「おもう、君のことを」





冬の部室は、ひんやりと寒い。暖房などというものはなく、じっと座っていれば先からどんどん体温を奪われて冷たくなっていく。
何をするでもなく備え付けの椅子に座り込む志波の体も、もうすっかり冷え切っている。しかし、彼はそれにもかまわず、と言うよりも気付かず、ずいぶんと長い間そうしていた。
無造作に投げ出した手の平を、彼は目の前にかざしてみる。クリスマスパーティの夜、海野あかりに振り払われた、手だ。
だが、自分でも不思議なのだが思った程のショックはなかった。あの状況ならば彼女はそうするだろうという事も、わかっていたような気さえする。
もう自分は痛みや悲しみは感じなくなっているのかもしれない。ただ事実だけが鮮明に、そして重く心に圧し掛かっていた。

がちゃり、と扉の音がやけに大きく室内に響いた。その音と、そして外の更に冷たい空気と共にマネージャーが入ってくる。彼女は、志波の姿を見つけると、きれいな形の眉をひゅっと細めた。

「…何してるの?」

答えもしない志波に、彼女もまた溜息だけを返し、彼に背を向けて一冊のノートを取り出す。それは、彼女が熱心に書き込んでいるもので、そこには野球部員のデータや、ドリンクの種類や、あるいは他校のデータなど、様々な情報が彼女によって書き記されているのを志波は知っている。
以前、彼女に一度見せてもらった事があり、細かく、且つ正確に書かれている事に感心したことは記憶に新しい。
彼女は今もそれに何か色々と書き込んでいた。今は冬休みで、しかも年が明けたばかりだというのに、彼女にとってはそれが何時だとしても関係無いらしい。どんな時でも淡々と、そして的確に仕事をこなしていく。この優秀なマネージャーのおかげで、羽学野球部は機能していると言っても過言ではないのだ。

「…勝己くん、最近調子悪そうだね」
「……」
「調子が悪い、というよりも上の空、かな」
「……」
「そんな調子でやってたら、また怪我するよ。しばらく休んだ方がいいくらいじゃない?」

彼女の投げ付ける言葉にはまるで容赦がない。彼女の言うは全く正しいので志波に反論の余地はまるでないのだが、だからといってこんなにも居丈高に言われなければいけない理由があるだろうか。
志波が何も答えない事が、彼女を余計苛立たせるのか、彼女の言葉はますます険を帯びたものになっていく。

「情けないし、カッコ悪い。見てて、苛々する。だらしない」
「……おい」

さすがに頭にきて、つい唸るような声で彼女の声を止める、だが、彼女は止まらなかった。それどころか怯みもせずに、振り返って彼に向き合う。

「私、何も間違ったこと言ってないもの。勝己くんは最近、たるんでる。それをマネージャーとして注意してるだけじゃない」
「ふざけるな。だからってお前に八つ当たりされる筋合いないぞ」
「……ふざけてるのはそっちでしょ」
「…何?」
「ふざけてるのはそっちだって言ってるのよ!」

彼女の声に、思わず志波は驚いて口ごもる。どこか冷めたような感じの彼女が、こんな風に大きな声を出すところなど、自分は見たことがなかった。

「勝己くんが誰のこと考えてそんなぼんやりしてるのか、私がわからないと思ってるの?ううん、本当はわかりたくもないよ。だけど、わかっちゃうんだから仕方ないじゃない!」
「おい…」
「どうして海野さんなの?あの子には佐伯くんがいるじゃない!勝己くんの入り込む隙なんてきっと全然無いよ。それなのに…、傍にいるのは私なのに、どうして私じゃなくてあの子なの!?」

彼女は涙がにじむ目元を隠すように顔を逸らす。まるで、涙なんて見られるのは恥だとでも言うように。
勝己くんはわかっていない、と彼女は消えそうな声で呟く。

「自分だけが苦しくて、傷ついていると思っているんでしょう。それで、そうすれば誰も苦しまなくて済むって。…バカみたい、全然わかってない」

彼女はそう言って、部室を出て行った。部屋は相変わらず冷たく寒い。その冷たさは、まるで刺さるようだった。







「海野さん」

久し振りに聞いた声に、あかりは足を止めた。それにしても、学校でもないところで、この声を聞くとは思わず、あかりは半信半疑で声のした方を振り返った。
その人はにこにこと笑顔であかりに手を振っている。

「やぁ、奇遇ですね。お買いものですか?」
「…若王子先生」

とりあえず、こんにちはと挨拶をする。私服の先生を見るのは何も今日が初めてではない。課外授業や校外指導なんかで見たのだが、今日の服も、その時の何時かに来ていた服と同じ服装だ。
あかりは、若王子先生に会って、少しばかり後ろめたい気持ちになる。去年のクリスマスパーティの夜、あかりは勝手に会場を抜け出し、瑛は勝手に帰ってしまったという事で、あかり共々彼は随分と教頭先生に怒られ、迷惑をかけていた。
先生は普段の笑顔を崩すことなくのらりくらりと教頭の説教を受け流し、その後当然詰問されたあかりについても、詳しい事情を話さずにすむようにうまく話を持って行ってくれた。それは彼にしても同じ事で、「でも、あんまり心配させないでね」とただ一言言われただけだった。
あの時のこと、やっぱりきちんと謝るべきだろうかと、悩んでいたところ、先生は不意に「海野さん、これから予定あります?」と尋ねる。思わず、ありませんと、答えると、彼は満足そうに笑った。

「それは良かった。それじゃ海野さん、先生とデートしましょう」
「…………へ?」

言われた意味をはかり損ねて、あかりは口を開けて彼を見る。けれども、彼の笑顔が崩れることはない。それどころか、さっさとあかりの腕を取り、歩きだした。

「さっ、行きましょう。どこがいいですかねぇ、どうせならゆっくりお話出来るところがいいかな?」
「…はっ?ちょ、ちょっと待って下さい、若王子先生!!」



連れてこられたのは、デートスポットでも何でもない、ただの公園だった。そこのベンチに先生は缶コーヒー、あかりはホットココアを手に並んで座る。どうしてこんな所なんだろうと思わず先生の顔を見上げると先生は当然と言わんばかりに「や、僕は先生ですから、生徒と仲良く喫茶店には入れません。というか手持ちがありません」と言った。 一口飲んだココアは熱いくらいで、けれどその熱さが冷えた体に染みわたる。

「…最近、元気がないですね」

特に質問も心配もする風でなく、それはまるで独り言のようだった。けれどもその付かず離れずの距離感が、今のあかりはむしろほっとする。ココアの缶を持つ指先がじんじんと熱い。

「海野さんは普段元気いっぱいだから、元気がないと心配しちゃいます。ごはん、ちゃんと食べれてますか?」
「いえ、あの…体調は、悪くないです。特別良くもないですけど」
「そうですか。……じゃあ、何か悩み事かな」
「……」
「先生には話したくない?」

それは、真摯な、というよりはまるで小さな子を諭すような言い方で、あかりは思わず笑みが浮かんだ。それでも、そんな言い方でも、伝わってくるのは自分を案じてくれている優しさで、だからやっぱり若王子先生には敵わないと思ってしまう。

「…私、大切な人を傷つけたんです」
「…」
「謝らなきゃいけないって思うんです、もちろん。…でも、何をしても、傷付けるばかりのような気がして…どうするべきか、わからないんです」
「それは、もしや恋の悩みですか?」
「…え?」
「やや、ピンポンですか。青春ですねぇ」

そう言ってコーヒーを飲んでいる先生を見ながら、あかりは、そうなんだろうかと先生の言葉を反芻する。恋。私は瑛くんに恋をしていたのだろうか。

(…違う)

即座に自分の中で答えが出てきて、その事に、あかりはやっぱりそうなんだと苦い気持ちになった。結局のところ、終わりになど出来はしなかったのだ。終わらせたかったのは本当だった。そうして、瑛の事を好きになれると、そうならなければいけないと思っていた。
けれど、振り返ってみれば、忘れられた時なんて一度もなかった。いつだって、志波の事を考えていた。きっと、察しの良い瑛はその事にも気が付いていただろう、それでも黙って自分の傍にいてくれたのだ。傷つけたのは、何もクリスマスパーティの日ばかりではなかったのだ。

「そうか、恋の悩みは…困ったな。先生、相談に乗れそうにないです。…先生は恋をしたことが、ないから」
「そんな…いいんです。心配してもらって、ありがとうございます」
「でもね、恋の事はわからないけど…まぁ何年か君より長く生きている先輩として、言えることはあります」
「え…」
「僕はね、人と関わっていれば、傷つけたり、あるいは自分が傷ついたりすることは避けられないと思う。それは、誰かが幸せになったら別の誰かが不幸になるとか、誰かが一番になれば別の誰かが最後になったりとか…そういう事と同じで。光が当たれば影が出来るのと同じように、宿命的なものだとね」

淡々とした言葉に、あかりは何も言えなくなる。そうだとしたら、もうどうにも出来ないという事なのだろうか。誰も彼も傷付けたって仕方がないと、開き直るしかないという意味なのだろうか。
そんなあかりの顔を見て、けれど先生はふっと笑った。そうして、ぽんぽんとあかりの頭に手を置く。

「でもね、そんな事で壊れるほど、人は弱くないし…その繋がりもまたそうだと思う。人間っていうのは案外賢くて、図太い生き物だって、僕は思うんだ、最近ね」
「それじゃあ私は、どうすればいいんですか…?」
「どうすればいいか、じゃなく、どうしたいか、だよ、海野さん」

先生の言葉に、あかりは目を見開いた。思いもよらない言葉だった。

「その、大切な人に誠実でありたいと思うなら、君は自分の気持ちに正直に動いた方がいい。それがまた傷つけることになっても、真実なら救われるんだ。嘘で誤魔化される方が余程悲しい。嘘は、どうしたって嘘のままだから」



嘘。私が今までしようとしてきた事。瑛くんや志波くんにも、そして自分にも。



「がんばれ。君なら出来るよ。それで、早く元気な海野さんに戻ってください。…さて!そろそろ帰りましょうか。すっかり冷えてきました」

笑って言ってくれた先生に、あかりも少しだけ笑って返した。手にしたココアはすっかり冷めてしまっている。けれど、あかりはもう寒くはなかった。
くっきりと晴れた空を見上げる。それは、海とは違う青だったけれど、あかりは何故かあの海辺の喫茶店を思い出していた。





行きたいところはもう決まっている。

















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