「ながいながい夜」
 
 
 
 
  
その日の夜は、眠れなかった。暗い部屋の中で、あかりは膝を抱えたまま起きていた。一体今、何時なのだろう。
  
いっぺんに色々な事が起こりすぎて、どうしていいかわからなかった。しかし、色々な事は起きたが、あかりの頭の中でずっと響いている言葉は二つだけだった。
  
志波くんに近づかないでと言われた。 
お前を守ると言われた。
  
佐伯の言葉は、嬉しいというよりも驚きの方が強かった。そんな言葉を、彼から言われるとは思いもしなかった。けれど彼はある意味、今までの自分を捨てて自分を助けてくれたのだ。それが痛いほどわかっていたから、あの場では何も言う事が出来なかった。
 どうして、こんな事になったのだろう。今度のことでも、階段で志波を怪我させたことも。
 辛い思いをしているのは自分じゃないのに。だから、私が苦しいだなんて思うのは間違ってる。その権利すらないのに。
 
  
――近づかないで。
 
  
(っ…どうして)
  
怪我をさせてしまった自分が行けば、志波はきっと気遣って治療に専念できない、下手すれば平気な振りをして悪化させるかもしれない。だから、本当に志波に悪いと思うならしばらく彼とは距離を置いてほしい。それがマネージャーを担う彼女の言い分だった。
 頭ではわかる。邪魔をしたくないという気持ちも自分にだってある。
  
(でも、近づかないで、なんて。…ううん、それよりもどうして私は)
  
どうして、こんなにも志波の事ばかり考えるのだろう。怪我の様子が気になるとか、改めて謝りたいとか、それもあるけど、それだけじゃない。
 ただ彼に会いたかった。いつもみたいに笑いかけてほしい。話を聞いてもらって、時々頭を撫でてくれて。
 あたたかくて、安心するところ。ずっと、これからもそうなのだと思っていた。だから、気が付かなかった。
  
そうでなくなってからやっと気が付くなんて、遅すぎてバカみたいだ。
  
「……会いたいよ」
  
言葉にすると余計に胸が痛くなって、涙がこみ上げてきた。
 
 
  
次の日、昨日とは違った意味であかりの周りは騒がしかった。 
昨日、佐伯が彼女たちに向けて言った言葉はそのまま「交際宣言」となっているらしく、昨日とは違う種類の好奇の視線が突き刺さる。もう一人の当事者である佐伯はと言うと、普段と変わらず、むしろ吹っ切れたように気楽そうだった。あれから付きまとっていた女の子の数も大分減ったらしい。スッキリしたと本人は上機嫌だった。
  「……ま、しばらくは何か言われるかもだけど、気にするな。…俺の、言った事も」 
「え?」 
「あれはさ、つまりは俺の決心みたいなものでさ…。周りが言ってるみたいな、付き合うとか、そういう事じゃないんだ。…だから、お前がそれで悩んだりすることないんだってこと」
  ぼんやりのお前にはちょっとショックだったか?と、彼はわざと冗談めかして笑う。
  
「だから…今ままで通りにしてろ。変に気ぃ遣ったりするなよ」
  
あかりは、ただ、ありがとうと言った。そして、そう遠くないいつか、彼には自分の気持ちをきちんと正直に言わなければと思った。少なくても、自分が把握できている分は、すべて。
  
とりあえずはその場を離れたあかりの後姿に「…そりゃ、ちょっとは考えてくれれば、嬉しいけど」と、掛けられた言葉は、誰にも聞こえずその場に溶けてしまったけれど。
 
 
  
あかりは図書室にいた。そこに行けば志波に会えると思ったからだ。約束を、忘れたわけじゃない。だけど、一度だけ。それだけはどうしても譲れなかった。少しだけ話をするだけ。それからはもう、邪魔しないから。
  
図書室は静かだった。静かで、まるで別次元に切り取られたみたいだった。それは、そうだ。今は授業中だから。これで志波がいなかったらあかりは授業をさぼってしまった意味が全くなくなるのだが。
 けれど、いる、とあかりは確信していた。根拠なんか無い。だけど、そうだと思えるのだ。
 奥の、窓際の日が当たるところ。志波はそこで凭れかかって眠っていた。会っていないのはたぶん数日だが、それでも随分長い間会っていないような気がして、胸がいっぱいになる。
  近づくと、気が付いたのか、彼は目を醒ましてこっちを見上げた。あかりだと気付くと驚いたらしく、わずかに目を見張る。
  
「海野…」 
「…ひ、久しぶり…」
  
(どうしよう)
  
一応、言いたい事は考えていたし、たくさんあった。謝りたい気持ちや、怪我の具合や、天気が良いことや…とにかく色々だが、彼と目が合ったとたん頭の中が真っ白になって、言葉が出てこない。
 今まで、どんな風に話していたんだろう。それすら思い浮かばなくて、気持ちばかりが焦る。
 とりあえず何か言わないと、と思っていたところに「何しに来たんだ」と志波の声が聞こえた。
 思わず、あかりは固まってしまう。それくらい、彼の声は冷たかった。聞き間違いかと思ったほどだ。
  
「なにって…」 
「話すこともないのに、わざわざ来てもらわなくてもいい」
  
切り捨てるような言い方に、あかりは今度こそ愕然となった。
 
 
  
(違う)
  
こんな事が言いたいんじゃない、と頭では必死に叫んでいる自分がいる。 
久々に、志波は図書室で昼寝を決め込んでいた。あれはするなこれはするなという口うるさいマネージャーから逃れるためだ。自分のためと思ってくれるのは感謝するが、あまりにうるさく世話を焼かれるので一人になりたくて隙をついてここに逃げ込んでいたのだ。
 そうして一人になって、思い出すのは昨日の出来事だった。昨日の廊下での騒ぎ。
  
騒ぎの中心から離れていた自分には詳しい事はわからないが、あかりが数人んの女子生徒に囲まれている事はわかり、そしてそこへ佐伯が割り込んだのも見えた。彼は集団になっていた女達に何やら辛辣な言葉を浴びせ、そのままあかりを連れてその場を去った。しばらくは皆呆けていたが、そのうちに「やっぱりあの二人は付き合っている」という事になり、それまでの静けさが一転し、蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。
  しばらく、志波はそこから動けなかった。まるで夢みたいに現実味が感じられない。こんな悪夢みたいな現実、いっそ夢ならいいと思い、まだそんな風に諦められない自分がいっそ可笑しかった。
  残るのは妙な脱力感とわけのわからない怒りと、強烈な嫉妬。
  それでも、今ここで、彼女に会えて、やっぱり自分は嬉しいと思う。やっと会えたとさえ思った。 彼女が自分のところへ戻ってきたような、滑稽で、馬鹿馬鹿しい錯覚。
  嬉しいはずのに、口から出たのは自分でも驚くほど冷たい言葉だった。彼女は驚いたように目を丸くしている。
  
「し、ばくん…あの、私」 
「お前、佐伯と付き合ってるんだろ?こんなところに来ていいのか?」 
「ちがっ…違うの!あれは…そういうのじゃなくて」 
「何が違うんだ。二人連れだって出て行ったくせに」
  
彼女が違うと焦ったように言う度、自分の中の加虐心が増長する。
  
(もっと、困ればいい)
  
彼女の大きな目が不安げに揺れる。志波はゆっくりと近づいて、壁際に追い詰める。頭の上に腕をつかれ逃げ場を失った彼女は、まるで小動物が怯えるようだ。
  
「志波くん…どうしたの?何か…変だよ」
  
どす黒い、醜い感情が体中を巡って支配している。彼は皮肉気に口の端を吊り上げてみせた。
  
「…まったく、怪我して損だよな、俺は」 
「な、何言って…!」 
「俺じゃなくて、佐伯だったら良かったのにって、思ったんじゃないか、お前」 
「やめてよ!そんなの、考えたこともない!」
  
涙を目にいっぱい溜めて抗議する彼女の姿は、きれいだと思った。それから、誰にも渡したくない、とも。
  
やめろ、と頭の中でもう一人の自分が必死に止める。これ以上は、ダメだ。 
けれど、止まらない。止められない。
  
今、ここで手を離したら、もう捕まえることはできない。
 
  
志波は、手をのばして、彼女の頬にそれを添える。何かに気づいた彼女が手を突っぱねようとしたが、そうされる前にもう片方の腕で押さえつけて、彼女の口唇に、自分のそれを重ねた。
 自分でも何をしているのかよくわからない。ただ、その感触は想像以上に甘く、いつの間にか夢中になっていた。何度も味わうように口づけていたが、一瞬、押さえてる腕を緩めた時に、思いきり押されて、彼女は自分の腕の中から逃げ出した。怒るというよりは、信じられないというような哀しげな顔をする彼女の顔を見て、やっと自分のしでかした事に気付く。
  「……あ…」 
「…っ!」
  
彼女は何も言わず、そのまま走って図書室を出て行った。
  
残された自分には、もう何も残ってなかった。ただ、じわじわと絶望的な悲しみが自分への怒りとともにこみあげる。
  
「……くそ…っ!」
 
 
  
大声で叫びだしたいような気持ちを、そのまま拳にのせて壁に叩きつける。 
痛みは、感じなかった。 
  
 
 
 
 
 
 
  
次へ
 
 | 
 
 
 
 |