「うわぁ、すごい!きれい!」
目の前に広がる桜色の景色に、彼女は歓声をあげる。
「リナリア」
子供のように駆けだすあかりに、志波は「転ぶなよ」と呼びかけつつ自分も上を見上げた。
今、森林公園は桜が満開だ。花はどの木にも、そして枝先までついており、風が吹く度、ひらひらと花びらが舞う。
普段それほど花に興味が無くとも、ここまで美しく壮麗な風景には目を奪わずにはいられない。
目を輝かせて桜を見上げるあかりを見て、今日来れて本当によかったと、志波は思った。
「こんなに綺麗に咲いてる時に見れるなんて…志波くんが声掛けてくれたおかげだね」
「毎日走ってるからな、この辺。大体の時期はわかる」
「そっか…」
うっとりと桜に見惚れるあかりの横顔を、志波は隣でじっと見る。
ゆっくりと彼女に会えたのは随分と久しぶりだった。あのバレンタインの日以来じゃないだろうか。
学校では話せても二人きりではないし、春休みになってからも野球部の練習、そして練習試合と忙しく、何とか今日、花見にかこつけて二人で会う事が出来た。
「…春休み、志波くんどうしてた?やっぱり練習、かな?」
「あぁ、そうだな。試合もあったしな」
「えっ、試合!?言ってくれれば応援しに行ったのに!!」
「そうか?でも、それには俺は出ていない。レギュラーじゃないからな」
「なっ、なんで!?志波くん、すごかったのに…」
驚く彼女に、自分は途中入部だから、今年は試合には出れなかったのだと説明する。
けれど、しばらく野球から離れていた自分にとっては調子を取り戻していく為の必要な時間だったのだから、むしろ良かったのだと付け足す。
「それに、思ったほどは気にしてない。走っても筋トレしても、今はちゃんと「野球の為だ」って思えるから。
……それまでは、正直どうして鍛えてるのかわからなかった。ただ、勝手にそうしてしまう。嫌でも、忘れなくて」
そこまで言って、何となく志波はあかりから視線を移す。そう、去年もここを走っていた。けれど、どんな景色だったかなんて、全く思い出せない。
何も見ていなかった。どうでもいいと、全てが色褪せていた日々。あの頃、こんな風に変わるだなんて思ってもみなかった。
「なれるよ、絶対。すごく頑張ってるもん。私、応援してる」
「…サンキュ」
動き始めたのは、彼女と出会ってから。変われたのは、彼女がいたから。
感謝してる。でも今は、感謝だけじゃない。別の、新しい感情が育っている。
ゆっくりと、けれど着実にそれは根付いて、そして。
(…そして―)
「ねぇ志波くん」
「…ん?」
物思いに沈んでいた意識を、あかりの声に呼び戻され、志波は顔をあげる、そうして見た彼女の顔は、何故だかちょっと困ったようで、少し赤い気もした。
まさかまた熱でも出たのかと不安になったが、どうやらそうではないらしい。
「…あの、場所変えない?」
「…桜、もういいのか?」
「あ、そうじゃなくて…その…桜はきれいだし見ていたいんだけど…あの」
ちらちらと周りに目を向ける彼女につられ、志波も辺りを見回し、そして、彼女の態度の理由を知った。
知らない間、周りには何組かのカップルが来たらしい。しかも、その誰もが世界にお互いしかいないような雰囲気だった。あかりはそれが恥ずかしいらしい。
「…そんなに気になるか?」
「きっ、気になるわけじゃないけど!ええっと、その、何て言うか……し、志波くんは平気?」
「別に。向こうだって、どうせ俺達の事なんて見てないだろうしな」
むしろ、心底羨ましいというものだ。
「ま、まぁ…それもそっか。折角だし、もう少し桜、見たいしね」
「あぁ、気にするな。同じようにしたいってなら協力するけどな?」
「も、もうっ!またそんな冗談!!からかわないでっ!!」
真っ赤になって否定する彼女に、冗談ってわけでもないんだけどな、とは心の中でだけ呟き、志波は苦笑する。
「…でも、ちょっと羨ましい、ね」
「…え?」
いまだに顔を赤くしている彼女の言葉に、言葉が詰まる。それは、一体どういう意味なのだろう。
「だって、ああいう風に二人でいられるのは、お互いに…、その、好きってわかり合ってるからでしょう?それって、いいなぁって。だってそれって、考えてみたら凄いことだもんね」
「…まぁ、そうだな」
「きっと、幸せなんだろうなぁ…」
「…いるのか?」
「え?」
「そういう風に、なりたいって思う相手が、いるのか?」
逸る気持ちを必死に抑え込みながら、志波はそれを口にした。ちらりと、一人の男の姿が頭を掠める。
(佐伯―――)
けれど、あかりは慌てて、「そんなのいないよ」と笑った。
「でも、この間、…友達の恋バナ…みたいのを聞いたばっかりで。ちょっといいな〜って思っただけ」
「…そうなのか」
「私もいつか出会えるかなぁ…。今まで考えたこともなかったけど」
「……さぁ、どうだろうな」
出来れば誰にも出会わないでほしい、…自分以外とは。
それでも、彼女の心には今のところ誰も居ないのだという事に、胸を撫で下ろす。
ざあっ、と、風が少し強く吹いて枝を揺らした。花びらが、ゆらゆらと二人の上にも降ってくる。
「…志波くんは?」
「俺?」
「志波くんは、好きな人、いる?」
「……」
向けられるのは、曇りのない、まっすぐな目。この目を見ると、何故だか泣きたくなる。
ひどく心細くなって、弱くなって、そのくせ自分以外には向けないでほしいと思っている。自分以外は誰も映さないでほしいと、こんなにも願っている。
そんな想いが一気に湧き上がって、うまく言葉にならない。伝えたい気持ちを口にすることが、こんなにも難しいことだなんて、今まで知らなかった。
「…いる」
ぼそりと、それだけを口にした。喉はカラカラに乾いて張り付くようだ。あかりの表情は、すぐには変わらない。けれど、ゆっくりと、それが大きく見開かれるのがわかる。
彼女に手を伸ばして、髪に触れた。指に触れる感触はさらさらと軽い。
「……でも、自分でも時々どうしていいかわからなくなくなる」
(伝わればいいのに)
こうして、触れるだけで何もかも伝わればいい。
(………なんて、都合のいい事あるわけないよな)
ふっ、と、わざといたずらっぽく口元を歪める。
「まぁだから、よくわからないって話だ」
「…えっ、えっ?そ、そう?そういうこと?」
「……花びら、付いてたぞ」
「あっ、ありがと」
そろそろ行くか、と立ち上がる志波に、あかりも慌てたようにそれにならう。
彼女の髪に付いていた花びらを、そっと握りしめた。
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