「その声は届かない」
 
 
 
 
  
「…ふぁ…っふ」
  
自分を包み込む眠気に耐え切れなくなって、ついついあくびをしてしまう。隣で楽器を練習している水島密はそれを目聡く見つけ「あかりちゃん?」と軽く睨む…もちろん、冗談でだ。 
熱の籠った音楽室は、今のあかりには眠りを誘う丁度いい暖かさで、気を抜くとつい瞼が重くなる。
  
「ご、ごめんごめん!…うーん、寝不足かなぁ?」 
「あかりちゃん、最近頑張って練習してるし、クラス展の方も手伝ってるんでしょ?疲れてるのよ」 
「今年はね、ディスコなんだって。若王子先生も皆も張り切ってて、楽しいんだ。でも、こっちの発表も手を抜きたくないし…」
  
去年、大成功だったものね、と二人で顔を突き合わせて微笑み合った。今でも、あの時の達成感や充実感をすぐに思い出せるが、考えてみればもう一年も前の事なんだと、ちょっとしみじみする。
  
「ディスコ?すごーい!時間があったら行ってみたいなぁ」 
「うん!案内するよ!照明とか、内装とかも、色々こだわってて……て、あっ!」
  
しまった、と、あかりは思わず楽器を取り落としそうになる。
  
「どうしたの?」 
「その資料をね、図書室から借りてたんだけど…今日返しとくの、私、頼まれてたんだった…!」 
「それなら、今から行ってくればいいんじゃない?気分転換にもなるし、ね?」
  
にこりと笑う密に、「じゃあ行ってくるね」と楽器を置いてあかりは立ち上がる。そのまま音楽室を出ようと歩きはじめたところで、「あかりちゃん」と、背中に密の声が掛かる。
  
「…その資料、もしかして重たいものなの?」
  
心配そうに言う彼女の言葉が、何を意味しているのか、あかりにはわかる。彼女を安心させたくてあかりは殊更に明るく笑った。
  
「大丈夫!片手で抱えられるくらいだし、階段も気をつけるから!」
 
 
  
図書室には、二学期に入ってからは一度も入っていない。もともとそれほど用事があるわけではない。行かずに済ませようと思えばいくらでもどうにかなった。 
この場所は、自分の中であまりにも「彼」と繋がっていて、しばらくは近づきたくないと思っていたからだ。下手をしたら本人に会ってしまうかもしれない。それは絶対に避けたかった。
  
(でも、いつまでもそんなわけには行かないよね)
  
修学旅行が終わってから、あかりは少し変わった。それは、たぶん志波と会う事が出来たからだろう。このまま避けるばかりでは、尚の事彼を困らせることになるということが、あの時よくわかった。
  (大丈夫だよね)
  
時間はかかっても、少しずつ戻していけばいい。でも、その為には自分が向き合わないと、戻ってはいかない。
  
(出来るよ、ちゃんと)
  
図書室の扉に手をかける。それは、ひんやりと冷たかった。変わらない、前のままだ。 
少しだけ力を込めて、扉を開ける。開けたとたん、ぬるい空気と、埃っぽいような懐かしい匂いがあかりを包む。別に、どうということはなかった。そこは以前と同じように静かで、穏やかだ。
 
軽く息を吐いて、あかりは中を見回す。どうやら、今の時間は誰も利用していないらしい。抱えた資料を返却するために、あかりは奥に進んだ。
 
資料をそれぞれの棚に戻しながら、あかりはふと奥の日のあたる場所を見る。あそこは、いつも彼が凭れかかって眠っている、場所。
 あかりは、ふらりとその場所に近づく。彼はいないが、近づくごとに自分が緊張するのがわかる。
  (志波くんが、いつもいる場所)
  
少し、手を伸ばしてみる。それから、座り込んで、あかりは彼がいつもしていたようにそこに凭れかかってみる。目の前は、たぶん、いつも彼がみている図書室の風景。 
日が当って、今の時期は心地が良い。夏は暑いかもね、と、あかりはほんの少し苦笑する。あまりの心地よさにさっきまでの眠気がまた襲ってくる。なるほど、彼がよくここで眠っているのもわかる気がした。
  (少し、くらいならいいかな)
  
もともと眠かったわけだし、別に急ぎの用事もない。文化祭の準備期間中だから、授業も気にする事はない。 
何より、ここから離れがたかった。 
重くなった瞼が閉じてくるのに、あかりは逆らわなかった。そのままうとうとと眠りに落ちていく。
  
そして、あかりは夢をみた。
 
 
 
 
  
(する事がない…)
  
志波は、ぶらぶらと特に目的もなく廊下を歩いていた。文化祭準備期間ということで、授業がないのは有難いことだが、運動部も活動休止なのである。クラスの教室では今回の出し物について何やら盛り上がっており、危うく自分も巻き込まれそうになったところを抜け出してきたのだった。
あれは、帰れば完全に面倒事が待っているだろうが、まぁそれも仕方のないことだろう、頼まれたなら甘んじて受けることにする。
 特に意識するでもなく、足は図書室に向かっていた。一人でサボるとなれば、図書室か屋上か、まぁ他にも色々あるが、今日は何故かそこに向かっていたのだ。
 図書室に行くのは随分久しぶりな気がした。あそこにいると、自分が海野あかりに何をしたかを嫌でも思い出すことになるのだが、今ではそんな苦い思いでさえも大切な気がした。
 彼女に繋がっていくものなら、どんなものでも大切なのだと、そう思えるのだ。
  
扉を開けて中に入れば、人の気配はなかった。誰もいないなら丁度いいと、彼はいつもの場所へと歩いて行く。あの場所は図書室の中では良く日のあたる場所で、まぁ夏は暑いが、今の時期は暖かくて寝るには絶好の場所だと思っている。
 だが、その場所が目で確認出来るところまで来て、志波の足は止まった。一瞬、心臓が止まったんじゃないかと思った。
  
(…海野?)
  
まさかと思いよく見てみるが、やはり彼女に間違いない。第一、彼女の事を見間違えるはずがない。彼女はいつも自分がしているように凭れかかって、すやすやと眠り込んでいる。その無防備な寝顔を見て、志波は無意識に息を呑んだ。
  (…戻ろう)
  
別に、どうしても図書室でなければならない理由はない。一人になれればいいのだから、どこだってかまわない。というより、ここから離れなければいけない。 
ここには自分たちだけしかおらず、しかも彼女は眠っている、というのは非常にまずい気がする。いや、まずい。 
けれども、足はそこを離れようとしない。離れたくない、と体中が叫んでいる気がする。
  
(別に、何もしなきゃいいんだ。見てる、だけなら)
  
少しだけなら。
  
ほんの少し心で妥協したとたん、彼の体はあかりの傍まで近寄って、傍に座り込む。もしかしたら途中で起きるかもしれないと思ったが、彼女は変わらず眠っている。
  
「…海野」
  
そっと呼びかけるが、当然返事はない。ただの居眠りというより、すっかり熟睡しているらしい。自分とは違って、きっと文化祭に向けて色々張り切っているのだろうと思うと、自然と笑みが浮かんだ。
  「…あんまり無理するな」
  
一瞬、どうしようかと躊躇ったが、結局手を伸ばして彼女の髪に触れた。さらさらとした優しい感触が気持ちいい。頭では止めようと思っているのに、もう少しだけと何度も言い訳しながら手を止められずにいる。
 それどころか、もっとと、願う自分がいる。
  
「……んん」 
「…っ、海野?」
  
かすかに身じろぎをした彼女から、志波は慌てて手を引っ込めた。彼女はとろんとした目付きでゆるゆると自分を見上げる。
  
「…し、ばくん?」 
「あぁ…起きた、のか?」 
「志波くんだぁ…」
  
そう言って、彼女はふわりと笑った。そして、そのまま体を傾けて、志波の胸の中に寄り掛かる。
  
「ちょ…っ、おい!」 
「あい、たかった…」 
「な……!」
  
そのまま、彼女は動かない。どうしたものかと動けずにいたが、どうやらまた眠ってしまったらしい。規則正しい寝息が聞こえてきて、志波は、彼女が寝苦しくないようにほんの少し彼女の体を支えてやった。
  (どうして)
 
 
  
――あいたかった。
 
 
  
(そんな言葉、どうして俺に向かって言うんだ)
  
この間は避けたのに、前みたいに仲良くって言っていたのに。
  
お前には、佐伯がいるのに。だから、もう止めようと思ったのに。
  
俺のちっぽけな決意をお前は簡単に挫けさせるんだ。
  
「海野」
  
彼女は眠っている。胸にかかるあかりの重たさと温かさで、泣きそうになった。
 
 
  
「海野…っ」
 
 
  
彼女を支える手に、力が籠る。
 
 
 
 
 
 
  
「……俺は、お前が、好きなんだ」
 
 
 
 
 
 
  
消え入りそうな声は、そのまま図書室の空気に溶けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
  
「…んん…あれ…。うわっ、もうこんな時間!!」
  
うっすらと確認した壁時計の示す時間に、あかりはぱっちりと目を醒ます。知らない間に一時間ほども寝てしまった。けれど、変な体勢で寝ていた割には、体はそれほど痛くない。
  
「いくらなんでも密さんに怒られちゃうかも…!」
  
急いで帰らなくちゃと立ち上がり、けれど、あかりはそれまで自分が居た場所にふと、目を向ける。
  
「…夢、だからいいよね」
  
あかりは、夢を見ていた。志波が出てくる夢。あかりは夢の中でずっと彼を探してた。何故かはわからない。そして、見つけた彼は相変わらず眠たそうで、けれど、あかりを見て笑ってくれた。「おいで」と言う風に自分に手を伸ばしてくれる。
 それが嬉しくて、あかりは「会いたかった」とその手を取った。なんて幸福で、都合のいい夢だろう。そんな夢を見る自分に呆れ、笑ってしまう。
  
「………行かなくちゃ」
 
 
 
 
  
今度こそ、あかりは振り向かずに、図書室を後にした。
 
 
  
  
 
 
 
 
 
 
  
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