春。

あたたかな光は、この少しほこり臭い図書室にも分け隔てなく降る。

静かな時間。志波は入学して以来、ここでよく過ごしていた。無論、目をつけられない程度に授業には出ているが、まだお互い新しくて慣れない周囲の落ち着かない空気は、あまり居心地のいいものではない。
それに、どこか他の校舎からは遠ざかっているような独特の静けさは志波をほっとさせていた。ここには何もない。何にも煩わされずにすむ。

時間が止まっているような感覚。それはまるで自分だ。

何もしない。何も考えない。何も、感じない。





「それを、僕はとってしまった。」





今は昼休み。あと少しでそれも終わる。午後からの授業は何だったか…いや、もう今日はここでHRの時間まで寝てしまおう。
そう考え突っ伏していた体の向きを変えた時、どこからか音が聞こえた。それと同時に声らしきものも。

「……よっ、…んんっしょ。はぁ…だめかぁ…もう、ちょっとなんだけど…っ」

ここからは見えないが、どうやらそう遠くではない。とん…とん…という音と、ぶつぶつ独り言を言ってる声はしばらく続いている。それほど大きな音ではないが気付いてしまうとやたら耳障りだ。
そのうち行くだろうと放っておいたが、立ち去る気配はない。

(…うざい)

関わること自体面倒なのはわかっていたが、あれほど眠たかったのも、苛立ちのせいですっかり目が冴えた。予定を狂わされたという気持ちもあり、手を貸すついでに文句の一つも言ってやる、と、志波は立ち上がり声のする方へ向かった。 志波が惰眠を貪っていた(そしてこれから貪るつもりであった)場所からはそう遠くない本棚の列。そこには、本を手に精一杯、腕を伸ばしている女子生徒がいた。
志波は出来るだけ自分が不機嫌であるという気持ちを込めて、彼女に声をかける。

「おい」
「えっ、わぁっ、だ、誰っ!?」

彼女は驚いて振り返り、その勢いでなのか本をばさりと落とし、またそれに慌てふためき、と、ただ一言声を掛けただけなのに随分と驚かせたらしい。
何だか騒がしい奴だと志波は彼女が何者であるかなど気にも留めなかったのだが、彼女は志波の顔を見てすぐに「あ、志波くんだ」と言った。
その反応に、今度は志波が驚く番だった。(とはいえ、彼女のようにバタバタと騒ぎはしなかったが)
同じクラスなのかと思ったが、それも違う気がする。しかし彼女はまるで自分を旧知の人間であるかのように「久しぶり、元気?」などと呑気そうに言っている。
まさか同じ中学だったとか、そういう事なのだろうか。いや、それにしても見覚えがない。

「…お前、誰だ?」
「え?私、間違えてる?この間、廊下で生徒手帳拾ってくれた志波くんだよね?」

きょとんとして答える彼女に、生徒手帳?と志波はここ数日の記憶を頭の端から引っ張り出してくる。
生徒手帳。そういえば、拾った気がする。あの時、確か相手はとても急いでいたらしく、手帳を落としたことにも気付かずに行こうとして、それで、名前を見て呼び止めて…。

―――拾ってくれてありがとう!ねぇ、あなたの名前は?

「海野、あかり…」

口から零れ出た名前に、彼女は「あ、思い出してくれた?」と志波を見上げた。

「良かった、人違いかと思っちゃった」
「いや…。…それで、海野はここで何してるんだ」

うるさいからどこかに行けと文句を言うつもりが、何となく毒気を抜かれてしまい別の言葉でその場をしのぐ。彼女は困ったように眉を下げて「これ」と手にした本を掲げる。

「この本、あの上の棚に返したいんだけど…届かなくって」
「そんなの適当に置いておけばいいだろ」
「うん、まぁ…。でも、やっぱりちゃんと返したくて、それで頑張ってたんだけど…」

ふと棚を見れば、彼女の見上げる場所は一番上段で、確かに普通に手を伸ばしただけでは届かないだろう。少なくとも彼女の背丈では無理な話だ。
はぁ、と一つため息をついて、志波は彼女の方に手を広げた。

「貸せ」
「えっ、何?」
「本。返してやる」
「ほ、ほんとっ!?」
「だから早く貸せ」

本を受取り、腕を伸ばして彼女の指定する場所に本を戻す。
その一連の行動の間、彼女は嬉々として顔を輝かせ尊敬の眼差しで志波を見ていた。

「すごーい。簡単に届いちゃうんだねぇ…」
「別に。まぁお前には無理だがな」
「うーん、やっぱりそうか、そうだよね…」
「そうかって、そうだろ。どうするつもりだったんだ」
「最終的には本棚に登るしかないかなぁと思ってたんだけど」
「のぼる!?」

思わず声を上げると、「あ、登るって言っても、ちょっと足掛けて、って意味だよ!?ホントによじ登ったりしないよ!?」と彼女は慌てて弁明したが、こいつならやりそうだなと想像して思わず笑ってしまった。

「で、でもほら!志波くんが直してくれたから、終わり良ければ全て良し、でしょっ!?」

だからそんなに笑わないでよっ、と必死に言い募る彼女の声に、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が被さった。

「あっ、もうこんな時間…!」
「ほら、早く戻れ」
「も、戻れって、志波くんは?戻らないの?」

授業始まっちゃうよ?と言う彼女の言葉に、一瞬自分も戻ろうかと思った。今すぐ戻ればきっと授業開始には間に合う。
が、彼は否、と首を振った。

「俺は行かない」
「…そっか。じゃあ、またね!」

志波の言葉に対しては何も言わず、彼女は手を振って出ていった。志波一人になってしまえば、それまで通りの静かな図書室に戻る。
そして、そういえばここは図書室だったな、と妙な事を思い返した。彼女がいたそれまでとはまるで別次元にいるような違和感。

(……そういえば、あんなに笑ったの久しぶりだ)

俺、まだ笑えたんだなと、ぼんやりと海野あかりが出て行った方を見る。今では、さっきまでの出来事が夢だったんじゃないかと思うほど、静かで、息が詰まるほどだった。



またね、と言った彼女の声が、耳にまだ残っている。







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photo by Abundant Shine