「きみのもとへ走ってく」
あれから、あかりは変わらず「珊瑚礁」でバイトしている。
正直、続けるかどうかは迷った。けれど、瑛は「それとこれとは関係無い」と言い切り、そのあとに「やめるな」と言い、じいちゃんだって、お前のこと気に入ってるんだと、彼は少し困ったように笑っていた。
戸惑いは、もちろんあった。どんな顔して仕事をしようかとずっと悩んでいたが、瑛はまるで何事も無かったかのように笑い、そして仕事には相変わらず厳しい。彼のその態度に、あかりは彼に比べて幼稚な自分が恥ずかしかった。そして、こんなに優しくてカッコいい男の子が自分を好きだと言ってくれた事を、あかりはずっとずっと憶えていようと思った。このあたたかな場所が、やはり大切な場所であることもあかりの中では変わらない。その気持ちをせめて伝えたくて、あかりは黙々と仕事をこなした。
今だって、胸が痛むことがある。どうしていいか迷ってしまう。けれど、それは自分だけじゃない。目の前で変わらず居てくれる彼もまた、同じなはずだ。
そして、もう一人。
(……そんなに、弱くないよね、私)
傷ついても、それきりじゃない。今ならわかる。それは、たまらなく怖いけれど、でも、ちゃんと受け止められる。
ふと手を止めて、店の壁にかかるカレンダーにあかりは目を向ける。今は、二月。去年の今頃は、確か熱を出してみんなを心配させた事を思い出し、あかりは一人苦笑した。
もう、心は決まっていた。嘘はつかないと決めたのだ。怖くても、もう迷ったりしない。
「何ぼさっとしてんだ。まだ仕事中」
「いたっ…ご、ごめんなさい」
ぽこんと、頭に衝撃を受け、あかりは声のした方を見る。真面目にしなきゃ給料ひくからな、と、瑛は顔を顰めた。
「…何見てたんだ。カレンダー?」
「うん。…もうすぐ、バレンタインだなーって」
「あ…」
あかりの言葉に、瑛は何かに気が付いたような顔をし、一瞬だけ目を伏せる。けれどもすぐに「あーあ、また面倒くさい日がくるな」とうんざりしたような声で呟いた。
「ね、瑛くん。私、瑛くんにもチョコレート作るよ。だから、もらってくれる?」
「も、ってなんだよ。ついでみたいに…。いらないよ、おまえの作ったチョコなんて。そんなんだったら俺、自分で作った方が美味いもん」
「そんなこと言わずに。頑張って作るからもらってよ、ね、お父さん?」
「…仕方ないな。かわいい娘の頼みじゃな……でも、さすがに今年は手伝えないぞ、俺」
「わかってるよ。…ちゃんと、一人で頑張れる」
そうして笑えば、瑛もつられたように笑い、「はい、おしゃべりはヤメ。仕事戻るぞ」と、あかりの頭にもう一度チョップした。
二月十四日。こんなにも緊張するバレンタインデーは、きっと生まれて初めてだ、と、あかりは何度目かのため息をついた。
バレンタイン、というだけで、学校中が何だか落ち付かなくてふわふわしているような気がした。今日、自分と同じような気持ちの女の子が、一体学校中に何人位いるんだろうなどと考えてしまう。
あかりは、カバンの中にある包みを確認するように見る。こうして見るのも、もう何度目かわからないくらいだ。とりあえず落ち着かなくちゃ、と、またため気をつく。
今年用意したチョコレートは二つだけだ。一つは瑛に渡すもの。もう一つは、志波に渡すもの。昨日、お隣に住む小学生の遊くんに付き合ってもらい、何とか出来た。味は二人で何度も確かめたから、たぶん問題は無い。
見た目は…まぁ自分なりに精いっぱい頑張ってはみたが、やはり去年瑛に手伝ってもらった時よりは少し見劣りする気がした。瑛に渡したら笑われるかもしれないな、とぼんやりと思う。
(それどころか、ダメ出しくらいそうだな…)
そんな事を考えていたところで、あかりはある問題に気が付いた。
(これ…いつ渡そう)
瑛には店で渡すとして(学校ではそんなどころではないだろう)、志波には何時渡せばいいだろう。ただチョコレートを渡すだけなら何時でもいいが、今回はそうではないのだ。話したい事があるのだから。
(…て、ことは、やっぱり部活終わった帰りかな)
また去年と同じように女の子達がいっぱいいるのかな…と、去年の光景を思い出す。去年はアレを見て、すっかり怖気づいてせっかく作ったチョコも渡せなかった。今日だって、渡す気ではいるが受け取ってもらえる保証はない。それを考えると、やっぱり渡すのをやめようかという考えがちらりと浮かんで、あかりは慌ててそれを打ち消す。
(だめだめ!もう決めたんだから!チョコも渡すし、自分の気持ちもちゃんと言わなきゃ!……あーでも、ちゃんと言えるのかな、私…)
頭の中はその事でいっぱいで、授業なんてちっとも頭に入ってこない。渡す、渡さない、言う、言わない、ずっとそれの繰り返しだ。
(好きって伝えるのは、こんなに大変なことだったんだ…)
言おうと決意したものの、実際、実行しようとすると心臓が壊れそうだ。悪いことばかり考えるし(というより、良い未来なんてまるで想像がつかない)、不安ばかりが大きくなって、どんなに落ち着こうと努力しても効果はない。入学試験の時だってこんなに緊張したことはなかった。
明日はどうなっているんだろう、と、あかりはぼんやり考える。今日という日が終わった、次の日。志波にチョコレートを渡して、告白をしてしまった、その次の日。
明日からは、何かが変わっているんだろうか。それとも何も変わらないのだろうか。
(…って、そんな事考えたって仕方ないよね…)
「おい、そこの百面相」
突然、頭の上から声が聞こえた。気付いて見上げると、そこには呆れ顔の羽学のプリンスが立っている。彼の手には、既にたくさんのチョコレートやプレゼントの箱があった。
「す、すごいね。それ」
「…全く、すごい情熱だよな相変わらず。もう断るのも面倒だから貰えるもんは貰っとくことにした」
「そっか」
納得して頷くあかりの前に、瑛は、おもむろに手の平を差し出した。
「……え、何?」
「何って、くれるんだろ?」
「え?」
「チョコレートだよ。いちいち言わせるなよ」
彼は不機嫌そうに、「ん」と、再度チョコを渡せと手を差し出す。
「…お店で渡そうかと思ってたんだけど…今、渡しちゃっていいの?」
「今、欲しいんだ。…アイツの後だなんて、冗談じゃない」
「え?」
「なんでも。ほら、早く出せってば」
言われるがままに、チョコレートの包みを取り出して渡すと、瑛はそれを受け取りつつしげしげと眺め「…45点」と呟いた。
「えっ……な、何が?」
「包装。ちなみに、200点満点だからな」
「ええぇっ、そ、それ低すぎるようっ!」
そんなにヒドイかな…と肩を落とすあかりに「冗談だよ」と瑛は声を上げて笑った。それから、景気づけるかのように、あかりの背中を軽く叩く。
「大事なのは形じゃなくて気持ちだろ?…何、緊張してんだ。普段のお前でいいんだからな?」
「て、瑛くん…」
「ま、振られたら笑ってやるよ。……がんばってこい」
「それ言いに来ただけ」と、優しげに目を細める彼を見て、あかりは思わず泣きそうになる。どうしてこの人はこんなにも優しいんだろう。いつも笑ってくれるんだろう。
ごめんなさいと言いかけたのを飲み込んで、あかりは代わりにありがとう、と言うと、彼は何も言わず、手だけを振って教室を出て行った。
放課後。あかりの予想に反し、野球部の部室の前には去年ほどの人だかりはない。練習が終わり、そのうち出てくるかと待っていたのだが、彼が出てくる気配はない。それどころか、どんどん他の部員は帰って行ってしまいほとんど人がいないくらいだ。
さすがにおかしいと思い、散々迷ったが、あかりは思い切って部室の扉をノックして、開けてみた。中は閑散としていて、人の気配が感じられない。
「何してるの?」
「ぎゃあああああっ!」
後ろから突然声がかかり、あかりは飛び上がる勢いでその場から移動する。そこには、いつか話をした野球部のマネージャーが、怪訝そうな顔をして、あかりを見つめていた。
「海野さん…もう一度聞くけど、こんな所で何してるの?」
「あ、あの…」
もちろん、志波に会いに来たのだが、それを彼女に直接言うのは何となく気が進まない。彼女には以前、彼に近づくなと言われたのだ。それを考えると、どうしても言葉に詰まる。
口ごもるあかりを、マネージャーである彼女はしばらく眺めていたが、すぐに興味を失ったように顔を背けて「勝己くんなら、ここにはいないわよ」と言った。
「今日はバレンタインでしょ?色々渡されるのはうっとうしいって、今日は部活には来てない」
「そっ…そう、なの?」
「そう。だから、ここにいたって彼は来ないわ」
にべもない返答に、あかりは途方にくれる。彼女は明らかに自分に対して拒絶、というか無関心で、取りつく島もないとはこういう事を言うのだろう。けれど、逃げ出したくなる気持ちを堪えて、思いきってあかりは彼女に話しかけた。
「あ、あの…それじゃあ、志波くんが、どこにいるか、知ってる?」
恐る恐る尋ねた質問はすぐに気まずい空気の中に溶けてしまう。しばらく間があって、彼女は心底鬱陶しいと言わんばかりに大きくため息をついた。
「知ってたとして、それを私があなたに教えると思うの?言っておくけど、私はあなたみたいにお人良しじゃないの」
「…え、なんで、私…?」
「近づかないでと言われて、本当に近づかないなんてね」
「だ、だってそれは…志波くんの怪我が…」
「そんなの、こじ付けに決まってるじゃない。…あぁもう、これじゃあ本当に私はただの悪役みたい」
そう言って、何故だか彼女はくすりと笑った。あかりには何がなんだかよくわからない。
「大嫌いって思うのに…何だか調子狂うな。海野さんって変な人ね」
「そ、そうかな…」
「そうよ。でも…勝己くんが野球部に入ったのは、あなたのお陰だものね。私、それだけはあなたにすごく感謝してる」
ふふ、と彼女は笑う。それはどこか諦めたような笑顔だった。
「私が出来なかったこと…あなたはいつもやってみせるから、悔しかった。だから、意地悪したの。…ごめんね」
「そんな…」
そんなことないと言おうとしたのを彼女に背中を押され、遮られる。背中越しに「まだ、学校にいるから」と声が聞こえた。
「さ、もういいでしょ。私はまだ仕事があるから、用が無い人は出て行って」
そう言って閉じられた扉に向かって、あかりはありがとうと呟いた。今日は色んな、そして思いがけない人達に助けてもらっている。
あかりは、そのまま、部室を背にして走り始めた。場所は、何となくわかっている。学校にいるならきっと、あの場所。
初めて会ったのは、廊下。生徒手帳を拾ってくれた時。背が高いなぁと思った。それと、無口だなって。
次会ったのは、図書室。本棚の届かない所に本を返してくれた。親切だなぁと思った。それと、大きな手だなって。
あとは部室、下手な演奏を、結局全部聴いてくれた。
グラウンドで志波くんが野球をするところを初めて見た時はすごくびっくりした。そして、とってもカッコ良かった。
熱を出して保健室で寝ていた時は優しかった。志波くんはいつも優しいけれど、その時は特別。ここにいるって言ってくれた。握ってくれた手はやっぱり大きかった。
辛かったのは、階段から落ちて、志波くんに怪我をさせてしまった時。でも、あの頃から私は気付いたんだった。
図書室でのキスは、やっぱり悲しくて、怖かった。全然知らない人みたいで、びっくりした。
修学旅行で、私は志波くんのおかげでちゃんとホテルに戻れた。
クリスマスパーティの時二人で話が出来たのも本当はすごく嬉しくてドキドキした。志波くんが貸してくれた上着は志波くんの匂いがして、何だかクラクラしたのを憶えてる。
何から話せばいい?どうやって伝えればいい?
どうすれば、私の気持ちが伝えられる?
図書室は、相変わらず静かだ。こんな時間に図書室に用がある生徒はまずいないだろう。けれど、入った瞬間から、あかりは自分の心臓の音がうるさくて仕方なかった。
根拠なんて何もない。けれど、きっとここにいる。ここに、志波くんがいる。
奥の日のあたる場所。いつも彼が眠っているところ。
(あ…)
そして、やはり彼はそこにいた。目を閉じて、いつものように眠っている。
彼を見つけた途端、あかりはそのまま回れ右をして帰りたくなった。もう、緊張するとか、そんなどころじゃない。どうしたかったのか、何を言いたかったのか、もうわけがわからない。胸が痛い。
離れたいのに、けれど、あかりは彼から目を離せなかった。呼吸がうまく出来ていないのか、何だか息苦しい。
その時、微かに志波が体を動かした。そのほんの些細な動きにも、あかりはびくりとして、その拍子に近くにあった椅子の脚に引っ掛かり、盛大に転んでしまった。
その音に、志波が目を覚ます。彼はまだ眠たそうな目をこちらに向けた。そしてそれが、ゆっくりと驚きで見開かれていく。
「うみ、の…?お前…そんな所で何、してるんだ…?」
彼の「そんな所」というのはあかりがへたばっている床の事だ。何でこんな恥ずかしいところを見られるんだろうと、穴があったら入りたい気分だ。
(は、恥ずかしすぎる…!)
けれど、ここまでくればこれ以上恥ずかしいこともない、と、あかりは何とか志波に向き直る。緊張で、足も手も震えた。口が凍りついたみたいに固まって、うまく言葉が出てこない。
そんなあかりを、志波は不思議そうに眺めるばかりだ。しっかりしなきゃ、と、自分を励ます。ここで言えなければ絶対に後悔する。瑛も、あのマネージャーの子も、助けてくれた。
大丈夫。たとえどんな結果でも。
「志波くん、あ、あの…これっ」
落とすまいと必死に掴んでいたチョコレートの入った包みを、彼の目の前に差し出した。
「これっ、チョコレート…もらって、ください」
志波とはとても目が合わせられなくて、あかりはずっと俯いていた。しばらく間があったが、自分の手から包みが離れる気配はない。やっぱり、受け取ってはもらえないのだろうかと、諦めて手を下ろしかけたその時、「どうして」と彼の声が聞こえた。
思わず顔を上げると、戸惑ったような表情の志波が、こっちを見ている。
「どうして、俺に?」
「そ、それは…」
「…こんなの、受け取ったら、俺は…」
「し、志波くん、聞いて!」
視線を逸らした彼に、あかりは慌てて言葉をつなぐ。もうチョコレートは受け取ってくれなくてもいい。でも、この気持ちだけは伝えたい。
「あの…あのねっ、こんな事言ったら、志波くんは、きっと迷惑だと思うけれど…」
「…?」
「あの、でもっ、やっぱり、ちゃんと言いたくてそれで…な、何かって言うと…」
声が震える。どうしてだかわからないけど泣きそうな気持ちだ。それでも、あかりは一度言葉を切り、深呼吸して、それから言った。
「…志波くんが、好きです」
(…言った)
ちゃんと、目を見て言えた。あかりは、もうそれだけで満足だった。さっきまで止まらなかった震えは嘘みたいに消えた。
志波はずっと目を丸くしてこちらを見ていた。だからあかりも彼から目を離せない。そして、ずいぶんそうやって見詰め合ってからようやく、志波が口を開いた。
「……夢、じゃないよな」
「…え?」
「俺は、寝ぼけてるわけじゃない、よな」
「う、うん。ちゃんと起きてるよ、さっきから」
「…もう一回」
「え?」
「さっきの、もう一回言ってくれないか」
「え、ええっ!?」
あかりは驚いたが、彼は至極真面目な顔をしている。もしかして、聞こえなかったのだろうか。そんな事があるだろうかと不思議に思ったが、あかりは決心して、もう一度、今度はちゃんと聞いてもらえるようにゆっくりはっきり言った。
「ええっと…じゃ、じゃあもう一度。私は、志波くんが、好きです」
「…本当に?」
「ほっ、本当だよ!本当に、志波くんが好、きっ…!?」
突然、腕を引っ張られて、目の前が暗くなる。彼の腕が、ぎゅうぎゅうと自分を締め付けているので、自分が彼の腕の中に捕われている事を知った。
「ちょっ…痛、志波くん…いた、い…」
何とかゆるめてもらえないだろうかと、あかりは体を捩るが、彼の腕はあかりを逃がさない。耳元で「もう一度言ってくれ」と彼が囁いた。あかりは戸惑って、彼を見る。
「…あ、あの、はっきり言ってるつもりなんだけど、聞こえなかった…?」
「そうじゃない、足りないんだ」
「足りない?」
「これが、夢じゃないって思えるのには、足りない。自分勝手な夢見てる気がして、信じられない」
「夢、じゃないよ。私は、ちゃんと志波くんが好きだよ」
「もう一回」
「志波くんが好き」
「もっと」
「…好き。好きだよ。あなたのことが好き」
何度でも言えると思った。何度言っても足りないような気がした。何とか自由になった腕を、彼の広い背中にそっと回してみる。
「俺も好きだ」と、掠れたような声が聞こえた。それは、さっきの自分みたいに何度も繰り返されて、あかりはまた泣きたくなった。
それから、どれくらい時間が経っただろう。相変わらず、あかりは志波の腕に抱きしめられたままだ。それはすごく幸福だけれど、照れくさくもある。
「あ、あの、志波くん、そろそろ離してもらっても、いい?」
「駄目だ。もう少し、このまま」
「で、でも、もう時間が…学校閉まっちゃうよ」
「閉まっても、いい」
「え、ええっ!?し、志波くん!?」
「冗談だ…そうだな、さすがに、もう行かなきゃな」
志波はそっと腕を解いてから、「あ」と何かに気付き、ばつの悪そうな顔をした。
「何?どうしたの?」
「チョコレート…せっかくもらったのに、床に落としたままになってた」
すまない、と申し訳なさそうな顔をして、彼は大切そうにそれを拾った。それから、空いている方の手をあかりに差し出す。
「行こう、一緒に」
「…うん!」
大きな優しい、大好きな手。
もちろん迷わずに、あかりはその手を取った。
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