「白い部屋と子供たち」





目を開けて、一番に見えたのは白い天井だった。
鼻をつく、消毒液のにおい。静まり返った部屋。 自分がベッドに寝かされているのだという事実に気が付くまでに、ずいぶんと時間がかかった。
まだ、どこかぼんやりとしている。

「やや、気がつきましたか、志波くん」

聞き覚えのある声に呼ばれ、志波はゆっくりと声がした方に顔を向けた。

「…若王子、先生」

白衣を着た彼の姿を見て、何となく、志波は安心する。そして、ゆっくりと記憶をたどり始めた。
覚えているのは、廊下。重たそうな書類を抱えて歩いていた、海野あかりの姿。

(そうだ、海野――)

あの時、声をかけようとした瞬間、目の前で彼女の体がぐらりと倒れた。
倒れる先が、階段だと視界の端で見て、ぞっとしたのを憶えている。とにかく、夢中で手を伸ばしたのだ。そこからは…よくわからない。

「…ここはね、病院です。君は、海野さんと階段から落ちて…、ちょっと意識が飛んじゃってたので、ここに運ばれたんです」

若王子先生は、普段より更にゆっくりとした口調で説明してくれた。病 院なのに、先生は学校にいる時のように白衣を着たままで、よほど慌てていたらしい事がわかる。

「海野さんは、君が庇ってくれたお陰でほとんど怪我もありませんでした。君は…まだ詳しくはわからないけど、軽い脳震盪をおこしてたらしいです。あとは…」

そこまで言って、彼は何故か言葉を濁した。

「…足を、怪我しています」

その言葉に、志波は殴られたような衝撃を受ける。
言われてみれば、右足に違和感があった。あと、鈍い痛みも。

「幸いだったのは、骨や神経には異常が無かったことですね。だから、しばらく安静にしていればもちろん元のように治ると、お医者さんも言ってました…けど」
「安静にって、どれくらいですか?」
「志波くん…」

聞きたくもない、けれど最も重要である事を、志波は口にした。

「俺は、どれくらい野球ができないんですか」

先生はしばらく志波の顔をじっと見ていたが、「気持ちはわかります」と零した。

「僕だって、陸上部の顧問をやっていますから。普通のひとにとっては大した怪我でなくても、スポーツ選手にとっては絶対安静です。それがどんなに気持ちを焦らせるかも、少しはわかっているつもりです」

そして、今言っているこの言葉が、気休め程度にしかならないことも。
わかってはいたが、だからといって言わずにはいれなかった。普段、あまり表情を出さない彼が、泣きそうな顔をしているから。

「でも、焦ってはだめだよ。焦る必要なんか、ないんだから。今までやってきたことが無駄になっただなんて、絶対に思わないで」

ぽん、と彼の肩に手を置いてから、若王子は座っていたパイプ椅子から立ち上がる。「海野さんを呼んできます」と彼は言った。

「志波くんに、どうしても会って謝りたいって…。会ってくれますか?志波くん」
「…謝るなんて、俺は、別に…」

そんなつもりはなかったと先生の顔を見上げると、彼は困ったように「うん、わかるよ」と笑った。

「でもね、きっと心配なんだ。顔を見せてあげるつもりで、ね?…知らないだろうけど、 海野さん、君が目を覚まさないものだから、ちょっとパニックになっちゃって、さっきまでずっと泣いていて …や、ただの通りすがりだった先生もちょっと大変でした」

そこまで言ってから、先生は「あ、大事なことを言い忘れてました」と、もう一度志波の方に向き直る。

「海野さんを助けたこと、偉かったです。…志波くん、ありがとう」

若王子先生と入れ替わりで入ってきたあかりは、志波の姿を確認したとたん、走り寄ってきた。
目は真っ赤になって腫れていて、ひどい顔をしている。随分心配させたらしいと思うと、胸が痛んだ。

「ごめっ…ごめんなさい志波くん!わたしっ…わた、しがっぼんやりしてたせいで…こんな、怪我…っさせちゃ、ってっ…」

志波の腕にしがみついて泣きじゃくる彼女の頭を、空いている方の手でぽんぽんと撫でてやる。

「…おまえが、怪我しなくて良かった」
「ホントにっ、怖くて…志波くん、死んじゃったかも、て…」
「あれくらいで死ぬわけないだろ」

ずいぶんと大袈裟な話に思わず笑うと、「笑いごとじゃないんだから!」と怒ったような声が返ってきた。

「呼んでも、目、開けないし、動かないしっ…顔色悪かったし…っ、怖くて、どうしていいかわかんなかった…私のせいで、 こんな、なっちゃったんだ、って…こわかった…」
「…心配かけて、悪い」

そう言葉をかけると、「違うの」と弾かれたように彼女は顔をあげる。

「志波くんは、悪くなんかない。悪いのは、私だよ。こんな怪我させて…野球、できなくさせて…」
「…そんな顔、するな」

すい、と彼女の頬に触れる。手が、彼女の涙に触れて濡れた。
濡れた彼女の瞳は、自分だけを見ている。

そうして、自分のために泣いてくれていることが、申し訳ないとは思いつつも嬉しいのだと言ったら、彼女はまた怒るだろうか。





彼女は消え入りそうな声で「ごめんなさい」ともう一度呟いた。







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