「息づく世界」





ここのところ、どうもおかしい。

いや、変わり始めていることに自覚はあった。きっかけは、彼女。

海野あかり。

彼女からの言葉や笑顔、いや存在と言ってもいい。それらが自分に向けられる度、そしてそれを受け止める度に、自分は少しずつ変えられている、動かされる。
それまでの何もかもが煩わしく、意味の成さないものだと思い込んでいたあの頃の自分とは違う。
今でも、あの頃の痛みを、苦しみを思い出さないわけではない。けれど、それでも周りと関わり合うことは煩わしいことばかりではないと思える。居心地が良いとすら感じられる。

彼女と出会えたことに、志波は普段信じもしない神に感謝すらしていた。
そして、何より彼女自身に感謝していた。これからもそういった関係が続くのだと思っている。

なのに、こうもすっきりしない気分なのは何故なのだろう。

「嫌じゃない」と自分で言ったあの日から、どうしてかその言葉が心に引っかかる。

嫌じゃない、それだけなのか。感謝している、それだけなのか。

それだけで、いいのか。

どうにも気分が晴れず、志波は一人図書室で暇を潰していた。今日は野球部の練習試合がグラウンドで行われているのだが、何となく行きそびれてそのままだ。
今日はもう帰るかな、と考えていたその時、突然、勢いよく図書室のドアが開く音がした。

驚いて思わずドアの方を見れば、息を切らせている海野あかりの姿があった。

「志波くん!やっぱりここだったんだ!!」
「海野?お前、どうして…」

しかし、彼女は志波の言葉など聞きもせず、走り寄って彼の腕をつかんだ。

「お願い、早く来て!大変なの!」
「だから何が…」
「いいから早く!野球部が、大変なの!」

そう言われて、急がないはずはなかった。

グラウンドに向かうまでの彼女の説明によると、こちらのチームが勝ち越した途端に、相手ピッチャーが危険球ばかりを投げ、怪我人も何人か出ているらしい。 ちょっとした騒ぎになっているらしく、あかりは見かねて志波を探しに来たらしかった。

マウンド上で、下卑た野次を飛ばす相手ピッチャーには見覚えがあった。
あの時の記憶が、まざまざと甦る。
味方の悲痛な叫び、相手方の嘲笑、真っ赤に染まった世界。怒りが抑えられないというのは正にあの瞬間の事だろう。

(いや、違う。今の俺は違うんだ)

痛みも苦しみも悲しみも。全部受けて、傷ついて、そして囚われて動けなかった。動いてはいけない気さえしていた。でも、今は違う。乗り越えられる。怖がらずに動くことが、できる。
海野あかりの方をもう一度振り返る。彼女もまた不安げな顔をして志波を見ていた。けれど、志波に気づくと僅かにだが笑ってくれた。



応えたい、そう思った。



相手の球を打ったとき、その違和感の無さに驚いた。バットへ球が当たる感覚。そして腕を振り切る感覚。小気味のいい乾いた音。周りの歓声。
どれを取っても全部体は憶えていて、そしてそれが嬉しくて、うっかり泣きそうになった。離れていたせ世界が、戻ってきたような錯覚さえ感じる。 ホームに戻って、皆から掛けられる感謝や感嘆の言葉が少し照れくさかった。突然の入部を許してくれた顧問兼監督に深く頭を下げる。
借りたユニフォームを脱いで、とりあえずその場は離れた。来週から、ここで自分も練習に参加する。

また、野球ができる。

「志波くーん!」と手を振るあかりが見えた。彼女が、こちらに走ってくる。飛びつく勢いで、彼女は自分の手を取った。

「志波くん、すごかった!すっごくカッコ良かった!」
「いや、お前のおかげだ。サンキュ」
「ううん。私はただ呼びに行っただけだもん。それに、ホントは不安だったんだ。勢いで引っ張ってき来ちゃったけど、 良かったのかな、って。でも余計な心配だったね。志波くんは、大丈夫だった」

志波を見上げて、彼女はにっこりと笑った。いつもの、あかるい笑顔で。

「野球部入部、おめでとう」

考えなんて、何もなかった。ただ、体が動きたいように動いただけだった。
嬉しくて、そして伝えたくて。どれだけ救われていたか。どれだけ感謝してるか。
お前のおかげなんだ、と言葉にするにはきっと足りなくて。

「…ありがとう」

彼女を抱きしめているのだと気が付くのは、腕の中の彼女が裏返った声で自分を呼んでからだった。





そして、ひとつ答えを見つける。







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