野球部に入ってからは、途端に忙しくなった。
一応仕事は単純なものからだけど、その間にもスコアブックの付け方とか、野球のルールとか、あとはこまごました決まり事とか、そういった事を覚えていかなきゃいけないから目が回りそう。毎日走り回って、頭も体もフル回転でクタクタになった。
「慣れればもう少し楽になるから頑張ろうね」と励ましてくれるのは倉田千沙子先輩。(倉田先輩は野球部の癒し系と呼ばれてる)
「覚えられない事はメモする。そうして夏までには何とかするわよ」と眼鏡を直しつつ(何故か)気合いが入っている柏木祥子先輩。(柏木先輩は野球部の頭脳と呼ばれてる)
マネージャーっていうのはやっぱり凄く大変だった。何せ野球以外の事はほとんど全てマネージャーが請け負うのだ。
「一秒でも長く練習時間を取れるように」というのがマネージャー側の義務と心意気であるというのが、柏木先輩の持論だった。それ以外の事でも隙間が無いくらい羽学野球部は徹底管理されていて、体制だけならば強豪校も顔負けといった感じだ。
「限られた時間をオーガナイズする事は、強くなるための基本プロセスでしょ」
と、柏木先輩は涼しい顔して言ってたけど、正直私には柏木先輩が凄い人だっていう事以外は半分も意味がわからない。
(…でも)
仕事は大変だし厳しいけど、先輩達も、他の部員の人たちもみんな優しい。立川先輩の言っていた通りすごく楽しい。
何より、嬉しかった。頑張っている人達の為に何か出来るということ。私の仕事はまだ全然だけど、少しは役に立っているということ。
野球部に入って、良かったなぁ。
「…あ、しまった。図書室に本返しに行かなきゃ」
柏木先輩に教えてもらった野球関連の本。今日までに返しにいかなきゃいけないんだった。時間は…まだ少しある。
今のうちに返しにいっちゃおう、と、私は慌てて図書室に向かった。教室を出る時、ちらりと窓側の後ろの席を振り返る。今日も空席だった。
(志波くんって、いつもどこにいるんだろう?)
入学してからしばらく経ったけど、相変わらず私は志波くんと一言も話せていない。挨拶も出来てない。
見かける事はあるけど、いざ目の前にすると何にも言えなくなる。話したいけど話せない。言葉がうまく出て来なくなっちゃう。
朝起きたらいつも「今日こそは」って思うんだけどな。
志波くんは相変わらず教室にはほとんどいない。まともに見かけるのは体育の授業くらいだ。あとはすぐにどこか行ってしまう。どこに行っちゃうんだろう?
図書室は、いつも古い本と日向の匂いがする。音が吸い込まれてしまったみたいに静かなところ。カウンターを見たけど図書委員さんはもういないみたいだった。
そういう時は、自分で返却カードに日にちを書いて元の場所に戻しておくのが決まりだ。
日当たりが良くてあたたかな空気が、心地良い。本の背にある番号を確かめて、本棚を探して奥へ進む。気付かなかったけど、結構たくさん本棚があって奥まで続いていた。
「え〜っと…確かこの辺…あれ?」
一番奥の備え付けの机に、突っ伏してる人がいる。背の高い、男子生徒。
(…志波くんだ!)
そこで寝ているのが志波くんだとわかって、どきりと心臓が動いたのがわかった。それから、どんどん鼓動が速くなっていくのも。
(ど、どうしようどうしよう!)
何だか、目の前がぐらぐらする。ただ、じっと立っている事しか出来ない。
話しかけてみたい、と思ったけれど志波くんは寝ている。もしかして今日ずっとここにいたのかな。
(ち、近くに行くくらいはいいかな…)
うん。もうちょっと近くに行くだけ。別に邪魔したりなんてしないもん。だから、いいよね?
そう自分に納得させて、そろそろと近づいてみる。誰か来たら何もないフリをして帰ってしまえばいいと思っていたのだけど、幸いにというか、いくら待っても誰も来る気配はなかった。
返却するはずの本をぎゅっと抱えたまま、かなり傍まで近付いた…たぶん、志波くんが目を醒ましたら視界に入るくらいには。
顔、はよく見えなかったけれど、微かに聞こえる呼吸の音に本当に寝てるんだと改めて思う。
(…えーっと…)
傍まで来たのはいいけれど、ここから先は本当にどうしようもなくて、私はただただ志波くんを見ていることしか出来なかった。だって、まさか起こすわけにはいかないし。
ううん、話なんてとても出来そうにない。今、ここにこうして立っているだけで精いっぱいだ。耳の奥で心臓の音がどくどく言ってて、煩いくらいで。
授業だって始まっちゃうだろうし(とてもじゃないけどサボる勇気はない)、もうそろそろ行かなくちゃ、と思っていたら、目の前でごそりと動く気配がした。
「ん…」
「ひぇ…っ」
(お、起きた!)
志波くんはむっくりと上体を起こし、ゆるゆると顔を上げて…私の方を見た。
ぼんやりした目をしながらも、怪訝そうな目で私を見る。本を持って、突っ立っている私を。
「……」
「……」
「……何だ?」
「えっ…、べ、べつに、何も…」
言えない。言えるわけない。寝ていた志波くんを見てました、なんて。
けれど、何もないと答えた私に志波くんはそれ以上興味も無いらしく、わしわしと頭を掻いたりしている。
(ど、どうしよう…)
どうするも何も、たぶんこのまま教室へ帰ってしまえば問題はないのだけれど。
でも、やっぱりそれも出来なかった。だって志波くんとお話したいし、仲良くなりたいんだもん。そうだ、まずはこっちから話しかけないと始まらない。
そう思って勇気を出して「あ、あの!」と声をかけてみる。志波くんは相変わらず不機嫌そうな顔でこっちを振り返った。「まだ何か用があるのか」と言いたそうな顔だ。
「…何か用か?」
「え、えと…」
(だ、だめだ…)
何から話せばいいか全然わからない。何も思い浮かばない。
私が黙っているから、二人の間には気まずい沈黙が流れ続けてた。けれども、一応志波くんはこっちの言葉を待っていてくれるらしい。
面倒くさそうだったけれど、私の方を見てくれてる。
「ええっと…あ、そうだ!お礼を、言わなきゃと思ってて」
「礼?何の?」
「入学式の日に生徒手帳拾ってくれたでしょ?」
「…あぁ。別に、礼を言われるほどの事じゃない」
「そ、それと、公園でも助けてもらったし…」
「公園?…学校以外でお前に会ったことあるか?」
あの日の事を、志波くんは憶えてないらしい。私にとってはすごく大事な事なんだけど…ちょっとだけ胸が痛くなる。
「う、うん。…あの時はすごく助かったから、ありがとうって言いたくて」
「気にするな。俺も憶えてない」
ぴしゃりと、にべもない言い方をされて私はいよいよ困ってしまった。
もしかして、志波くん私のこと、迷惑してるのかな。憶えてもいないのに、変な事言われたって思ってるのかな。
そりゃあ、仕方無いけど。些細なことで、私だって志波くんじゃなかったら忘れちゃうようなちっぽけな事だけれど。
俯いて、ふと手にしていた本の存在を思い出す。そうだ、本を返さなきゃいけないんだった。
ちらりと志波くんの方を見たけど、もう話は終わったとばかりに志波くんは小さく欠伸をしていた。
…うん。やっぱり本を戻して帰ろう。
つきんと胸が痛いような気がするのは無視して、ぐるりと本棚を見回してみる。けれど、そう簡単に元の場所を見つけられそうになかった。
確か、この辺りだった気がするんだけど…どの棚もそれらしく良く思い出せない。
壁の時計を見ると、始業時間はもうすぐだ。急がないといけない。
「…おい」
「え?」
振り向けば、志波くんがこっちを見ていた。呆れたような顔つきで、私の持っている本に視線を向ける。
「それ、返しといてやる。だからお前教室に帰れ」
「で、でも…」
「いつまでもウロウロされたら気が散って寝れやしねぇ…貸せよ、それ」
要するに、さっさと見えないところへ行ってほしいという意味なのだとわかって益々凹んだけど、とりあえず本を返しておいてもらえるのは助かる。
それに、これ以上ぐずぐずしていたら志波くんはもっと怒りそうだ。怖くて断れない。
「じゃ、じゃあ…お願いしマス」
そうして渡した本を受け取った志波くんの顔がわずかに強張るのを、けれど私はちっとも気付かなかった。
小さな声で「…どうして」と呟くのが耳に届く。
「あ、それはね、先輩から勧めてもらったの。私、野球部に入ってマネージャーになったんだけど、野球の事よく知らないから…」
「……野球部」
「入門書?っていうのかな、そういうの…結構面白かったけど。志波くんは、野球好き?」
がたん、と、大きな音が図書室に響いた。椅子が、がらんと床に倒れる。志波くんが急に立ち上がったからだ。
志波くんは、まだ私の手がかかっていた本を奪い取るようにして掴み、それをそのまま投げ捨てた。乱暴に、憎しみすらこもった風に。
何が起きているのか、すぐにはわからなかった。驚いて、それと怖くて、声も出ない。
でも、とりあえずは本を拾わなきゃ。あれは学校の備品だし、元の所に返さなきゃいけないし。そう思うのに、貼り付いたみたいに足が動かない。
どうしていいかわからずに立ち竦む私に、志波くんは苛立ちを隠しもせずに睨みつける。(だったと思う。正直良く憶えていない)
「…お前、もう俺に話しかけるな」
吐き捨てるようにそう言って、志波くんは図書室を出て行った。
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