あの時に似ている。そう思った。

「…ぅわっ!」

彼女を戒める腕を掴み、そのまま払いのける。へたり、と、その場に座り込んだ一ノ瀬さよに、志波は自分の体が盾になるように立った。

「一ノ瀬…!」

姿を見つけ、足がもつれそうになるくらいの勢いでここまで走ってきた。呼吸は乱れたまま、名前を呼ぶのがやっとだった。見たところ、酷く傷付いている部分は見られない。
彼女は志波が来ても何も反応しなかった。ただ俯いて、地面をじっと見ている恰好になっている。

「おい、大丈夫か?…一ノ瀬!」
「…っ!しば、く」

思わず強くなった声に、彼女は弾かれたように顔を上げる。目にいっぱい溜まった涙。そして、うっすらと赤く腫れた柔らかそうなほっぺた。…殴られたのだと、頭の隅で理解する。
ゆらりと、視界が揺れたような気がした。ダメだと、自分に強く言い聞かせる。ダメだ。…気を抜くと、呑み込まれる。

そして、ふと気付いた。彼女と、男との距離が異常に近かった事に。…あいつの手は、さよの顎を掴んではいなかったか。
何も知らない第三者が見れば、それはまるで、恋人同士のように。
一瞬、頭に浮かんだ自分の想像に、胸が焼けそうな嫌悪を感じる。だが、確かめずにはいられない。彼女の事を思えば、こんな事、聞くべきではないのに。
口の中が、からからに乾いていくのがわかった。口がうまく動かない。それでも、訊かずにはいられなかった。

「…お前、あいつに何かされたのか」

何もなかったと、言ってほしい。
だが、彼女は涙の溜まった瞳を何度か瞬かせ(そのせいで、涙が頬を転がったのが見えた)、そして、志波から目を伏せる。
消えそうに小さな声は、だが志波の耳にはっきりと聞こえた。淡い希望を、打ち砕くように。

「………き、す、され…」

ざああ、と、波のような音が耳の奥で鳴った気がした。何もかもが遠く遠く、静かに。

(…………ダメだ)

怒りで、我を忘れる。何もかもがただその一つの感情に塗り込められ、呼吸すら忘れる。

あの時に似ている。暴投を繰り返した相手投手を殴った時。
とても静かになって、何も考えられなくなる。考える必要はないのだ。何故なら、自分がしようとしていることは決まっているから。とても簡単な、シンプルなことだから。
「やめて」と遠くで聞こえた気がした。あの声だけは、無視する事が出来ない。だが、結局志波は止まる事が出来なかった。
どうやら学校指定のものらしいワイシャツの襟を、掴む。

だが、今度は別の強い力で動きを阻まれた。反射的に「離せ」と抗う。新たな、別の怒りが体を支配する。

「…は、なせっ!俺は…っ!」
「ここは堪えろ、落ち着け!お前、ここで殴ったら何もかもお終いだぞ、今度こそ!」

それは、何故ここにいるのかは知らないが同級生の声だった。そして、同じ野球部の仲間。
必死の、懇願とも取れる声に一瞬力が緩んだ。何もかもお終いになる。何もかも。

「ちょっと…立川先輩も見てないで止めてくださいよ!…おい、それからてめぇ!お前は逃げようとしてんじゃねぇよ!」

殴りはしねぇが、だからって許したってわけじゃねぇぞ、と、怒って男の腕を捩じり上げる藤枝の声に、志波はかえって冷静さを取り戻した。
ここに辿り着く前に、立川に連絡したのは志波本人だった。何故、彼を思いついたのかは自分でもわからない。少し前の練習の時に「何かあったら」と改めて連絡先を教えてもらったからかもしれない。藤枝には、立川が連絡したのだろう。
一ノ瀬さよの家に向かっている途中に、道端に彼女の携帯電話が落ちているのを見つけた。その時点で、志波は自分だけで彼女を探すことに限界を感じた。
実際、走っているだけではどうにもならない事には薄々気付いていた。この先は幾つか割と大きな別れ道がある。まっすぐ家の方に向かったとは言い切れない。
「その辺りに公園あっただろ」と立川は言った。まずはそこに行けと言ったのは彼だ。最近話題になっていた軟禁事件で、同じように公園に連れ込む下りがあったらしい。意識的ではないにしろ、似たような行動をしているに違いない、と立川は言った。

「ああいう奴らは大抵想像力が欠如しているからな。こっちが思いもつかないような独創的な動きなんて、まずしない」

その言葉を信じて、志波はここまで走ってきた。そして、彼の言葉通りだった。

「まぁまぁ藤枝くん。君がそんな風にしたらダメでしょ。さっき志波を止めたばっかだってのに」
「だってこいつ、一ノ瀬を殴ったんですよ!?先輩が言うから…、それに、俺も一応野球部部長ですから。でなかったら、こんな奴…!」

女殴るなんて最低なんだよ、と、藤枝は怒りも露わに男に吐き捨てる。立川は、それまで支えていたさよを志波に引き渡し、あくまで穏やかに藤枝の腕から男を解放した。

「ったくねぇ、自慢のはば学の制服が台無しだよ。ごめんなさいねぇ」
「ちょ、先輩!」
「ちょっと落ち着きなさいって。わかってるから、とにかく、俺に任せとけ。手ぇ出すなよ」

あくまで飄々とした態度の立川に、相手も徐々に落ち着きを取り戻してきていた。「何なんだよ、お前らは」と、焦りながらも立川に噛みつく。まるで、自分の方が被害者だとでも言いたげに迷惑そうに顔を顰めた。

「いきなり掴みかかってきたり、腕捻ったり…!これだから偏差値低い学校の奴は…!僕は彼女と話してただけだぞ」
「はは、まぁそう怒らずに。それにさ、あいつは嫌がってるっていうか、大分と怖い思いをしてるみたいなんだけど。そういうのを、俺たちとしては見過ごすことが出来ないんだよね、まぁ大事な後輩だったり、同じ部の仲間だったりするわけでさ」
「そんなこと、関係ないだろ。怖い思いなんて誤解だよ、友達同士、時々は諍いが起こることもあるだろ?そういう事だよ、仲良くなるためには衝突する事もあるって事だよ」

そうだよ、と、尚も男は言い募る。

「僕は友達が欲しかっただけなのに、それをお前らが邪魔したんだ。女の子と仲良くしたいってのはそんな悪い事なのか?お前らだってどうせ似たような事してるくせに!」

さぁ、言い返してみろと言わんばかりの態度だ。ふざけんな!と、藤枝が今にも掴みかかりそうな勢いで吠える。立川は黙っていたが、やがて一つため息を零した。
志波は、男の言い分に確かに腹も立ったが、何も動かない。ただ、支えるさよの体の震えが早く止まればいいのにと思っていた。
相手がどんなに正当ぶったとしても、この勝負はもう目に見えている。どんなに吠えたところで目は怯えている。ただ、立川はどうするつもりなのだろう、と思った。
いつもふざけてばかりだが、こういう時、彼はどうするのだろう。「任せろ」と言うのだから、何か考えはあるはずだ。

「…まぁね、女の子と仲良くなりたいって気持ちはわかるよ。好きな女の子なら特にね。どんな小さな事だって知りたいだろうし、少しでも近くにいたいって俺だって思うさ。アンタの言い分は良く分かった。そうだ、友達なら俺が紹介してやるよ」
「いい加減にしてください、先輩!」

藤枝が痺れを切らすように叫ぶ。

「一ノ瀬がこいつにどれだけ傷付けられたか、わかって言ってんですか?これ以上ふざけた事言ったら、俺はアンタを殴りますよ!」

立川は藤枝の言葉などまるで聞こえていないかのように、男に「ケータイ出して」と近付いた。まるで、本当にただのトモダチみたいに。

「まずはメアド交換ね、あーあれだ。赤外線送信ってのが早いんだよ、アレするから」
「な、なんでそんな…お前みたいなやつと誰が…!」
「……いいから出せよ」

一瞬辺りの温度が、2,3度下がったかと思えた。内臓を、冷たい手で掴まれたらこういう感覚なのだろうか。
ぞっとする。
立川は、少しだけ目を細めた。相手は完全に怯えきっている。蛇に睨まれた蛙、というのはこういう時の言葉なのだと、志波は場違いな事を考える。あれほど激昂していた藤枝ですら、気圧されて黙りこんでいた。

「…俺が『友好的』なうちに大人しく出した方がいいぜ?何せ俺は引退した身だからな、今すぐお前の骨2、3本折ってやったって…『正当防衛』なんかじゃ済まないくらいに殴ってやってもちっとも構わない。ついでに言えば、俺は『偏差値の低い』羽学じゃ優等生でさぁ、お前と違って友達もいっぱいいるし、先生受けもすこぶる良い。お前がいくら言いがかりつけたきたっていくらでも看破出来る自信がある。…それがケーサツだろうが裁判所だろうが、お前なんて俺の敵じゃねぇんだよ」
「…ひぃっ…」
「自分より弱い女を追いかけ回すしか脳の無いお前でも、ちっと考えればわかるだろ?何せごリッパなはば学に通学なさってるんだからさ。…わかったら、さっさとケータイ貸せ」

震える手の上の携帯電話を、立川は涼しい顔をして受け取り、それから自分の携帯電話も取り出し、何やら操作し始めた。そして、ぱちり、と写真機能を使い、怯える男を撮影する。
「ほい完了!」と、立川は受け取った携帯電話を男の方に投げてよこした。投げられた携帯電話は、むなしく男の足元に堕ちる。

「これで、俺と目出度くオトモダチになったわけだけれど…それにしてもなぁ、ご丁寧に家の住所や電話番号まで登録してるなんて、バカだよなー」
「な、何したんだよ…」
「だから、お前の連絡先を俺のケータイに登録したの。友達、欲しいって言ったろ?」
「な…!」
「…いいか、良く聞けよ」

既に緩んでしまっている男の襟を、立川は締め上げた。

「…今後一切、あいつには近づくな、姿も見せるな。もしもその約束を破ったら、俺はお前の個人情報をネットに公開する。せっかくだから、住所も電話番号もぜーんぶ、な」

微かなうめき声だけが低く聞こえる。

「そうだな、別にどこでもいいけど適当に、なるべく不特定多数の人間の目に付きそうなところに。出会い系とかでもいいかもな?そうすりゃ次の日にはオトモダチ候補がわんさか家に来る事になる。その後も増える一方だ、良かっただろ」
「じょ、じょうだん…!」
「冗談なんかじゃねぇよ。正体不明の奴にこそこそ付けまわされるのがどれだけの恐怖か、身を持って知ればいい。ママか先生に助けを求めたけりゃどうぞ。ただ、その時はお前のやった事を全部バラすだけだ。こっちにはこれだけの証人がいる。いくらでも相手になってやるよ」

相手は、もう何も言わなかった。完膚なきまでに打ちのめされて、言い返す事も出来ないらしい。ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。
立川はそれを、つまらないものを見るかのような目で見やり、そして背を向けた。…そこで、終わったのだと思った。

「あぁそうそう、一つ言い忘れたけど」

皆で連れだって歩き始めた時、立川はもう一度彼の方に振り返り、にやりと笑った。

「さよすけに近付くのは許さないけど、俺にはいつでも会いに来ていいよ?何せ、オトモダチになったからね」

待ってるわよ、と、立川は冗談交じりに片目を瞑った。





「…先輩ってホンモノだったんですね」

辺りはもうすっかり暗かった。何となく、皆で一ノ瀬さよを囲むようにして歩く。じゃりじゃりと砂を踏みながら、藤枝は恐々とそう言った。

「あぁ?何がよ。俺がホンモノのヒーローだって話?」
「違いますよ!ホンモノのワルでしょ?でなきゃあんなおっかない事、言えるわけねーもん」
「んなわけないだろ。あんなの全部漫画の受け売りだよ。俺は昔から虫一匹殺せない文学美少年だったんだから。…まーそれはともかくだ」

ゆっくりとした歩みを止め、立川はぐるりとそれぞれの顔を見回した。

「えぇっと、まず。さよすけは、とりあえず何事も…ってわけじゃないだろうけど、まぁ大した怪我もなくて良かった。あれだけ言えばもう二度と何もしてこないとは思うけど…一応あいつの情報は藤枝と志波にも渡しとく。本当はさよすけが自分で持っておくのが一番いいけど…それは、ちょっと辛いだろうから。それと、もう一つ大事なこと、この事は俺たち以外には他言無用だ。こういう事は、話が大きくなればなるほど本人が辛いからな。もちろん、さよすけが誰かに相談したり、例えばもっとちゃんと解決したいと思ってそういう所に話を持って行くのは自由だ。とにかく、周りは知らないままならその方がいい」

異論は?と立川が問えば、藤枝は「ありません」とはっきり言った。志波も同じく頷いた。

「…あ、あの」
「ん?」

小さな声と共に、腕がひんやりと空気に晒される。そして初めて、一ノ瀬さよの肩に腕を回していたことに気が付いた。彼女は、志波から離れた。

「その…助けてもらってありがとうございました。先輩も、志波くんも藤枝くんも」
「そんなの、当たり前だろ」

真っ先にそう言ったのは藤枝だった。きっとその場にいた全員が同じ気持ちだったはずだ。
むしろ、あともう少し早く着いていればと志波は思った。そうすれば、きっと。

「…じゃ、俺と藤枝はこっちだから、さよすけは志波に送ってもらえ」
「だ、大丈夫です。わたし、もう平気です、一人で帰れますから」
「ダメ。ちゃんと送ってもらいなさい、これは部長めいれ…あーいや、俺はもう部長じゃなかったな」
「志波、絶対一ノ瀬のことちゃんと送ってけよ、これ部長命令な」
「あぁ、そのつもりだ」
「で、でも…」
「お前、こういう時は甘えとけって。俺たちだって心配なんだから。…今日は志波の言う事をちゃんと聞けよ、これも部長命令」





藤枝は呆れたようにそう言って立川と先に連れだって歩いて行く。「よし!じゃあこっから藤枝くんは俺と仲良くするために満喫へ行こう!そうしよう!」「冗談じゃないですよ、俺はまっすぐ帰ります」「何でだよ!?俺とのデートはお断りなのか?自分から誘ってくるようなゴウインな子は好みじゃないのか、藤枝くんはっ!」「何キモイ事言ってんですか、マジでしばきますよ」というやりとりが、がらんとした公園に響いていた。






















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