「何もかも、唐突に」
最近、海野あかりに会っていない。
あの「事故」以来、志波は志波なりに色々とあった。
まず、怪我したその日、親が迎えにくるのを病院で待っていた志波の携帯にあかりから連絡があった。
何事かと思えば、どうやら彼女の母親に事の経緯を話したところ、自分に謝りたいと言って聞かないらしい。
その話も途中で途切れ、あかりの声にそっくりな涙声が耳に飛び込んできた時には本当に驚いたし戸惑いもした。
そこから伝わる雰囲気から、きっと似た者親子なんだろうなとぼんやり思ったが、
家に来ると言われた時には我に返り、慌ててその申し出を(自分なりに)丁寧に断ったのだった。
(後から迎えに来た母親に事情を説明したところ、連絡を入れてくれて事なきを得たらしい。
何だかかわいらしい感じの親子だったわ、と母は呑気な感想を述べていた)
次の日は、野球部の監督と、部員の皆に怪我の説明をした。監督と、部員の何人かは既に事情を知っていたらしく、「気にするな」と言ってくれた。その暖かな反応に嬉しく思いつつも申し訳なさも余計に感じた。
そう、怪我をして、一時的にとは言え野球が出来ないというのは、やはり自分自身でもショックだった。
幸い、足は骨も筋も異常はなく、無理をしなければ夏には元のようにできるという話だったが、
それは、野球をする歓びを取り戻した自分にとっては途方もない時間に感じられた。
「焦ることはない」と、若王子先生も、野球部の皆も言ってくれたけれど、言われるほどに、それは募るような気がした。
もちろん、周りの自分を案じてくれる気持ちはわかっている。
掛けられる言葉の意味もわかっている。
それなのに、こんなにも落ち着かない気持ちはどうしてだろう。
(野球…だけか。本当に)
本当にそれだけで、自分はこんな気分なのだろうか。
(会いたい)
あかりに会いたかった。会って、話がしたかった。内容なんてどうだっていい。彼女の言葉なら、彼女の声なら何だっていい。あかりの笑顔が見たかった。
しかし、会いたければ会いに行けばいいだけの話だが、今のところそう簡単にはいかない気がした。
あかりは自分が怪我したことに関して、かなり気にしている風だったし、理由もないのに会いに行けば、
彼女はまた余計な心配やら勘違いをしそうだ。
彼女にこれ以上申し訳ないような顔をされるのは心苦しかったし、
更に言えば、怪我をして以来、野球部で世話になっているマネージャーがあれこれと世話を焼いてくれて(同じクラスでもあるから余計にだ)、それは有難い事だと思っているが、結果として自分の好きなようには動けないのだった。
本当は、彼女が会いに来てくれれば一番都合が良くて、嬉しいことなのだけれど、今のところそれもない。
いくらなんでも良い風に期待しすぎだと、自分に言い聞かせるのだが、同時に、来ないのは自分の事など何とも思っていないからじゃないかと、くだらない不安に駆られる。
いや、特別な感情なんて前から無いことはよくわかっている。それでも、こんなに不安になったことはなかった。何のことはない、彼女自身の中にそれを向ける相手がいないと思っていたからだ。
今、学校では噂になっていることがある。
佐伯瑛と海野あかりが付き合っているらしい、という噂――正確には、彼ら二人が防波堤の傍を一緒に歩いていた、というだけの話だが、人物が人物だけに、話が回っているうちにそんな内容になったらしい。
だが、それは針谷が彼女自身に確かめたところ「付き合っている」という部分はガセだったという話を聞いた。ただ、「一緒に歩いていた」という部分は本当らしかった。
その時、針谷は「どうせアイツの事だから偶然会ったとか、そんなんだろ」と気楽に言ってくれたが、志波は偶然なんかじゃないと直ぐに思った。彼は、あの二人が同じ店でバイトしている事を知らない。
思い起こせば、彼女が佐伯を気にしている感じは、無くはなかった。去年あの二人は学校でも同じクラスだったから何かと関わることも多かっただろう。
それと、今回の噂。いや、一緒に歩いていたという事実だけでもいい。
好きな人はいるのかと聞かれた。彼女自身は「いない」と笑った。
(…今は、どうなんだ)
別に、「特別な」好きな相手がいて、俺は「仲の良い友達の一人」で。
それは嫌だ、と心が叫ぶ。
そんなのは許せない、認めたくない。彼女は自分のもので、だから他の誰にも渡さない。渡したくない。
まだ、気持ちを伝えてもないくせに、いっぱしに嫉妬だけは感じるなんて自分勝手もいいところだと笑いたくなる。それでもこの気持ちは薄れる気配はなく、強まる一方だった。
胸が焦げ付くような黒い感情の強さに、自分自身ですら戸惑う。野球以外でこんなにも強い感情を持ったことがなかった。もうそれは自分とは別の意思を既に持ち、動きだしそうで怖くなる。
そんなことを思いながら教室で過ごしていると、何やら廊下の方が騒がしいことに気付いた。自分には関係ないとやり過ごそうとしたが、野次馬な連中の言葉の切れ端に「…佐伯の」というのがあり、何となく予感がして、結局は廊下に出ていた。
どうせ下らない、どうでもいいことだと思いながらも、目だけは注意深くその騒ぎの中心に向ける。ただ一人の姿を、彼は捜していた。そして、見つからなければいいと、心底思っていた。
あかりは、向けられる視線の強さに圧倒されて、声も出せなかった。
考えてみれば、ここまで敵意を持って見られることはほとんど経験がない。
彼女たちは隠すことなく怒りと苛立ちと、そしてほんの少しの羨望を顕わにして、あかりを見据える。
彼女たちの顔は、何となく見知っていた。佐伯をいつも追いかけまわしている集団の中心にいる子達だ。囲まれてしまった理由も、心当たりが無くはない。ただし、全くの誤解だったのだが。
初め、彼女たちは例の噂の真相を確かめに来たのだ。あかりは正直に違うと言ったのだが、彼女たちはそれで納得しなかった。
「じゃあ、どうして佐伯くんと一緒に歩いてたの?」と聞かれた時、あかりはうまく答えられなかったのだ。
彼女たちはハリーのように偶然、だなんて言ってもきっと引き下がらないだろう。けれど、正直に説明することは出来なかった。
そんなことをしたら、佐伯が「珊瑚礁」で働いていることがバレてしまう。それは最悪の事態だ。それだけは絶対に出来ない。
彼が大切にしているものを、踏みにじるような事だけはしたくない。しかし、あかりのそのはっきりしない態度が、彼女たちの猜疑心に火を点けてしまったらしい。
「抜けがけなんて、いい度胸じゃない」
「佐伯くんが、アンタなんか相手にするわけないでしょ」
「すんごい迷惑。ていうかジャマ?佐伯くんにとってもアタシ達にとっても」
「ちょっと。何とか言いなさいよ」
突然、自分を囲んでいる一人に肩を押された。それほど強くはなかったが、後ろに体がぐらついて倒れそうになったところを何とか踏みとどまる。
「アンタさぁ、こないだハデに転んだじゃん?」
「もう一回落ちてみる?今度は誰も助けてくれないけど」
きゃらきゃらと嗤う彼女達の声に、ぞくりと背筋に悪寒が走る。本気でやりかねないような雰囲気に、今度こそあかりは恐怖を感じた。
何とかしなければ、そう思うものの、どうしていいかわからず、動けない。
立ち竦むあかりの腕を、彼女らの一人が強く掴んだ。そして、そのまま勢いで引っ張られそうになる。
「何してるの」
その声は、よく知った声だった。けれど、まるで全然知らない声のようだった。
穏やかなのに、冷えびえとしたそれは、彼女たちにとっては脅威だったろう。
「もう一度聞くけど……何、してんだよ」
王子様は、まるでその辺にいそうな感情的な男子高校生みたいな顔で、彼女たちの前に立っていた。
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