「あらあら、今日は花火日和じゃないの!すっきり晴れて、良かったじゃない」
「…日和ってのは、おかしいだろ」
「ま!生意気ねぇ、浴衣も一人で着られないくせして!」
はい、終わり!と思い切り背中を叩かれる。衝撃で胸を詰まらせつつも、咳き込むという醜態だけは晒さずに済んだ。
「…いってぇ…」
「はは!おばちゃん、相変わらずだなぁ!」
リビングで、まるで自宅のように寛いで座る元春を、俺は軽く睨む。
「お前、何でここにいるんだよ」
「スイカ届けに来たんだよ。で、ついでにかわいい弟の顔を見に」
そのスイカを、何でお前はウチで食ってんだよと呆れたが、まぁ元春とは昔からこうだから、別に気にならない。
隣では母が肩を竦めて呆れていた。
「何言ってるのよ、元くん。かわいいっていうのはね、例えば、さよちゃんみたいな子に使うのよ?こーんなでっかくて無愛想な子に使う言葉じゃないわよ」
おまけに燃費も悪いしねぇ、と更に余計な一言を付け加える。
「…俺は、お前の弟じゃねぇ」
「まぁまぁ、花火大会、さよと行くんだろ?楽しんで来いな?」
だから、何でお前にそんな事言われなきゃならないんだと、本日二度目のツッコミだが、口にはしないでおく。…楽しみであるのは嘘ではないし。
元春は、食べやすい大きさに切ってあるスイカをしゃくりと齧る。
「まぁ何にしても、お前が楽しそうで良かったよ。せっかくの夏休みだもんなぁ!」
兄ちゃんは嬉しいよ、と、本当に嬉しそうに笑うものだから、結局何も言えないまま家を出てきた。そういう風にてらいなく言われてしまうと少し気恥ずかしい。
「いいよなぁ、女の子と花火大会。素直に羨ましい」
「あら。じゃあ元くん、おばちゃんと行こっか?」
「いや……それは丁重に辞退させてもらいます」
「…それで、あとはこれをあっためるだけだから。…お父さん、わかる?」
「わからん。ていうか、これ食うまでにお前が帰ってくればいいだろ、この不良娘、非行少女」
「そんな事言ったって…花火大会は夜あるんだもん」
レトルトカレーのパッケージの「おいしいカレーの作り方」の欄を、お父さんはしばらく眺めていたけれど、そのうちにフンと鼻を鳴らしてそれをテーブルに投げだした。
わからないはずがない。単に、憶える気がないだけだ。…あぁ、もうそろそろ出なきゃ、約束の時間に遅れちゃう。
「たまに早く帰ってきたら、コレだ。疲れて帰ってきて、こんな出来あいの物を娘に食わされるなんて、とんだ仕打ちだ。ほとんど家庭内暴力だぞ。この親不孝者め」
「だって…、だって、花火大会は先に約束してたんだし、…お父さんが今日帰ってくると思わなかったんだもん」
「俺がいつ帰って来ようが俺の勝手だ。ここは俺の家だぞ」
「それはそうだけど。私は、私の約束があるもん。だから、今日だけはこれで我慢してください」
「…今から台風が来て暴風雨になればいいのに。もしくは花火大会の会場に、何十年も前に埋まった地雷が見つかって、封鎖されればいい」
「…もう!お父さんっ!酷い事言わないでよ」
「…ちっ、仕方ねぇからカワイソウなカレーで我慢してやる。早く行け、鬱陶しい」
もう、しょうがないなぁ。溜息を一つついて、時計を確かめる。うわ、本当にもう行かなきゃ。
慌てて玄関の方に向かうと、後ろから珍しく「さよ」と声がかかる。いつもなら、「行ってきます」と言っても何も言わないくらいなのに。
「…帯、緩んでるぞ。だらしない」
「えっ、ほんと?お父さん直せる?ちょっと結び目きつく結ぶの」
「お前、俺を何だと思ってるんだ。天下の中年だぞ、…帯くらい直せる」
珍しいなぁ、と思いつつも姿見で自分の姿を一応確認する。…うん、おかしくはないよね。去年と同じ浴衣だけど。
「…これ、自分で買ったのか」
「うん、そう。どうかな?」
「やっすい生地だな、ペラペラじゃねーか。…だが、色は良い」
百合子の好きな色だ、と、帯を締めながらお父さんは言った。やわらかなうす桃色。
「…出来たぞ。じゃあな」
「うん。…あ、今日ね、志波くんと行くんだよ。前に話したでしょ」
「志波くん」という名前のところで、ぴくりと、お父さんの眉が跳ね上がった。みるみる眉間に皺が寄る。
「…あぁ、そう。それがどうした」
「志波くん、お父さんに会いたいって言ってたよ」
「ふざけんな。俺は会わねぇっつったろが。なんでお前のカレシとなんか会わなきゃならない」
「かっ、彼氏じゃないよ!し、志波くんは、と、友達で…!」
「だったら尚更会う理由はないね。シバクンには、例え俺が死んでも、線香もあげにくる必要はないと伝えておけ」
吐き捨てるようにそう言い切り、お父さんは私を外に押し出し、マンション中が揺れる勢いで乱暴に玄関のドアを閉めた。
「…しょうがないなぁ」
空は雲ひとつなくて、橙色から群青色に変わって行くグラデーションが良く見えた。暗くなったら、きっと花火も綺麗に見えると思う。
約束の時間には何とか間に合った。周りには私以外にも浴衣を着た人がたくさんいる。
「…あ」
その中で、頭一つ出ている人影を見つける。去年も見た、黒の浴衣。
志波くんだ、と、私が気付くのと同時に志波くんも私に気が付いたみたい。よくわからないけど、私の方に笑ってくれている気がした。
(…えへへ)
たったそれだけの事で、こんなにもふわふわした気持ちになってしまうなんて志波くんは凄い。それとも私が変なのかな。
「…丁度だったな」
「うん。志波くん歩いているの、私、見えたよ」
「俺も見えた。小せぇのがちまちま歩いてるから、お前だと思った」
志波くんは、くくっと喉元だけで笑った。それから、行くぞと手を差し出した。
本当に普通に。今まで私達が一緒に歩く時は、いつもそうしていたみたいに。
「…えっ、と」
これは、手を繋ごうってことなのかな。繋いでも、いいのかな。
差し出された手を前に迷っていると、志波くんは「でなきゃ迷子になるだろ」と言った。
「何かあったら困る」
「う、うん…」
志波くんの手が、包むように私の手を握る。…それだけで、心臓が爆発しそうになった。
(うぅっ…違う違う。単にはぐれちゃったら困るってだけなんだから!)
どきどきと、勝手に波打つ心臓に静まれと念じる。そう、志波くんは、この間の一件から心配してくれてるだけだ。
志波くんは優しくて、私が甘えるのも許してくれて、でもきっとそれは私が志波くんを想うような気持ちとは全然違う気持ちからだ。
だから、どんなに嬉しくても、ふわふわした気持ちになっても、どこかで胸が痛くなる。志波くんにとって私はただの友達とか、部活で一緒とか、そういう事だから。
いつか、それが辛くなるかもしれない。傍にいるだけでは伝わらないもどかしさに、苦しくなるかもしれない。
『一人で、泣かないでくれ』
でも今は、このままでいよう。このまま、もう少しだけ志波くんに甘えていよう。
(…それでも、いいよね)
いつか、もう少し強くなれたらちゃんと伝えるから。
「…どうした?」
「ちょっと、考え事」
「何、考えてた?」
「えっと…それは内緒!」
志波くんは「…変なヤツ」と、また小さく笑った。
屋台のある道を歩く間、色々な店を見て回った。さよはあちこち「あれ、おいしそう」とか「これ、面白そう」とか、いちいち立ち寄って見るのだけど、結局は見ているだけで通り過ぎる。
いらないのか、と聞くと「見ているだけで楽しいから」とあいつは答えた。その顔は本当に満足そうだったので、それ以上は何も聞かずにおく。
「あ、でもね。りんご飴は買おうと思って」
「あれ、好きなんだな」
「うん。…そういえば、去年は志波くんに買ってもらっちゃったね」
「今年も買ってやる」
そう言うと、さよは驚いて「いいよ!」と手を振った。が、もちろんそんな言葉で俺は引かない。
自分の中の、不可解だった部分がわかれば後は楽なものだった。
そうは言っても、きっとこれから戸惑うことも、迷う事もあるだろう。こいつの事ばかりを考えていられるわけでもない。
(…それでも、後悔はない)
例え今はこのままでも。…ずっと、このままだったとしても。
俺は、こいつを見失わないところにいる。今は、それが一番大事だ。
お前のこと、一人になんてしないから。
「…志波くん、どうかした?」
「ちょっと、考え事だ」
「ふぅん…何の事?野球の事?」
「…内緒だ」
さよは、俺の顔をしばらく見て、それから笑った。それ一緒だ、と、りんご飴を持って、花が開くように。
「…綺麗だねぇ」
「あぁ…見えてるか?」
「うん」
真っ黒になった空に、いくつも花火が浮かび上がっては消える。人がたくさんで混んでいたけれど、花火は大きく綺麗に見える。
志波くんは、ずっと手を繋いでくれていた。よっぽど心配させているみたいだ。
ふと、志波くんがどんな顔で花火を見ているのか気になって、私はこっそりと夜空ではなく、横にいる志波くんの方を見上げた。きっと、花火を見ているから気付かない。
「…なんだ?」
「えっ?あれっ…?」
(な、なんで目が合っちゃったんだろ)
慌てて、夜空の花火に集中する。なんだか、 恥ずかしいところを見られてしまった。
空には、赤や青や、色々な光の華が現れては消える。そういえば、去年も志波くんと花火大会に来たんだった、と思いだした。
去年は、もっとドキドキして、びくびくして、大変だった。でも、やっぱり花火はとても綺麗で、あと、りんご飴を志波くんに初めて買ってもらえたのが嬉しくて。
今日も、二人で来れたのが嬉しい。
「…あのね」
空の方を見上げたまま、口から言葉が零れ出る。思わず、零れてしまった言葉。
「来年も、一緒に来れたらいいね」
何が起こるかわからないけど。何も変わらないままかもしれないけど。
それでもまた、二人一緒で来れたらいい。そしたらまた、りんご飴を買うんだ。
「今度はね、私が志波くんに、りんご飴買ってあげるね」
少し勇気を出して言うと、何となく横で志波くんが笑った気がした。
「…あぁ、楽しみにしてる」
花火大会も甲士園も、一緒に行こう、と、志波くんが言ったのと同時に、夜空に新しい花火が煌めいた。
あとがきみたいなの。
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