「この空を思い出に」





2学期。夏休みが明けたとはいえ、空も太陽もまだ夏の勢いを失っておらず、相変わらずの暑さだ。
あかりは久々に西本はるひや水島密と昼食を一緒に取った。会話は、専らそれぞれの夏休みの話に花が咲いた。

「それでな、そん時のハリーの顔がまた傑作でなー?今、思い出しても笑えてくるわー」
「ハリー、お化け屋敷苦手だったんだ、知らなかった」
「じゃあナイトパレードも見た?凄く素敵だったわよね?」
「あれ、密さんも遊園地行ったの?」

ふふ、と嬉しそうに笑いながら密は頷く。
うらやましいなぁ、なんてのんびり言っていると、どんっとはるひがあかりの肩を掴んで引き寄せる。危うくお弁当の中身を零しそうになり、慌ててバランスを取った。
はるひはにやにやしながらあかりの方を見る。

「なぁに言うてんの?あんたかって楽しかったやろ〜?お・う・じ・さ・ま・と!」
「そうなのよ、あかりさんたら佐伯くんとばっかり遊んで…私とは合宿と空中庭園に一回付き合ってくれただけだったのよ?」
「しゃーないて、密ネエサマ。今二人はラッブラブのピンク色やもーん!あぁ、今でも思い出せるわ、あの時のサエテル!かっこよかったーー!!」
「ちょ、ちょっと二人ともっ!」

盛り上がる二人に、あかりは慌てて声を上げる。密はともかく、はるひの声は大きいので、周りに聞こえてやしないかとひやひやした。はるひはちっとも気にすることなく、きらきらした目をしてあかりににじり寄る。

「で、どうやった?どこ行ったん?何があったん?ていうかどこまでいったんっ??」
「は、はるひちゃん!落ち着いてよ。…別に、何もないし。遊びには行ったけど、でもバイトだって忙しかったし…」
「あら、相変わらずあかりさんのことこき使ってるの、あの王子は」
「えっ、ちが、そういうわけじゃないよ!密さんも落ち着いて!」

実際のところ、夏休みはしょっちゅう佐伯と会っていた。バイトもあったが、それ以外でも、佐伯が色々と誘ってくれたのだ。遊園地には行っていないけれど、花火大会には行った。ボーリングにも、水族館にも。
とりわけ、海はよく行った気がする。「珊瑚礁」の帰りにもよく寄り道をした。穏やかに寄せては返す波を見ながら、彼は色々なことを話してくれた。祖父母との思い出、将来の夢、海が見せる色々な表情、そして、彼の幼いころの微笑ましい初恋の話。どれも優しくて、きれいな宝物のような話だった。
いつだって楽しくて、あかりはいつも笑っていた。何も考えずに、ただ佐伯に誘われるまま夏休みを楽しく過ごしていた。

それでも、時々思い出して胸が痛くなる。自覚した分、もう戸惑いはなかった。切なさは増したけれど。

「なぁ、そういえば今度の日曜日、ヒマ?」

思い出したようにはるひがあかりと密の顔を見る。

「ごめんなさい。その日は習い事がある日だわ」
「私は空いてるよ。…何かあるの?」
「うん。野球部の練習試合、見にいかへん?志波やん、復帰したんやって!」

密は、ちらりとあかりの方を見てきたが、あかりは「大丈夫」と目だけで彼女に合図する。密には、夏前の出来事を話していたのだ。
あかりは、はるひにいつも通りの笑顔を見せ「もちろん。応援しに行こう?」と返事をした。



――ずっと、考えていたことがある。



日曜日。空は雲ひとつなく、まさに「試合日和」だった。
あかりは佐伯も誘って来ていた。はるひには色々からかわれたけど、向こうだってちゃっかりハリーを連れて来ていたのだからお互いさまだと思う。
あかりは野球を生で観るのは実は初めてだった。ルールすら詳しく知らなかったのだが、来るまでに一通り観戦に「必要な」用語やルールを佐伯に予習させられた。実は佐伯も本当はあまり知らなかったらしく、それでも何も知らずに観に来るのが嫌で勉強したらしい。負けず嫌いな佐伯くんらしい、とあかりは笑った。

試合が始まって、それぞれのポジションに選手たちが就く。羽学は後攻だったから、守備側だ。あかりは必死で彼の姿を探した。遠くて、見分けるのは難しかった。
けれど、見間違えるはずなんて、なかった。



(……いた)



ユニフォームを着て、仲間に何か声を掛けている姿。こんなに遠くても、彼が真剣な表情をしているのがわかる。
それを見ただけで、泣きそうになった。良かったね、と、心の中で何度も彼に声を掛けた。

良かったね。怪我、治ったんだね。野球、出来るようになったんだね。

時折笑顔すら見せる彼を、あかりはただ一心に見ていた。今の、この風景をいつでも思い出せるように。
彼を思い出すときはいつでも、このユニフォーム姿を思い出せるように。

試合結果は、羽学の快勝だった。試合終了のサイレンが鳴り終わった後、あかりも立ち上がる。
隣に座っていた佐伯に「行ってくるね」と笑いかけた。



野球部の皆は、まだ勝利に喜び、賑わっていた。一歩一歩近づく度、心臓がうるさくなるのがわかる。

(…大丈夫)

きゅっと手の平を握り締めて、まだ背中しか見えない彼に、声をかけた。

「志波くん」

彼はゆっくりと振り向き、自分を見る。驚いたその表情が、あの図書室の時と、一瞬重なる。
それでも、あかりは怖くなんてなかった。自分を見てくれていることが嬉しかった。自分と彼以外の世界は全部遠くへ行ってしまったように感じる。

「…う、みの」
「……試合、おめでとう。怪我、治ったんだね、良かった」

鼓動の音がうるさくて、自分の声も聞こえないくらいだ。気を抜いたら泣きそうになる顔を、無理やりに笑顔にして、あかりは志波に笑いかける。泣いたら駄目だ。今日は笑顔でって、決めていた。
彼は、ばつの悪そうな顔をして、一瞬あかりから目を逸らす。その表情で自分が歓迎されていない事がわかり、それはやっぱり悲しかったけれど、それでも、あの図書室での冷たい表情よりはずっと良かった。

「本当は、もっと早くこうなるはずだったのにね…ごめんなさい。どうしても、もう一度ちゃんと、言いたくて。…今更、謝ったって時間が戻るわけじゃないけど。…許してもらえないのも、わかってる」

彼は、ゆるゆるとあかりの方を見る。その表情からは、彼が何を思っているのか、あかりにはわからなかった。気付かなかった、という方が正しかったかもしれない。あかりは、自分の言葉を紡ぐのに精一杯だったから。

「私、志波くんのことを苛々させて、傷付けて…本当に、最低だった。…でも、ね。応援、してるから。…やっぱり、志波くんは野球してる時が一番楽しそうだし、カッコ良かった!」
「海野…」
「だから……応援だけは、させてね」

もう、こんな風に声を掛けたりしないから。
もう、そんな困った顔はさせないから。

「だから……笑ってて」

そう言って、あかりは精一杯笑った。それから、彼に背を向けて、走った。
そうしないと、戻れない気がした。
走りついたグラウンドの出口に、佐伯が待っていた。いつの間にか、時間は夕方近くになっていたらしい。オレンジ色の光が彼の髪を照らしている。どんな顔しているかは、よく見えなかった。
走っていた、そのままの勢いで、あかりは佐伯に抱きついた。彼も、あかりを受け止めて抱きしめる。

「……戻って、こないかと思った」
「戻るよ。私の、戻る場所はここだもの。佐伯くんの、そば」

目を閉じて、息を吸い込む。佐伯くんの匂い。コーヒーと、海の匂い。
あかりは、佐伯に包まれたまま、「もう終わったの」と呟いた。佐伯にというよりも、それは、自分に言い聞かせる言葉だった。





「もう、志波くんへの恋は、今日で終わるの」











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