こんな風に泣いたのは何時ぶりだろう。誰かにしがみついて、声を上げて。
志波くんは、泣きついた私をそのまま抱き上げてお布団のある部屋まで運んでくれた。それはきっと大変な作業だったと思うのだけど、志波くんは黙っていたし、私はそれどころでなく泣いていた。
(…おとうさんだ)
しがみついて泣こうが何しようが、志波くんは相変わらずどっしりとそこにいて(私が離さなかったせいではあるけど)、それはずっと昔に伯母さんの家に迎えに来たお父さんに似ていた。
私が泣いたりすると、お父さんは思い切り顔を顰めて「泣くんじゃない」と一喝するのが常だったのだけれど(それはもう、不愉快だと言わんばかりの顔で)、あの日だけは「早く家に帰りたい」と泣く私を、何も言わずにずっと抱いて帰ってくれたのだった。帰りのタクシーの中でもずっと。(うちのお父さんは自転車しか運転できない)
そんなことを、ぼんやり思い出していた。
雨は、まだ降り続いている。それでも、少しは小降りになったのか、叩きつけるように乱暴だった音がしとしとと穏やかになった。
志波くんは、本当に傍にいてくれた。私が横になっている隣にどかりと座りこむ。それ以上何か話すわけでもなく、ただじっとそこにいてくれた。
「あ、あの、志波くん」
「なんだ?」
「本当に、そこにいてくれるの?」
「嫌か?」
「嫌じゃないよ。でも…志波くんが眠くなったらどうするの?」
「…お前が寝るまでは起きてる」
ぽん、と、志波くんの手が私の頭を撫でる。
(…あったかいなぁ)
早く寝なくちゃ悪いのに、何だか勿体なくて眠りたくない。
肌触りの良い夏用の掛け布団(おばさんが、新しいのをおろして出してくれた)を、顔の所までぎゅっと引っ張り上げた。
「あの…志波くん」
(…いいかな、いいよね?)
今日だけは、甘えてもいいよね?
「…なんだ?」
「その…もうちょっと、お話しててもいい?」
ふと、髪に触れていた指が止まる。その事に、やっぱりダメだったかなぁと思ったら、くすりと小さく笑うのが聞こえた。
「いいけど、何話すんだ?」
「え、えぇっと…」
何だろう、考えてなかった。いざ、話そうとすると何も浮かんでこない。
「あ…、そう。さっき、その、お、重くなかった?私…」
「…少しだけ」
「うぇっ!や、やっぱり…!」
「冗談だ。あんなの、重いうちに入らねぇ」
「男の子は力持ちだよね、志波くんだからかなぁ?お父さんみたいって思っちゃった」
「……おとうさん…」
(あ、あれ?)
一瞬、志波くんがあさっての方向を向いた。私、何か変なこと言っちゃったかな。
「お、お父さんって言っても、年がとかじゃないよ?その、何だろう、雰囲気って言うか、存在感っていうか…」
「いや、いい。わかってる。何となく、言いたい事はわかる」
ふぅ、と、志波くんは一つ溜息をついた。
「お父さんて言えば…親父さん、何時帰ってくるんだ?今日は帰らないって言ってたが」
「ん…、たぶん、来週かな?今度は少し長く帰って来れるって」
「…前から思ってたんだが、お前の親父さんって、どういう人なんだ?」
「仕事は何してるかって事?」
「というよりも、性格がどんなのか」
「性格…」
言われて、頭に思い浮かべてみる。滅多に帰ってこない、でも、今のところは私のたった一人の家族。
でも、お父さんはお母さんがいつか帰ってくるから、お互いに家族が一人しかいないなんて思うのは「ナンセンス」だと言う。何故かわからないけど、そう信じ込んでいる。だから、心配しなくてもいいと続けるのだった。
そんな虫の良い話、あるわけがないとお父さん以外の大人は言うけれど、私は信じている。そうであってほしいという希望もあるし、何より私が信じなかったら、お父さんの言う事を信じる人はこの世のどこにもいなくなってしまう気がするから。
「…怖い、というか、厳しい、かな。あと、ぶっきらぼうで、しかも口が悪いから…仕事とか、大丈夫かなぁって思う時がある」
「へぇ」
「あと、好き嫌いが多い。お母さんと私以外の人が作ったものは食べられない。牛乳も大嫌い。あと、『ぼく、文系なんです』って言う人も大嫌い」
「なんだそれ?どういう意味だ?」
「さぁ…わかんない。お父さんは、お父さんにしかわからないルールで何でも決めるから」
「…難しいんだな」
「難しいっていうか…少し変わってるかもしれない」
「好きなものはないのか?」
「好きなのはお母さん」
淀みなく私が答えると、志波くんは驚いた顔で私の方を改めて見る。志波くんが驚くのはわかる。でも、本当のことだから仕方ない。
「けど、お前のところは…」
「…アヤマチなんだって。だから、お父さんは許してるんだって。誰にだって間違えることはあるからって」
「…そういう問題か?」
「まぁ、お父さんの感覚で言うとそうみたい」
『愚かな選択だとしても、それしか選べない時もある』
だから、あの時突然お母さんが出て行ってしまったのは、そうするしかなかったからだと、お父さんは言った。
子供の以前の担任だった若い教師と駆け落ちした事を、「だから俺はもうとっくに許している」と、事もなげに。
お母さんがその後どうなって実家に帰ることになったのか、私は知らない。ただ、お父さんはお母さんの所在を知ったその日から毎週のように手紙を送り、花を贈り、そして裁判所の離婚の話し合いなどには顔も出さない。もうずっと、何年も。
「…そういえば、前に志波くんの事を話したよ」
「俺のこと?なんで?」
「何でって…前に風邪ひいた時とか、お世話になったし…それで」
「………それで?」
「えぇっと…大変だったな、って」
…と、いうのは実は嘘だ。お父さんは志波くんにお世話になった話(もちろんおばさんの事も)の後に、盛大に顔を顰め「俺はそいつには会わないからな」と言ったのが本当の話だ。
「絶対に、どんな頼まれたって絶対に会わないからな」と、「絶対」を二度も言われた。また志波くんに助けられたって言ったら、どんな顔するだろう。
「……一度、会わなきゃなと思ってる」
志波くんは神妙な顔をしてそう呟いた。
「え?お父さんに?」
「あぁ」
「どうして?」
「…まぁ、いつか、そういう時が来るだろうってことだ」
「…ふぅん…?」
志波くんが私のお父さんに会うってどういう事なんだろう、と考え始めたころに、「そろそろ寝ろ」と、手で、目を覆われる。
「えっ、わっ…!」
「…ちょっと、そのまま聞いてくれ」
「な、なに…?」
突然視界を覆われた事に驚いていると、「ごめん」と低い声が降ってきた。
「どうして…?」
「…間に合わなかった、から」
(…間に合わなかった?)
志波くんは助けてくれたのにどうして謝るの、とか、間に合わなかったって何の事だろう、とか、訊きたい事は幾つかあった。
でも、一瞬何て言い出せばいいのか迷ってしまって。
それから。
(……え?)
ふわりと、おでこに触れた感触。
それが、一体何だったのかわからないまま、目の前が少し明るくなった。
志波くんは、さっきと変わらずに私の枕もとに座っている。違うのは、私の方に体も向いていたということ。
「…もうあんな事、二度とさせねぇから」
絶対に、誰にも。真面目な顔で、志波くんは言った。
密やかに聞こえていた雨音は、何時の間にか聞こえなくなっていた。
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