「偶然の仕打ち」





階段から落ちたところを志波に助けられてから数日、あかりの周りはちょっとした騒ぎだった。

まず、家に帰るなり学校から連絡を受けていたらしい母親が泣きそうな顔で出迎えてくれた。 そして志波のことを話すと更に血相を変え、「志波くんのお家へ謝りにいく」と言いだした。 けれど、家も知らないし、とりあえずその事を志波に伝えると彼も驚いて「その必要はないから」とあかりにも、途中無理やりあかりから電話を奪ったあかりの母にも言った。
(母はそれでもまだ納得がいかなかったらしいが、それからすぐ、志波の母親から直接連絡があり、あかりの母は泣きだす勢いで謝罪し、その後あかりも電話越しに謝った。彼のお母さんにも、あなたに怪我がなくて良かったと言われ、また泣きそうになった) そして、学校に行くと友人たちに囲まれて口々に心配していた事を告げられ、あかりは申し訳ない気持ちでそれを受け止め、そして「もう大丈夫だから」と出来るだけ笑顔で返した。
それから若王子先生に会いに行き、やっぱり心配をかけたお詫びと、そして病院までついてきてもらい、更に家まで送ってもらったことのお礼を言った。 先生は「これからは、海野さんの荷物は先生が持ちます」と冗談めかして言った後、「あまり気にしないようにね」と言ってくれた。あの時、病院に着いてとりあえず志波が大丈夫だとわかるまで、ずっと泣いていた事を気遣ってくれているのだと思う。
みんな、自分を心配してくれている。それは素直に嬉しかった。そして、それに応えるべく、自分は早く立ち直らなければいけないと思う。怪我だって、志波が守ってくれたおかげでほとんど無傷だった。それほど難しくはないはずだ。

(……志波くん)

あれから、彼には一度も会えていない。会いたい。
本当は、友達よりも先生よりも誰よりも早く彼に会いたかった。けれど、出来なかった。足がどうしても進まない。
あの時の、生気を失ったように目を閉じたままだった彼の顔が、頭に焼き付いている。

(どんな顔して会えばいいか、わからないよ…)

思わずため息をつくと、「おうおう、なーんかシケた面してやがんな」と明るく通る声が頭の上から降ってくる。気づいて見上げれば、よく目立つ赤いシャツとリングの付いたネックレス。

「ハリー…」
「ったく、いつまでケガ人ぶってんだ。いい加減元気だせ!こっちまで凹むだろーがっ」
「…ご、ごめん。何?何か用事だった?」
「…お、そーだ。お前に客。誰か知らねーけど、お前に用だってさ」

ぐいっと面倒そうに親指を背後にやり、ハリーは教室の出入り口を指し示す。そこには、見覚えのない女生徒がこちらを窺っていた。

「……?誰だろ…?」
「…さぁ?っと、待て、あかり!お前にちょっと聞きてぇことがある」

立ち上がり、出入り口の方へ行こうとするところを突然後ろから引っ張られた。あかりの顔のそばに、ハリーも顔を寄せ、声を潜める。

「なぁ、お前さ、佐伯と付き合ってるってのはマジか?」
「え……えええぇっ!?」
「ぎゃあぁっ、てめっ…耳元でデカイ声出すなっ!!」
「だ、だって!ハリーが変なこと言うからじゃない!」

ハリーが飛びのいて文句を言ったが、あかりも負けじと言い返した。驚くなと言う方が無理だ。そんな突拍子もない話、一体どこから出てきたのか。
あかりの反応を見たハリーは「ま、その反応ならやっぱガセか」と一人で納得したように頷いている。

「どういうこと?どうして私と佐伯くんが付き合ってるなんて…」
「俺が知るかよ。ただ、噂にはなってるぜ。西本がどっかで聞いてきて教えてくれたんだけどよ… おまえと佐伯が防波堤のトコ二人で歩いてたらしいって話」

防波堤。その単語に、あかりは、はっとなる。そういえばここのところ、「珊瑚礁」でのバイトの帰りに何度か家まで送ってもらった事は、あった。その時、防波堤の傍の道は確かに通り道だ。

「……確かに、一緒には歩いてたけど…。でも、それでどうして私と佐伯くんが付き合ってることになるの? あれは…その、偶然会っただけなのに」

バイトの帰りだったことは、黙っておく。ハリーを信用していないわけじゃない。どこに耳があるかわからないような所で迂闊に店の話は出来ない。

「仕方ねーよ。何たって皆の王子サマだからな。…何もないならいいけど。お前も気ぃつけろよ、それでなくてもぼやぼやしてんだから」
「…気をつけるって?」
「無邪気なのはケッコウだけど、そう取ってくれる奴ばっかじゃないってことだよ。…悪りぃ、引き止めて。行けよ、待たせてるだろ?」

そう言って、早く行けと言わんばかりにハリーはあかりに向かって手をひらひらと振った。



「ごめんなさい、呼び出したりして」

そう言った彼女は、自分は野球部のマネージャーなのだと、あかりに自己紹介した。
野球部。その言葉に、あかりは無意識に息を呑む。
運動部のマネージャーという割には、彼女の雰囲気は静かで大人しそうなものだった。 けれどもあかりを見つめるその目には強そうな意思が感じられる。
自分も改めて自己紹介をするべきだろうか、でも、何だかそんな和やかな空気でもないし。
どうしていいかわからず視線を彷徨わせていると、「時間は取らせないから」と静かに前置きし、彼女は口を開いた。

「私、あなたを許せないの」

静かに、淡々とした口調で彼女は言った。ただ、事実を述べたかのような平坦さ。怒り任せでも、涙ながらにでもない。 …そして、そう言われた方がきっとずっと楽に違いないとあかりは思った。
マネージャーだと、自己紹介した時から一度もその表情が動くことはない。それは、威圧すら感じた。

「勝己くん、レギュラーになるために凄く頑張っていたし…きっとなれたわ。あの怪我さえなければ」

静かなのに、その言葉はあかりの胸を突き刺すかのように響く。

「……あなたのせいで、全部無駄になった」

無駄になった、というところで、ほんの少し彼女の語気が強まり、けれどそれによって、いかに自分に対して怒りを感じているかというのを思い知らされた気がした。

言いたいことが、無いわけではなかった。謝りたいとも思うし、けれど、あれは自分にとっても思わぬことだったのだという、多少なりの弁解もあった。
だが、どれをとっても、今の彼女の言葉の前には何の意味もない気がする。
困り切って何も言えずにいると、彼女はほんの僅かに顔をしかめて「ごめんなさい」と言った。そんなことを言うつもりじゃなかったの、とも。

「…確かに、今すぐにレギュラーになるのは無理だけど、だからって治らない怪我じゃなかったから。時間は多少かかっても、復帰は出来るの。…それを、伝えたくて」

彼女を取り巻く空気が、少し緩んだのを感じて、あかりはほっとする。
それから、あかりが言葉を挿む間もなく、彼女は「それで、お願いがあるの」と言った。

「…お願いって、私に、出来ること…?」

思わず、顔を上げて聞き返す。自分に出来ることなら何だってしたい。あかりは素直にそう思ったのだ。
それが他でもない、志波のためになるのなら何でも出来る。彼が自分を庇った代償は大きい。それを少しでも軽くできるなら、どんなことも。
彼女は、少し目を伏せ、それからまたもう一度、あかりの方を見据えた。
そして、はっきりとそれを口にする。



「……勝己くんに、もう近づかないでほしいの」









次へ