ただ、誰よりも傍にいたかった。それだけだった。
「たったひとつ綺麗なもの」
瑛は「珊瑚礁」での仕事が終え、防波堤に向かって歩いていた。冷たい風が吹き付け、髪を揺らす。肌を刺すような寒さが、だが逆に神経が冴えわたるようなそれが、彼は嫌いではなかった。黒く光る海は波が高く、荒れている。
黒と蒼の闇の中にわずかな灯りだけが存在する世界の中で、やはり自分と同じように風に晒されながら立っている一人の存在を、瑛は確認する。そして、それを見つけた途端に感じる喜びと安堵に、彼はいっそ呆れ果てて、自分に笑ってしまった。
「…悪かったな、待たせて」
「ううん。こっちこそ、呼び出したりしてごめんね」
自分を見る彼女の目は、哀しげで、けれどどこか決意めいたものが感じられる。それを見て、これから起こることが冷静に確信できてしまう自分が嫌になった。そして、もう既に、自分の中でその「事実」を受け入れてしまう準備があることも。
彼女は、落ち付かない様子で、けれど、その目だけは真っ直ぐにこちらに向けて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…私、瑛くんに、謝らなきゃ」
弱々しい、けれどはっきりと伝わってくる言葉。瑛は思わず耳を塞ぎたくなった。あるいは、彼女の言葉を止めてしまいたかった。けれど、そのどちらも、自分はする事が出来ない。
「私は……やっぱり、終わらせることなんて、出来なかった。瑛くんが傍にいてくれた間も、ずっと、志波くんの事を考えてた。…志波くんが、好きだった。…今でも、好きなの」
風が、強い。この寒さだと、明日は雪かもしれない。じいちゃんに部屋をあったかくするように言わなきゃ、それと、店の仕入れの事でも確認したいことがあって―――。
どうでもいい事ばかりが頭の中を回る。頭が痛い。足にしっかり力を入れていないと、その場に崩れてしまいそうだ。
「私…、嘘ついて、すごく酷いこと、して…。クリスマスパーティの時だけじゃ、ないよね……」
そこまで言って、彼女は苦しそうに俯いた。きっと、泣いているのだろう。彼女の肩が小さく震えている。
(違うんだ)
そんな風に、泣かせたかったわけじゃない。苦しめたかったわけじゃない。ただ、傍にいたかった。笑顔を見ていたかった。
今だって、そう思っている。それだけはきっと、誰よりも思っている。
「……お前が…お前だけが、悪いわけじゃないよ」
ゆるゆると顔を上げる彼女に、瑛は、うまく出来たかはわからないが、笑って見せた。
「知ってたんだ。本当は、お前が誰を選ぶかなんて。わかるさ、だって、俺はずっとお前を見てたんだから」
きっと、彼女よりも彼女の気持ちをわかっていたから。
「それでも…、俺は、やっぱり嫉妬してたんだよ、初めから。…逃げ道でもいいなんて、嘘だ。そう言えば、お前が拒めないことをわかってたんだ。最後、誰か一番苦しむかなんて、知ってたのに」
それでも、わずかな望みを捨てきれなかった。選んでくれるかもしれない、そうであってほしい、と願っていた。
「…でもさ、それじゃ、ダメなんだよ。あの時だって…俺は、お前を連れていかなきゃいけなかった。例えお前が拒んだって、それでも、この手で、掴まなきゃいけなかった…でも、結局出来なかったんだ。怖かったんだよ。拒まれることを怖がって、はっきりさせたくなくて、嘘で誤魔化してたんだ。だから…お前だけが悪いなんてこと、ないんだ」
失くしてしまうかもしれない、という代償に、自分は怯えていた。それなら自分の気持ちを殺したってかまわないと思った。それで、この時間が長く続くのなら、耐えられると思っていた。だけど、考えていたよりもそれは辛く、自分の想いの強さを自身が思い知ることになった。
きれい事だけでは済まない、けれど、きれい事だけを信じていたくて、自分にも嘘をつき続けた。
「嘘なんかじゃないよ」
「……え」
彼女は、顔を上げてまっすぐに自分を見る。涙に濡れた目は、夜の海みたいだと思った。
「瑛くんは、私を守ってくれた。いつだって、優しかった。それは、嘘じゃないよ。私にとっては、全部、本当のこと」
「あかり……」
「本当に、嬉しかったんだよ。心強かったよ。瑛くんがいれば、大丈夫だって、思ってた。ありがとうって、いくら言っても足りないくらいなんだよ」
「もう、いいよ…」
「このままでいたいと思った。優しい瑛くんと、一緒にいられることは幸せだったから。でも、ダメなの。…どうにも、出来ないの」
「もう、いいから」
たまらなくなって、瑛はあかりの体を引き寄せる。小さな、冷え切った彼女の体を、力任せにぎゅうぎゅうと抱きしめた。そういえば、こんなにも力を込めて彼女を抱きしめたのは初めてかもしれない。
「もういいから、充分だから」
「…っく、ごめっ…ごめ、んなさ……っ」
「うん、俺も、ごめんな。しばらくは、やっぱりちょっと辛いけど、でも、大丈夫だから。…俺は、お前が好きだよ。お前が誰をどう想ってたって、好きだ。だから、お前には笑っててほしい」
「そんなこと…言わないで。優しくしなくても、いいんだよ…怒ってよ……っ」
「違うよ、優しくしたいんだ。お前がそれを苦しく思ったって、俺は止めない。それが、本当の気持ちだから…絶対、変わらないから」
ごめんなさい、と何度も繰り返す彼女の口に、瑛はそっと口付ける。どうかこのキスで、少しでも自分の気持ちが彼女に伝わるようにと祈った。そして、彼女の涙が止まるように。
キスをした口唇は冷たくて、少しかさついていた。
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