「うつくしいもの」
(少し、遅くなったか)
外にいる時は気付かなかったが、時計を見るとそれなりの時間になっていて、しかし、それほどまでに熱心になっていた事を、志波は滑稽な話だと皮肉気な気持ちになった。
彼は、野球部の練習を見ていた。
初めは見るつもりなんてなかった。むしろ近づきたくない、という想いの方が強かった。それは自分自身への戒めだと思っていたし、単に中学の頃を思い出すのも嫌だと思った。
楽しいことや嬉しい事だってあったはずなのに、今ではあの時の、辛い記憶しか思い出せない。
そんな風にしか思い出せないとわかっているくせに、気付くとグラウンドの傍まで行ってしまう。
頭の中でどんなにそれらしい理由を捻ったところで、結局は忘れられずにいるのだ。
きっかけは、海野あかりだった。
「いつもね、がんばってるなぁって思うんだ。それから、私もがんばろうって気持ちになるの」
彼女は吹奏楽部に所属しており、その練習時に、窓からグラウンドの様子がよく見えるのだという。彼女とは、春先の一件以来、時折話す仲になっていた。(あれから森林公園にも本当に一緒に行った)
話す、といってもそれは海野あかりが話すのがほとんどで自分はそれをただ聞いているばかりだったが。
彼女の話はいつも尽きることがないのだ。クラスメイトとの噂話、吹奏楽部での出来事、担任の若王子の
うっかり話、吹奏楽部で仲の良い水島密の嘘か本当かわからないような「伝説」。
どれもさして興味のある話ではないが、居心地の悪いものでもなかった。何より、一生懸命に話す彼女の姿が微笑ましくて、邪魔する気にはなれなかったのだ。
そして、そんなとりとめのない会話の一部分に、それは含まれていた。
「陸上部、ラクロス部、チアにそれから…」
彼女が指折り数えて挙げる中に、野球部も入っていた。ただ、それだけのことだ。別に、野球部の事だけを特別に話していたわけでもない。彼女は単純に運動部全般に対して話していたに過ぎない。
けれど、それから、志波はあんなに遠ざけていた野球部に自ら近づいて行った。初めは一度だけのつもりで。
けれど見てしまえばもう一度、もう一度、とそれを繰り返す。見るたび感じる罪悪感も、野球を見て感じる歓びの前には、ちっぽけなものになりつつあった。
(なに、考えてんだ)
落ち着け、と志波は自分に言い聞かせる。今で充分だろう。それ以上を望む権利なんて自分にはないのだ。わきまえなければいけない。
そんな事を考えながら歩いていたところに、ふと、何かの楽器の音が耳に飛び込んでくる。気付けば音楽室の前だった。
よくわからないが、どうやら練習しているらしい。同じメロディが何度も繰り返されるが、時折志波でもわかる調子っぱずれな音が聞こえてくる。
吹奏楽部の練習だろうか。もしかしたら海野かもしれない、と何の根拠もない予想で、志波は音楽室の扉を開けた。
中は電気も付けられておらず、薄暗い。その中で譜面台をにらみながら楽器を構える彼女――海野あかりの姿があった。練習に夢中になっている彼女は、こちらには気付いていない。夕日に照らされるだけの彼女の顔は、普段の笑顔からは想像のつかない真剣な顔つきで、思わず志波はそれに目を奪われる。
鼓動が、少し早くなるのが自分でもわかる。あの時の感じに似ている。ついさっきまでの、野球部の練習を見ていた時と、同じ―――。
「…ん、あれ?志波くん?」
「……こんな時間まで残ってたのか」
「ちょっと気になるところがあって。でも中々うまくいかなくて…うわぁ、もう暗くなってきてるね」
んんーっ、と楽器をおいて腕をあげて体を伸ばす彼女は、いつもの志波が知る海野あかりだった。
一瞬感じた高揚に、志波は理由を見つけられず言葉が出ずに柄にもなく焦っていたのだが、しかし彼女は気付いていないようだった。
「そういえば、志波くんは?あ、野球部の練習もう終わってたもんね」
「…お前、どうして」
言ってから、しまったと海野あかりは口元を押さえる。
「あ…ごめんなさい。でも、ここからいつも志波くん見に来てるの見えたから…」
「……そうか」
「なんか、聞かれたくなさそうだったから黙ってようと思ってたんだけど。ごめんなさい」
「いや……いいんだ。別に、隠していたわけじゃないし」
「そっか。……野球、好きなんだね」
思わず彼女を見ると、どうかした?と不思議そうな表情が返ってくる。確かに、何てことない言葉だ。自分が練習を見に行く姿を知る者ならば誰でも思うことだ。
けれども、はっきり好きだと志波は言えなかった。曖昧に言葉を濁して視線を逸らす。何故だか、喉に言葉が引っ掛かって、うまく出てこなかった。
一瞬、中学の時のあの記憶が頭によぎったからかもしれない。
「…なぁ。それ、お前吹いてる楽器なのか」
「うん、そうだよ。まだあんまりうまくないけど」
「聴きたい」
「えっ!?」
まるで、顔に「困った」と書いたようにはっきりと出る。どこかで予想はしていた反応だが、それでも志波はつい笑ってしまった。彼女はすっかり慌てた様子で、ぶんぶんと手を振って「ダメだよ」と言う。
「だ、だって!ホントに下手なんだよ!?さっき聴いててわかってると思うけど…」
「わからない。別に下手でもいい」
「も、もう遅いし…」
「なら少しだけ」
「でも…」
「頼む。聴かせてくれ」
「…………わかった。でも、ホントに上手じゃないから。変でも笑わないでね」
「あぁ、笑わない」
志波が引くつもりがないことがわかると彼女は「少しだけね」と前置きして楽器をかまえ、そして演奏してくれた。少し高い、軽やかな音が音楽室に響く。それが上手いか下手かは、やはり志波には分らなかったが、こいつの話している声に似ているなと何となく思った。
彼女は懸命に楽譜を目で追い、指を動かしてそれを吹く。その姿は確かに不器用そうではあるが、かわいらしいような気もした。
何より、うらやましかった。ひたむきに、楽器を演奏できる彼女が。
うまくなりたくて、夢中になって、時間が経つのも忘れて。
(……俺も)
いつか、いつかそんな日が来るだろうか。ただ、外側から見ているだけではなくて。
そんな日が来る、と思ってもいいだろうか。
彼女の奏でる音は、まだ響いている。
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