その夜から雨が降り出した。
雨脚は強く、屋根を激しく叩く音が途切れることはない。
もう夜更けだ。家じゅうが寝静まって静かなので、その音は余計大きく聞こえた。
(…眠れない)
いつもの時間に横になっても、眠気は一向に訪れない。いつもなら、すぐに眠りに落ちてしまうのに。
何度目かの寝返りを打つ。体はいつも以上に疲労している気がした。さっさと眠ってしまいたいのに、出来ない。頭の中は冴え冴えとしていた。
目を瞑ると、あの公園で見た光景が鮮やかに甦る。眠れないのはそのせいだと、志波は苦々しく思う。ずっと、あの光景が頭から離れないでいる。
キスをされたと、一ノ瀬さよは言った。そうだとしてもおかしくない体勢でもあった。
「……くそ」
思い出すだけで、どろどろとした、どうにも出来ないもどかしい感情が体中を蠢いた。どうして、もっと早く。本当に、もうあと一瞬だったはずなのに。
間に合わなかった。たすけて、と言われたのに。
どんな気持ちだったろうと思う。あんな奴に、連れ回されるだけでもきっと怖かっただろう。それでも彼女は取り乱したりはしなかった。それどころか大丈夫だと繰り返すばかりだった。
あの家に、帰したくなかったというのは本心だ。あの何もない家で一晩中彼女一人で過ごすのかと思うと、たまらなかった。そんな所へは絶対に帰したくない。
…傍に置いておきたかった。
心配だというのもある、純粋に、酷い目に遭った彼女を一人にしておけないという気持ちがあるのも間違いない。
でも、それだけじゃない。
それだけじゃない。
薄暗い天井を見上げながら(外が妙に明るく感じるのは何故だろう)、志波は深く息を吐いた。窓を閉め切った部屋では冷房が効いているはずなのに、じっとりと暑い。
水でも飲もうと、体を起こす。ベッドから立ち上がろうとして…ふと、ドアの方を見た。
(………何だ?)
何か、音がした気がする。といっても、はっきりと何の音か耳で捕えたわけではない。
じっと耳を澄ませる。もう音はしない。だが、何かいるような気がした。
(…まさか、泥棒?)
たった一日でそんな非日常的な出来事が次々と続くものだろうかと思いながら、音を立てずにドアに近付き、ドアノブに手を掛ける。
そして、思い切りそれを開いた。
「きゃぁっ…!」
「…何だ、お前か」
勢いに驚いたのか、ドアの前でぺたんと尻もちをついたようになっているのは、一ノ瀬さよだった。泥棒ではなかったらしい。
「び、びっくりした…」
「びっくりしたのはこっちだ。泥棒かと思ったぞ」
「ご、ごめんなさい」
自分のTシャツは、やはりさよには大きいらしい。さほど襟ぐりが大きいものでもないが、彼女が着ると鎖骨の辺りまで肌が見えた。座りこんでいるところへ手を伸ばしてやると、ぶかぶかのTシャツから細い腕がこちらへ伸びた。手を取って、引っ張る。思っているよりも軽かった。
「お前、何してたんだ?こんな所で」
それは当然訊いてもおかしくない質問だったはずだが、何故かさよはぎくりと肩を強張らせる。
うろうろと視線を彷徨わせたあと、困り果てたように「志波くんは?」と小さな声が返ってきた。
「俺は、水を飲もうと思って…そしたら、誰かいるみたいだから泥棒かと思ってドアを開けた」
「…そ、そっか」
「何となく、寝付けなくてな。…お前もそうか?」
「べ、別に何でもないよ!じゃあお水飲みに行って来てね。私は部屋にもどるから…」
「おい、待て」
嘘をついていると、直感で知る。何もないのに、こんな所に突っ立っているわけがない。
気付けば、彼女の腕を掴んでいた。今日、彼女は何度こうして腕を掴まれたかしれない、が、それに構う余裕もなかった。
「お前、本当はここで何して…いや、いつから居たんだ」
「何でも、ないの」
「…一ノ瀬」
「ほ、ホントに何でもないから…っ」
尚も離れようとするさよに、胸が苦しくなる。近いのに、遠い。
(…どうして)
初めに近付いてきたのはお前の方だろう。
それなのに俺から近付こうとすると、どうしてお前は離れようとするんだ。
さよは、じっと俯いて床を見ていた。静かな家の中に、雨の音ばかり聞こえる。
「…そんなに、俺は頼りないか」
「…え」
「俺には、言えないか」
大丈夫だよ、と、言い聞かせるように言っていた。時には、笑顔すら見せて。
だけど、本当は大丈夫なはずがない。真夜中に、何もなくてドアの前に突っ立っているはずがない。…ここまで、来るはずがない。
膝を折ってしゃがみ込む。目線がぐんと低くなって、俯いたさよの顔が良く見えた。
…ほら、やっぱりそうだ。
めいっぱい開かれた瞳には、零れそうに涙が溜まっていた。
「…俺は」
胸が、痛くてたまらない。でも、それが自分の痛みか彼女の痛みかはわからない。たぶん、両方なんだろう。
まばたきをすると、涙が珠になって零れた。
「お前がそんな風に一人で泣く方がずっと辛い」
起きてしまった事を、無かった事にすることは出来ない。今すぐに彼女を苦しみから救えるとも思えない。
だけどせめて、見えないところで独りで泣かないでほしい。泣くのなら、自分の傍で泣けばいい。
「……わ、たし」
押し殺すような嗚咽が痛々しい。志波は、そっと手を伸ばした。
見ているだけなのが、辛かった。
「ほん、ほんと、は、怖く、て。ぜっ、全然、ね、ねむれなく、て…っ」
「…そうか」
「でっ、でも…、も、遅い、し。め、迷惑、かけちゃうし…っ」
泣きながら、ごめんなさいと彼女は言った。わがままいって、ごめんなさい。
いつかも、こんな事があった気がする。泣きながら拒絶されて、本当はそうじゃないとわかっているのに、何もできなくて。
でも、そうじゃなかった。ただ、立っているだけではダメだったのだと、今ならわかる。
頬に触れた指先が、彼女の涙で濡れた。
「…迷惑なんかじゃない。一人が怖いなら、一緒にいてやる。お前が寝るまで、ずっと傍にいる」
もう、一人にはできない。自分の方が、この手を離す事が出来なくなってしまった。
「だから、一人で泣かないでくれ」
「…っ」
細い腕が、ぎゅうっと首の廻りに巻き付いた。左肩の辺りが、熱く濡れていくのがわかる。体重がかかって少し重たい。
けれど、安心できる重みだった。全部を、預けられている重み。たぶん自分が、知らずに焦がれていたもの。
ゆっくりと腕を回して、抱きしめる。胸が痛くて、泣きたくなるような、でも嬉しいようなおかしな気分だった。
(…まもる、絶対)
何一つ迷わずに、ただそれだけを想う。
雨音に、か細い泣き声が混ざって溶けた。
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