「どうしてあんな子を引き取ったりしたの?」

私のお母さんがお父さんと私を置いて出て行ってしまったあと、私はしばらくお父さんのお姉さんの家に一ヶ月程預けられた。つまり私にとっては伯母さんにあたる。
伯母さんは親切だったけれど、声が大きいのと化粧が濃いのが苦手だった。お母さんがほとんどお化粧をしなかったからかもしれない。
特に怖かったのは伯母さんはお風呂上がりに化粧水やら乳液やらクリームやら、どれがどう違うのか全然わからないけど、とにかく真剣に大量にそれを顔に叩きこむのが日課で、それが何だか凄く怖かった。(という話を後日お父さんにしたら、お腹を抱えて笑っていた。何故だかよくわからない)

お母さんに会いたい、と、ずっと思っていた。どうしてこんな所にいなきゃいけないのだろう。お家に帰りたい、お母さんのご飯が食べたい、お母さんに会いたい。

一月後の真夜中、私を迎えに来たお父さんに伯母さんは言ったのだ、盛大な溜息付きで。私は、目が覚めて部屋を抜け出して、ドアの傍でじっと息を殺していた。

「だって、何させてもぐずぐずしてて…おまけにすぐ泣くし。ああいうところ、百合子さんにそっくり」

私は伯母さんの事が苦手だったけれど、嫌いではなかった。だけど、伯母さんは私の事が嫌いだったんだ、と、その時に知った。
その言葉に、お父さんが何と答えたかは知らない。それを聞くまで、私はそこに立っていられなかった。

ぐずぐずせずに、泣くのもガマンして、わがままを言わなかったら(伯母さんにそんな風に言った憶えはないけれど、実際そうだったのかもしれない)私は伯母さんに嫌われなかったのかな。
…お母さんだって、いなくなったりしなかったのかな。お父さんだって笑ってくれるかな。

カビ臭くてじっとりと重いお客様用のお布団の中に頭までもぐり込んで、そう思った。思ったら、涙がどんどん溢れてきて、止まらなくなった。

誰にも、迷惑なんてかけちゃだめ。わがままも言っちゃだめ。

その日から、ずっとそう思ってきた。





志波くんと私は、黙ったままずっと歩いた。ひたすらに黙々と。
もうすっかり日が暮れて、何時の間にか夜になっていたけれど、それでも空気は生温くて、とろりとした水の中を歩いているみたいだった。
もうすぐ私の家の近く、というところで、志波くんは私の方を見る。

「なぁ、今日お前の家、誰かいるのか?」
「…だれかって?」
「親父さん、今日は帰ってくるのか?」
「うぅん、今日は…私一人だよ」

正確には「今日は」ではなく、「今日も」、だけど。でもそれは何となく言えないまま呑み込んだ。志波くんは、少し迷うような顔をしてから、でも最終的には「…よし」と言った。何が「よし」なんだろう。
そして、「行こう」と促す。

「え?行くって…?どこ行くの?」
「俺の家」
「え…えぇっ!?し、志波くんのお家!?」
「大丈夫だ。お前なら大歓迎だろうから」
「で、で、でも…!」

今が正確に何時かはわからないけれど、きっとお夕飯の時間だ。そんな時に約束も無しで上がり込むなんて考えられない。

「だ、ダメだよそんなの!突然、しかもこんな時間に…!」
「気にするな。顔合わせたくなきゃ俺の部屋に引っ込んでればいい」
「そ、それはもっと困…!あ、あの、私、大丈夫だから!もうここから一人で帰れるし…っ」
「一ノ瀬」

ぐ、と腕を掴まれる。さっきも同じ事をされたけど、今は全然嫌じゃなかった。もちろん戸惑いはしたけれど。

「…俺が、帰したくないんだ」
「……え…」
「だから、頼む」

そんな風に言われたら、もう断れない。そして実際、私は少しほっとしていた。このまま一人になるのは、まだ少し心細かったから。

「…め、迷惑、じゃないかな…」
「むしろ、このまま一人で帰る方が俺は都合が悪い。何も言わずに出てきたからな。お前がいれば、お袋にも言い訳出来る」

ほとんどは俺の為だと、志波くんは笑った。
またそれからどんどん歩いて行く。私の家はとっくに過ぎて、どんどん後ろに遠くなっていった。
志波くんは、私の腕を掴んだままだった。ずっと。

志波くんの家に着くと、おばさんが玄関を開けて迎えてくれた。同時にふわりと漂ってくる匂い、たぶん、今日の晩御飯は揚げ物か何かだ。

(…よその家の匂い)

まだ体に馴染まないそれは、否応なく私を緊張させた。志波くんの家だから、というよりも、よそのお家にお呼ばれするといつもこうなる。好きとか嫌いとかとは全く別の話だ。
それでも、家の中が明るいのと、おばさんの笑顔で、肩の力が抜ける。また涙ぐみそうになるのを必死に抑えた。

「さよちゃん、いらっしゃい!ほら、入って!お腹すいたでしょ?ご飯出来てるからね〜」
「…おい、俺のぶんは」
「はぁ?黙って突然飛び出して行って、おまけに何度ケータイに電話したって返事もしないバカ息子なんか後回しよ。あんたは水でも飲んでなさい」
「あ、あの、おばさん違うんです。志波くんは…!」
「はいはい、とにかく二人とも早く入って。お父さんも待ってるし」

おばさんはあんな事を言っていたけれど、結局は私一人くらい増えたって全然問題ないくらいの量が用意されていた。こんなにたくさんのコロッケ、一体何人で食べるのだろうと不思議に思うくらいだったけれど、最終的にはそれも全部なくなっていたし、ご飯だって、志波くんが何度おかわりしても全然なくなる気配がなかった。サラダもお味噌汁も私は今までこんなに食べたことがないというくらいお腹いっぱいにご馳走になったのだけれど、それでも志波くんのお父さんは「やっぱり女の子は少食なんだなぁ」と感心したように(何に感心したかはわからないけれど)言い、おばさんは「遠慮しなくてもいいのよ?」と私の顔を気遣わしげに覗いた。志波くんは私の横で黙々とご飯を食べている。
ご飯の間は取りとめもない話がずっと途切れることなく続いていた。つい最近引っ越してきたご近所さんのこと、真咲先輩(おばさんは元くんと呼んだ)のお母さんのこと、おじさんの会社の若い人たちの間で流行っているもののこと、テレビに出ている人のこと。





「……ん」
「…っと、起こしてしまったかな」
「ふぇ…?…あ、わっ、す、すみません、私…!」

お腹がいっぱいになって、勧められるままリビングのソファに座っていたらつい眠ってしまった。おじさんは、私にタオルケットを掛けようとしていてくれたらしい。
洗い物くらいお手伝いしなきゃと思っていたのに、すっかり居眠ってしまって恥ずかしい。それに、今何時だろう。結構、時間が経ってしまっている気がする。
家の中は静かだった。音量を抑えられたテレビから、明日の天気予報が流れている。

「あ、の。おばさんと、志波、くんは…」
「ん?あぁ、布団を出すって言ってね。でなきゃ、さよちゃんの寝る場所がないって言って」
「…えっ」

あ、さよちゃん、だなんていきなり呼ぶのは失礼だったかなぁ、でも母さんがいつもそうやって言うものだから、と、おじさんは少しだけ照れたように言った。
だけど、もちろん問題はそんな事じゃない。

「あ、あの…!そんな、泊まるだなんて、私…!」
「ん?あぁ大丈夫だよ。勝己とは別の部屋だから。そりゃあなぁ高校生だものなぁ…」
「そ、そうじゃなくて…!いえあの、一緒がいいとかそういうのじゃなくて、私、ご飯もご馳走になったし、それにいきなりお邪魔して泊まるなんてそんなの…!」
「…さよちゃん」

慌てる私の言葉を、おじさんはやんわりと遮った。やんわりと、だけど私はその声で黙りこんでしまう。
志波くんのおじさんは、志波くんと声が似ている。この場合、志波くんの声がおじさんの声に似ているのかもしれないけれど。

「…あいつはね、君の事が心配なんだそうだ。…あまり詳しく事情は訊かなかったが、意味もなく女の子を泊めたいだなんてあいつは言わないから」
「………でも」
「まぁ、母さんも君がいると楽しそうだし、それに付き合うくらいの気持ちでいいんだよ。遠慮することなんてないさ」

冗談めかして話をまとめてしまってから、おじさんはさっさと話題を変えてしまう。もう私がこの家に泊まることは、そこで決まってしまったようなものだった。

「あぁ、そういえばさよちゃんは野球部のマネージャーなんだってなぁ。どうだろう、勝己は頑張ってやってるかな」
「…あ、は、はい!志波くんは凄く頑張ってて…、他の部員も皆志波くんは凄いって言ってます。初めは、まだちょっと距離があったんだけどそれは藤枝くんが…あ、藤枝くんっていうのは野球部の部長なんですけど…その子がうまくやってくれて、志波くんも助かってるって…それから…」
「そうか。そりゃ良かった」

そう言って、おじさんはにっこり笑った。

それから、お風呂も使わせてもらった。湯船に張ってあるお湯は少し熱めで、体全部を湯船に沈めると、今日初めて体中の力が抜けた気がした。
改めて腕を見ると、掴まれていたところが少し赤くなっていて、どくりと、心臓が嫌な感じに反応する。
でも、それだけだ。大丈夫、と、自分に言い聞かせる。だって、今はこんなに優しい人たちに守られているんだから。
だから、あんなの全然大したことじゃない、大丈夫。ほっぺたに感じていた熱と痛みだって、今ではすっかり忘れていた。鏡で見ても、じぃっと目を凝らして見なければわからないくらい。
もうほとんど普段と変わらないほっぺたに、けれど私は自分自身で改めて触れることはできなかった。

お風呂上がりに廊下を歩いていると、志波くんと鉢合わせた。志波くんはこれからお風呂に入るらしい。志波くんはちょっとだけ驚いたような顔をして私を見る。

「あ…えっと、お借りしてます…」
「まだそんなのあったんだな」

上は志波くんのTシャツ、下は志波くんの中学時代の体操服、らしい。それでも私には大分と大きくてぶかぶかだった。
すい、と、志波くんの手が顔に触れた。…さっき、私が触れなかったところ。

「…まだ痛むか?」
「う、ううん!もう平気。…そんな、強く叩かれたわけじゃなかったみたい」
「………」
「…?志波くん?」
「…いや、なんでもない。…髪ちゃんと乾かして早く寝ろよ」





風呂、行ってくる、と、志波くんはすたすたと歩いて行ってしまった。





















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