触れない事を、せめて優しさと信じるしかない。



夕方。変わらない毎日。つけっぱなしのテレビから流れてくるニュース。日が傾いて、台所の蛍光灯をつけると妙に明るい。
ガタン、と玄関の方から音がするのと同時に、この間、卵を買い忘れたのを思い出した。

「ねー勝己!アンタまた走りに行くの?」
「………………」
「…ちょっと!聞こえてるんでしょ!?返事くらいしなさい!」

傍まで行って怒鳴れば、息子はうんざりした顔をしてこちらを振り返った。スウェットに足元はスニーカー。
もう父親よりも足が大きいのだと、そんな事をぼんやり思った。

「何だ」
「走りに行くんでしょ?だったら帰りに卵買ってきてよ」
「無理だ。そっちの方には行かない」
「じゃ、コース変更してくれればいいじゃない」
「そんなもん持って走れねぇ。…行ってくる」
「あ、ちょ……!早めに帰ってきてよ!今日はお父さんも早いから!!…ったく」

壁にかかっている時計で時間を確かめて、まだ主人が帰ってくるまでには時間があることを確認する。急いで卵だけ買ってこよう、と、財布を取りに居間に戻った。



勝己くんを責めないであげてください、とは、周りからの言葉だった。担任の先生も、クラブの顧問の先生も、あの子のチームメイト達も。
責めるも何も、私はそうして周りから事情を聞かされるまで何一つ知らなかったのだ。我ながら間抜けな母親だと思う。
勝己は「それ」に関して私や主人には何も言わなかった。ただ一言「野球はやめる」とだけ言い、ボールやグローブなんかをまとめて押入れにしまいこんでしまった。
野球は本当にしなくなった。学校行事も出なくなった。友達とも遊ばなくなった。

そうして殻に閉じこもっていく息子を見て、野球をやめた本当の原因を、私達に「話さなかった」のではなく「話せなかった」のだと悟った。
主人が散々説得してようやっと聞きだしたのと、中学のニ者面談で聞かされたのとが、ほぼ同時期で、あの時は本当にどうしていいかわからなくなった。
勝己のした事はもちろん誉められないが、相手チームの選手というのも曰く「ヒドカッタ」のだという。私には野球の事はよくわからない。けれど、あの子はきっと正義感からそうしたのだと今でも信じている。そして「けじめ」のつもりで野球をやめてしまったのだということも。

責めるも何も、私は何を言えばいいのだろう。このままでいいはずはない。けれど、これ以上あの子を苦しめたくもない。
何もしないでいることしか出来ない。「何事もなかった」かのように振る舞うことしか。

一番泣きたいのも、悔しいのも。大好きな野球を遠ざけるくらい、痛々しい程の責任を感じて独り耐えているのは、あの子なのだ。
私が一体何を言えるというのだろう。



(…そうは言っても、返事くらいちゃんとして欲しいものだけど)

スーパーの店内に入ると、途端に騒がしい放送が頭の上から降りかかる。丁度夕飯時で、スーパーも混雑していた。
迷わずに卵がある棚へ行き、ワンパックだけ掴む。今日はこれ以上買い物するつもりもないからカゴも要らなかった。さっさとレジに並ぼうと歩きだしたところへ、人の集まりに気付く。

「何?…タイムサービス?」

見れば、お惣菜が安売りしている。たぶん、賞味期限が近いものを売ってしまいたいのだろう。
それにしても随分な人だかりだった。私はああいう物をあまり買わないのだけれど(あんな量ではうちの大喰らいを満足させる事は出来ない)、少ししか必要じゃない人はああいうのが楽なのかもしれない。
例えば一人暮らしとか。最近では色々種類もあるみたいだし、今度覗いてみようかしら。
コーナーに集まっているのはほとんどは女性だったけれど、年齢は色々だった。私と同じような年の主婦や、もっと若いOLか大学生風の女の子や、かと思えばおばあさんや。
小柄な、中学生みたいな女の子も混ざって奮闘している。もしかしたらお使いなのかもしれない。
やっぱり女の子はいいわねぇ、うちのバカ息子は図体ばっかりだわと、ため息をついた。

「…ったく、卵の一つも買いに行きやしないんだから。お小遣い減らしてやろうかしら…って、あら?」
「…わわっ、むぎゃっ…」
「ちょ、ちょっと、あなた大丈夫!?」

さっきの小柄な女の子が、人波に押しだされて床にへばっている。周りはセールに夢中で気が付かないみたいだ。
慌てて走り寄ると、やっぱり小さな女の子だった。普段バカでかい息子ばかり見ているものだから余計にそう思えるのかもしれない。

「はぅぅ…」
「怪我してない?まったく、いくらセールだからってねぇ?」
「い、いえ…大丈夫です。すみません」

ふと見れば、買い物カゴには随分とたくさんの食料品が入っていた。細腕の女の子にこんなに買い物を頼むだなんてと、少し驚く。
女の子の母親って、そういう事に無頓着になるのかしらね?と首を傾げたい気分だったが、とりあえずは床に座り込んでいる女の子に手を貸した。
小さな、柔らかい手。勝己のそれとは全然違う。(とはいえ、最近の息子の手がどうなってるかなんて私はもう知らないけれど)

「こんなにたくさん…大変ね?」
「あ、でも…いつもの事ですから」

女の子はへらりと笑って、ありがとうございましたと一礼してからレジの方に行ってしまった。

「…あ、そうだわ。私も帰らなきゃ」

家に戻ると、玄関に革靴が一足脱いである。右足が少し出た脱ぎ方が、父と息子でそっくりだわと、苦笑しつつも靴の向きをそろえた。

「ただいまー!ごめんなさい、お父さん。ちょっと買い物に行ってたの。すぐゴハン用意するから」
「お、お帰り。勝己もいないぞ。また走りに行ってるのか、アイツ」
「あら、まだ帰ってなぁい?もう、早く帰ってきてって言ったのに…あっ、ちょっとお父さん!ゴハン前にビールはダメって言ったでしょ!」
「一杯だけだって。…勝己、早く帰ってこないかなー」
「話を逸らさないの!」




途端にいつもの日常が戻ってくる。あの女の子の事は、すっかり忘れてしまっていた。





















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