「……っは」
夕暮れ時の森林公園は、もう人の姿はあまり見られない。温く伝う汗を拭いながら、足もとの芝生に座りこんだ。
視界の端に買い物袋を提げた人の姿を見つけ、卵くらい買ってくれば良かったかと、先刻の事を思い出したりした。しかし、今更どうにもならない。
そう、どうにもならない。何事も、起きてしまえばそれまでだ。無かった事にすることはできない。
手の平を見つめる。時々、自分の体であってもそうでない気がする時がある。感覚だけが遊離して、僅かな隙間に決して埋める事の出来ない違和感が横たわる。
けれど、それすらも今の自分には瑣末な事だ。もういっそ自分のものでなければいいと思うことすらある。何も感じなくなれればいいと、思ってしまう事もある。
それでもこうして走る事を止められない事の方が、むしろ滑稽なのだ。頭の中でどれだけ拒否しても、どこかで無意識に求める自分がいる。取り戻そうとして、「元のまま」でいようとして走らずにいられない自分が。
まだ、そんな風に諦められない自分が嫌になった。
―――志波くんは、野球好き?
それは、心を揺るがされる言葉だった。だから余計に苛立ったのだ。何も知らないくせにそんな言葉を簡単に言う彼女と、そんな言葉に簡単に動揺する自分とに。
もちろん、矛盾した怒りであるのは百も承知だ。それでももう煩わしくて仕方なかった。野球の事も、自分以外の周りも。全部ぐしゃぐしゃにまとめてごみ箱にでも放り込んでやりたいくらい、煩わしくて、面倒で、そして痛い。
無かった事にすることはできない。そんな風にするつもりもない。
ただ「あの時」の事を考えると今でもまだ混乱する。怒りや後悔ややるせなさが、いっぺんに心を叩いておかしくなりそうになる。
どうしてこんな思いをしなきゃならない。けれど、それなら一体どうすれば良かったんだ。俺のした事はやっぱり間違っていたのか。
考えれば考えるほど、わからなくなった。正確に言えば、「あの時」の自分の正当性まで見失ってしまいそうで考えるのを止めた。
「過ち」で野球をやめなければいけなかっただなんて、考えたくもなかった。そんな真実は俺にはいらない。
(……やめよう)
考える事は苦手だ。そしてロクな事にならない。だからもう、触れることすらしたくないのに。
それなのに。
「わふっ!」
「…っ、おまえ…また来たのか」
背中には、白黒の毛色の大きな犬が寄り掛かっていた。コイツとはよく会う。森林公園が散歩コースらしい。
飼い主は、よくコイツをほったらかしてベンチで話し込んでいる。その間、コイツは飼い主の足元で寝そべっているか、たまには通りがかった小さな子供の相手もしてやったりするらしい。賢い犬だ。
(…そういえば)
ふと春頃の事を思いだす。そういえば、コイツに追っかけまわされてる奴がいた。珍しいことがあるもんだと思ったのを憶えている。
途中で俺に気付いてこっちに走って来たから良かったものの、あのままコイツに体当たりされてたらちょっと大変な事になっていたかもしれない。やたらと大荷物だったし。
(そうか。あいつは、その事を言ってたのか)
公園で助けてもらったと言っていたのはその事か。俺は荷物を拾っただけで何もしちゃいないが。
体が小さくて、てっきり中学生かと思っていたのに、まさか同じ学校だったとは。
ほんの少しだけ悪かったかという気持ちになった。少なくとも、あいつは何も知らなかったのだから。
けれど、それも今更どうしようもないことだ。どうしようもないし、どうでもいい。
微かな後悔を、振り切るようにして立ちあがる。じゃあな、と、犬の頭を少し強く撫でた。
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