「夢は醒めるから夢なのだという」
(どうしよう…瑛くん、どこ行っちゃったかな)
きょろきょろと、周りを見回しながら覚束ない足取りで、あかりは街を歩く。
ここは、京都。今日は、修学旅行の自由行動の日だ。
今日は自由行動二日目で、お土産を見に行こうと店には一緒に行動していた瑛と入ったのだが、ディスプレイされているお土産を見るのに夢中になってしまい、気が付いたら一人で、瑛の姿も見つからなかった。
初めはそれほど気にせずに相変わらずお土産を選んでいたのだが、しばらく経って、お土産を買い終わった後も彼を見つけられない。仕方がないから電話しようと携帯電話を取り出そうとあかりはカバンの中に手を入れたのだが。
(…ない)
普段、すぐ取り出せるようにといつも入れている場所も、それ以外のところも、がさがさと手を突っ込んでみるものの、それらしい感触が当たらない。落としたのかと青ざめたところで、ある事実を思い出した。
(違う、昨日の夜、もう一つのカバンの方に入れ直したんだ…!)
それから焦ってあちこち彼を探して歩いているのだが、一向に見つからない。今の京都はシーズンなのか、羽ヶ崎学園以外の学校の生徒もたくさんいたし、それ以外の観光客ももちろん来ていて、瑛一人を探し出すのは容易な事ではない。
そのうち自分自身が一体どの辺りを歩いているのかもだんだんわからなくなってきた。地図でも見てみようかと思ったが、そういえば地図は瑛が持っていて、道を歩くときは彼に付いて行くだけだったことを思い出し、愕然となる。
(ど、どうしよう…明らかに初め歩いてた所と全然違うし…!)
この後、瑛を見つけたら物凄く怒られるか嫌味を言われることは間違いないとして、このままだと、宿泊しているホテルにも帰りつけるか怪しい。道の雰囲気から、何となく観光ルートからは外れてきた気がして、あかりが一旦戻ろうかどうしようか迷って立ち止まったその時。
「……おい」
掛けられた声に思わず振り返ったあかりは、声の主を見て、固まってしまった。
(…し、志波くん……!)
たぶん、今自分は物凄く間抜け面しているのだろう。というより、どんな顔をしているかさえもうよくわからない。彼はただ怪訝そうな顔でこっちを見ているだけだ。
「…何してるんだ、一人で」
「あ、あの…えっと…」
とにかく落ち着け、いつも通り!と自らに言い聞かせつつ、言葉を探す。大体、ただばったり会っただけでこんなにも動揺するなんてどうかしている。
「そ、その実は…瑛くんを探してたんだけど、はぐれちゃって…それで、探してたんだけど会えなくて」
「…携帯に連絡すればいいんじゃないのか?」
「あ、携帯、忘れちゃったみたいで…」
「…なら、ホテルに戻った方がいいんじゃないか?」
「あの、地図、持ってなくて、道わかんなくなっちゃって…」
「………」
「…あ、あの……」
(う、ううっ、視線が痛い……っ)
彼は呆れた様子であかりを見ていたが、はぁ、とため息をついて、「行くぞ」と言った。
「え、行くって?」
「…お前、一人じゃ絶対帰れないぞ。結構遠くまで来てるの、わかってないだろ」
「あれ?そうだったの?」
「……俺と会わなかったらどうするつもりだったんだ…呑気なやつ」
そう言って、彼はくるりと背を向けて歩きだす。どうやらホテルまで連れ帰ってくれるらしいと解って、あかりは慌てて後を追いかけた。
それにしても、道を歩く人の数は相変わらず多い。しかも志波と自分ではどう考えても一歩の距離が違うので、人に行き先を阻まれつつ彼に付いて行くのは至難の業だ。
(うわ…見失っちゃう!)
また一人になってしまうと思うと、さっきは感じなかった心細さが急にこみ上げて来て、思わず「志波くん、待って!」と声を上げた。
彼は、驚いた顔をして突然振り返り、立ち止まった。あかりは傍まで何とか駆け寄る。
「ご、ごめんなさい。あの…今日、何か人多いし…またはぐれそうになっちゃった」
「…手、貸せ」
「へ?」
意味が変わらず、志波の顔を見上げると、彼は何も言わずにあかりの手を握った。
「……はぐれるよりマシだ」
そう言って、再び歩き出した彼の歩調は、さっきよりもずっとゆっくりだった。
(…小っせえ手)
手を繋いだまま歩きながら、志波はうまくあかりの方を見れなかった。自分の手の中にある彼女のそれは柔らかくて、少し力を込めたら壊れてしまいそうだ。
あかりと会うのは随分久しぶりだった。あの、9月の練習試合以来だ。あの時、彼女が見に来ている事は針谷が教えてくれていた。「まぁたぶん佐伯と一緒だろうけど」という一言付きで。
そう、彼女は今、佐伯と付き合っている。その事実が辛くないと言えばそれは嘘だが、あれだけ酷い事をした自分には、今更何を言う権利もないとも思う。
それに、それが良かったのだとも思うのだ。時折、遠くから見てしまう彼女の表情は以前の笑顔だった。そうなれたのは、やはり傍に佐伯がいたからだろう、自分、ではなく。
結局、自分は彼女に何もしてやれない。今の方があかりはずっと幸せなのだ。だから、自分のこの想いはもう止めなければいけないと思った。出来ることはそれくらいだ。
応援していると言ってくれた。おめでとうと言ってくれた。そう言って、笑ってくれた。自分には、もうそれで充分だ。あとは時間が経てば思い出になってくれると、思っていた。
そう、思っていたのに。
(それなのに、どうして一人で、こんな所歩いてるんだ)
そして、こんなに沢山の人の中、自分は見つけてしまうのだ、彼女を。そして、声を掛けずにはいられなかった。
きっと、あいつといるだろうと思っていたのに(現に、一昨日の自由行動の時はそうだった)、はぐれて、一人だなんて。
彼女と連れだって歩くのは嬉しいはずなのに、けれどそう思う自分が嫌でわざとさっさと歩いたのだ。けれど、「待って」と掛けられた彼女の声を聞いた途端、また自分勝手だったことを後悔した。
繋いでいる手から伝わる温かさが、心地良い。ここは、速やかにホテルまで一緒に帰るのが妥当だろうが、まだしばらく彼女と歩いていたいと、諦めの悪い願いが心に湧きあがる。
そんな時、彼女が「あ」と言って、歩くのを止めた。どうしたと尋ねると、何でもない!と、しかし絶対に何かあるだろう答えが返ってきたので、志波はさっきまでの彼女の視線の先に目を向ける。
そこには、甘味処の看板があった。
「…」
「ち、違うの!」
彼女は、真っ赤になって否定する。
「あ、あのお店、抹茶パフェが美味しいって有名な所って…はるひちゃんが教えてくれてて、でもさっきは見つけられなくて、ここだったのかぁ…って思っただけで!べ、別に入りたいとかそんなんじゃ…!」
「……入りたくないのか?」
「…え?…そ、それは、食べたい、けど…」
「じゃ、入るぞ」
「で、でも、悪いよ!そんな…」
「俺も食べたい。抹茶パフェ」
これで、しばらく彼女といられる理由になると、志波はその店に向かって歩き出した。
注文したパフェは、抹茶アイス、抹茶ゼリーがある中に、小豆や白玉や栗もトッピングされていて、噂通り美味しそうだった。きれいな抹茶色のクリームを口に入れると、甘さと抹茶の苦味が口に広がる。その苦味も嫌な感じではなく、むしろすっきりとしていて、よくはわからないが「さすが京都」という感じがした。
お店の手作りらしい白玉も、つるりとした感触で、これも美味しい。
「…幸せそうだな」
「え、そ、そう?」
「顔がにやけてる」
「だ、だって、美味しいんだもん、コレ!そういう時は嬉しくなるでしょ!」
「まぁ、確かにそうだけどな」
そう言って、くくっと志波は笑う。彼の前にあるパフェも、あかりが注文したものと同じパフェだった。
(ちゃんと、話せてる…よね)
正直、二人でこんな店に入ってしまったら余計に緊張してぎこちなくなった上に、彼に呆れられるのではないかと思ったが、思ったよりも落ち着いていた。
こんな風に彼と話が出来るとは思ってなかった。いや、話そうと思えばいくらでも機会はあっただろうが、あかりは志波には近づかなかった。
自分の傍には、もう瑛がいてくれる。彼と一緒に居られることは幸せなことだと思うし、不満も不安もない。だから、志波への気持ちも忘れられるし、忘れなければいけないと思っていた。それが、今の自分にとっては必要な事だし、瑛に対して出来る事なのだとも思う。
今だって、痛いほどわかっている。
(それなのに、どうしてこのお店、見つけちゃったんだろう)
もちろん、彼が、「以前のように」気安い態度なのはここが甘味の店で、彼が甘いもの好きだからというのはわかっている。自分に気を許してくれているわけではないのだ、きっと。
(それでも)
それでも、私はこんなにも浮かれている。こんなにも嬉しいと思っている。それも、前みたいにただ楽しいだけじゃなくて、胸がぎゅうっと、痛くて。
「…海野」
「ん?なに?」
「ここ、付いてるぞ」
そう言って、彼はほっぺたを指さす。パフェに夢中になって、気が付かなかったらしい。あかりは彼の言う場所を指で探すのだが、中々指に触らない。
「えっと、ここかな?」
「違う。もうちょっと右」
「じゃ、ここ?」
「いや、行き過ぎ。……ちょっとじっとしてろ」
そう言って、彼は手を伸ばし、あかりのほっぺたを、くい、と親指でなぞった。
「え、…わっ」
一瞬、びくりと思わず体が強張り引いてしまった。それは、嫌なわけではなくて単純に驚いて(そしてドキドキして)そうなっただけなのだが、志波は、そうは思わなかったらしい。
何かに気が付いて、そしてほんの少し悲しそうな顔をして目を伏せた。あかりは思わずごめんなさいと言いかけたが、寸でのところでそれを飲み込む。
謝ったりしたら、余計に辛くさせるような気がして、言えなかった。
食べ終わって、店を出ると、夕方特有のオレンジ色の光が街をオレンジに染めている。夕方の京都は、まるで写真を切り取ったみたいにきれいで余所々しく、別世界だった。道を歩く人も、さっきよりはずっと少なくなって、そうすると何となく寂しい。
「もう、手を繋がなくてもはぐれないな」と、彼は笑った気がした。
(…避けられた)
あかりと並んで歩きながら、頭では、さっきの甘味屋での出来事がぐるぐると回っている。
別に、深い意味はなかった。いくら言ってもあかりは見当違いな所ばかりを探るので、代わりに取ってやっただけだ。
顎に手を添えて、親指で付いたクリームを拭ってやった。それだけだ。意味なんて、無いはずだ。
(…いや、俺には意味が、あった)
少なくとも、無意識なんかじゃなかった。
触れたいと、思っていた。
けれど、彼女にとってやはりそれは「怖い」事なのだ。自分が、そうしてしまった。
元に戻れないことは、わかっていたはずなのに。
こんなにもゆっくり歩いているのに、目的地はどんどん近付いてくる。
このままどこか別のところにに行ければいいのにと、叶いもしない事を考えた。
「海野」
「なぁに?」
立ち止まって、志波はあかりを見る。今を逃したら、もうずっと言えなくなってしまうと思った。
彼女は不思議そうな顔をして、自分を見上げている。
「…その、さっきは悪かった。…いきなり、触ったりして」
「さっき?あ…いいよ、ちょっとびっくりしちゃっただけ!志波くん、気にしすぎだよ!」
「いや、さっき、だけじゃなくて…。俺は、俺の方がちゃんと、謝らなきゃいけなかったのに。今まで何も言えなかったなんて、情けねぇよな」
「そ、その事だってもういいよ。私だって…悪かったんだし」
「違う!お前は、何も悪くなかった………本当に、ごめんな。怖かった、よな」
「……もう、いいんだよ」
あかりはそう言って、ふ、と笑った。
「私ね、今日すごく楽しかった。迷ってたの助けてくれたのが、志波くんで、良かった」
そう言って、彼女は自分の両手を取って、胸の前で握った。
「だから、大丈夫だよ。私たち、前みたいにちゃんと仲良くできるよ、ね?」
――前みたいに。「ちゃんと仲良く」
出来るわけがないと思った。こんなにも心が熱くて痛いのに、何もなかったかのように「戻せる」わけがない。
だけど、言えなかった。もうこれ以上困らせるようなことはしたくない。
だから、そうだなと言って、笑おうとした、その時。「あかり!」と、叫ぶ声が二人を遮った。
その声に、あかりは繋いでいた手を、勢いよく離す。
「て、瑛く…」
「こんのバカっ!お前っ、どれだけ探したと思ってんだよっ!」
言いながら彼は近づいて、あかりの頭にびしっとチョップを喰らわした。
「携帯電話入れても全然繋がらないし、何で電話しないんだよ!?もう本当に若王子先生に相談しにいこうかって思ってたくらいなんだぞ!」
「あ、ごめん、携帯忘れちゃってて…」
「あほ娘!お前はもう明日っから携帯に紐つけて首からぶら下げときなさい!お父さん命令です」
「ええ〜っ!?だ、だからホントにごめんなさいってば!!」
「ダメ。散々心配かけといて、見つけたと思ったらへらへら笑ってやがるし、許しません」
「て、てーるーくーん!ほら、ごめんね?」
「かわいくないし…って、お前、地図持ってないのによく帰ってこれたな」
「あ、それは、志波くんが送ってくれたから…」
そこで初めて、瑛は志波の方を見た。彼はしばらく自分の顔を見ていたが、特に不審がることもなく「そっか」と言っただけだった。
「…ありがとうな、志波。……ほら、行くぞ、あかり」
「う、うん…志波くん、またね」
立ち竦む自分の前から、当然のように彼は彼女の手を取り、連れて行く。
「もう俺から離れるなよ」と言った彼の声が、かすかに聞こえた気がした。
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