」
「ふぅん」

志波くんみたいに運動神経がよかったらなーと、あかりはケーキを食べることも忘れて頬杖をついてため息をつく。

「力に、なりたいんだけどな…」

ぽつりと呟かれたそれは、けれど、ひどくはっきりと志波の耳に残る。目の前の彼女が、何故だかまるで知らない誰かに見えて、志波は掛ける言葉を見つけられなかった。

「…あっ!しまった!」
「……どうした?」
「あのね、志波くん。今のバイトの話、皆には内緒にしててね?志波くんだから話しちゃったけど…その、あんまり知られたくないから。バイトの事は」
「…あ、ああ。わかった。誰にも言わない」
「よかったー!あっ、ほらケーキ食べよ!志波くんのもすっごく美味しそうだね!」

何故バイトの事を知られたくないのか、それを知りたくないわけではなかったが、結局はそのまま何も聞かなかった。
詮索されたくなさそうだったし、何より「志波くんだから話した」という言葉だけで彼は満足していたのだ。そのほんの少し特別な感じが、彼は嬉しかった。





彼女と同じように、彼もまた甘いケーキにフォークを入れる。







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