「うごきはじめる。」
新学期。
担任はまた若王子先生だった。
佐伯とはクラスが離れてしまったが、今回同じクラスなのはハリーとクリスで賑やかそうだ。
残念なのは密さんと同じクラスになれなかったこと。はるひも残念がってた。今回、仲の良い女の子は誰も同じクラスになれなかったのだ。
でも、クラスは違ってもまた遊びに行くからとお互い約束してその場は別れた。
あかりは、もう一人、気になる名前を貼り出された掲示板から探す。
(志波くんは…うわぁ、結構離れてるなぁ、クラス)
ほとんど、端と端くらいに離れている。これじゃ、すれ違うことも無いくらいだと、少しがっかりする。
(…どうしてかな、私)
先日の森林公園以来、何となく彼のことを考える時間が増えた。原因はわかっている。何気なく聞いた、あの質問の答え。
――「…いる」
(…志波くんも、好きな人いるんだ)
好きなひと、と言われると真っ先に思い浮かぶのは密の顔だった。遊園地で見た切ない、きれいな顔。
あんな風に、彼も誰かに恋をしているのだろうか。
(私の知ってる子かな)
好きな人がいる、以上の事をあかりは聞かなかった。無遠慮にそんなことを聞くのはとても失礼な気がしたし、少し怖いような気持ちもあった。
聞いてしまったら、それまでのように彼と付き合うことはできなくなる気がしたのだ。自分でも、わからないけれど。
「なぁに落ち込んでんだ、志波!なんだ、そんなに俺様と離ればなれになったのが寂しいか?」
「……違う」
テンション高く肩をばしばし叩いてくるハリーにうんざりしつつ、志波は呻くように答える。
屋上でサボっていたところ、ハリーが弁当抱えてやってきたのだ。会話早々、最も気にしていた事を言われれば不機嫌にもなる。
ハリーと離れてしまったことではない。それはつまり、海野あかりとも離れているということだ。
同じクラスになれる確率はそれほど高くはないとあまり期待していなかったが、それでも、まさかこんなにも遠いクラスに在籍する事になるとは、全くついてない。
「こんだけ離れてるとさぁ、合同授業とかもねぇしなぁ、体育祭でも別チームだな」
「…おまえ、何しにきたんだ」
「まぁでも、クラスが離れてるからって心配すんな。俺様がきっちり見張っててやっからよ」
「……!?」
まさかと思い、思わずハリーの顔を見ると「んなの、わかるにきまってんだろ」としれっとした顔をしている。
「いつから…?」
「さーぁ?でもそうだな、一年の、三学期始まったあたりでは絶対だなって思ったな。他の奴らは気がつかなくても、このハリー様にはわかるぜ。だって俺ってば天才ミュージシャンだからな!」
「……」
あまりの事に声も出ない。天才ミュージシャンがどう関係あるかはともかく、自分以外に気持ちを知られていたというのは、何というか、物凄く居たたまれない気分だ。
「だから、落ち込んでるだろうと思ってこうして慰めにきてやったんだろ。したらマジでこんなトコいるし」
「別に…落ち込んではない」
「ふぅん?そっかぁ?まぁいいけど。あ、言っとくけど同じクラスだからって野暮なマネするつもりはねぇから安心しな。協力はするつもりだけど」
そう言って、親指を立てて見せるハリーのことを、志波は良い奴だなと思いながら笑い返した。
「けど、ぼさっとしてっと他の野郎にとられちまうぜ?あいつ、結構人気あんだってよ。西本が言ってた」
「…へぇ」
「何つーの?イヤシケイ?とか何とか…癒されるかぁ?って思うけどさ」
「それは…わかる」
「マジでぇ!?つか、お前マジなのなー、顔がやっべぇぞ」
志波が恋する乙女になってんよ、とハリーは笑っていたが、不意に笑いを引っ込めて志波の方に向き直る。それまでとは違う真摯な顔つきで、自分を見ている。
「俺はさ、お前も、あかりも気に入ってんだ。だから二人がうまくいけばそれはそれですげー嬉しい。だから、応援する。何かあったら頼れよ」
うまく行ったら何かおごれよ、と彼はもう一度笑った。
さすがに午後の授業は出るか、と屋上から降りる。廊下は授業中とは違い、何だか人が多い。新学期のせいもあるだろうか。
海野あかりの姿を見つけたのは偶然だった。彼女は重そうな書類を抱えて向こうから歩いてくる。
姿を見ることができたのは嬉しかったが、
あんなにたくさんの量を、一体誰に頼まれたんだかと、彼女にあれを押し付けた相手に腹を立て、それを引き受けてやる彼女にもほんの少し呆れた。
これから針谷に、彼女に重い物を持たせるなと言ってやろうか思ったほどだ。
声をかけようかと思ったが、人も多いし届きそうにない。
彼女はふらふらと歩いていて、誰かにぶつかりそうで危なっかしい。早く手伝ってやらないと、と、少し急いで歩く。
(うぅ…前が見えないよ)
重たい紙の束を両手で持ちつつ、あかりは廊下を歩いていた。つい通り掛かっただけなのに、こんな重い荷物を頼まれるなんてついてないな、とあかりはため息をつく。
気を緩めると落としてしまいそうになるそれを、手にかかる重さと戦いながら、なんとか持って前に進む。
今日はなんだか廊下も妙に混んでいて歩きづらかった。気をつけないと誰かにぶつかって全部取り落とすという惨事を招きかねない。
気をつけないと、と、落ちそうになる書類を持ち直そうと立ち止まった時、だった。
どん、と体の片側に衝撃が走る。それが誰か急いでいた人がぶつかったのだというのは、その時のあかりにはわからなかった。
普段なら特に問題はなかったろう。少し痛いと思ってもそれで済む話だ。
けれど、今は両腕がふさがっている。そして運の悪いことに、飛ばされた方向は壁ではなく、下りの階段だった。
体ごと、ゆっくりとそこに吸い込まれていくような感覚。反転する世界。
手は、まるで自分のものじゃないように動かせなかった。何にも逆らえず、ただ落ちていくだけ。
(…落ちる!)
やっと頭でそれを認識し、階段を落ちていく時の衝撃と痛みを思いながら、ぎゅっと目をつぶることしか出来なかった。
目の前は真っ暗で、けれど、遠くで誰かが自分の名前を呼んだ気がする。
瞬間、何が起こったかまるでわからなくなった。
一瞬なのか、それともとても長い時間なのかわからないような感覚の中、あかりはうっすらと目を開ける。
ゆっくりと、手や足を動かしてみて、その感覚が戻ってくるのがわかった。大丈夫、動く。どこも痛くない。
起き上ろうとしてついた手には、冷たい床ではなく、別のあたたかいものが当たった。どうして、と思いよく見るとそれは、腕だった。
自分を庇うように、投げ出された腕。
そしてようやく、あかりは自分以外にも誰か一緒に落ちたのだという事に気がついた。そして、その人が庇ってくれたおかげで、怪我の一つもしていないのだと。
どくりと、嫌な予感に心臓が悲鳴を上げる。だって、この腕は、知ってる。あたたかくて優しい、助けてくれる腕。
「…しば、くん」
平気だと言って、すぐに起き上がってくれるのだと、頭のどこかではまだ思っていた。
「ね、え…しば、くん。志波くんってばっ…」
いつもみたいに、大丈夫だと言ってくれると、そう思ってた。
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