(私、この人知ってる)
それが「彼」を見て初めて抱いた感想だった。
いつもきちんと「制服」を着て、アンネリーに花を買いに来ていた。たぶん、月に一度くらいのペースだったと思う。いつ頃からかは、もう憶えていない。
彼の着る制服が、「はばたき学園」のものだというのは最近知った事だ。あの時、水族館で声を掛けて助けてくれた人も、今、目の前にいる彼とそっくり同じ格好をしていた。
もしかしたら、と思ったのはごく最近のことだ。でも、気のせいだとずっと思っていた。だって、まさか自分にそんな事が起こるだなんて思いもよらなかった。
現に、最近は姿も見なかったし、何より「何もなかった」のだ。だから、やっぱり勘違いだったのだと、勝手な思い込みだったのだと、そう思っていた、のに。
「…最近忙しかったんだ。予備校の模試とか、思わぬ予定が入ってしまって」
だからごめんね、と彼は言った。その間、君を一人にしてしまって、ごめんね。
目を伏せて、心底申し訳なさそうな顔をして、さよにそう謝る。
彼は片手でさよの手首を掴み、もう一方の手にはさっき、さよから取りあげた携帯電話を持っていた。彼はしばらくその電話で何か操作をした後に、ぽいと路上にそれを放り出す。
小さな子が飽きてしまったおもちゃを投げ捨てるみたいに、無造作に。
そうして満足げに、穏やかな顔で彼は微笑み、そして言った。
「じゃあ、行こうか」
「…っ!」
幾度目かの赤信号に引っ掛かり、志波はそこで足を止める。全身が必死で酸素を欲しがるように最大限に細胞が活動している気がした。肺は破れるのではないかというくらいに痛み、咳き込む喉には血の味がする。 全身が心臓になったかのように、自分の鼓動の音しか聞こえなかった。汗はいくら拭っても流れだし、手の平までもじっとりと汗ばんでくる。
体の動きを止めている間は、頭を必死に回転させた。一体あいつに何が起きてる?どこに行けばいい、どうすればいい。
あれからすぐにリダイヤルしてみたが、電源は「落とされていた」。恐らくは、彼女の意志以外の何かが原因で。
携帯電話だけを握りしめ、取るものもとりあえず志波は家を飛び出した。バイトから家に帰る途中だと言っていたから、とにかくそっちの方向へ向かって走る。道は憶えていた。志波の家からだとアンネリーを通り過ぎて彼女のマンションに向かうことになるから、恐らく行き違いになることはない。
「たすけて」
か細い声が、耳にこびりついて離れない。もしや大した事ではないかもしれないと一瞬楽観的な考えに逃げそうになり、そんなわけあるかと、すぐさま打ち消した。
いや、何でもないならその方がずっといい。例えば針谷あたりが考えた悪戯だというならどれだけいいか。迫真の演技だったと笑って終わりだ。
空の闇はどんどん深くなっていく。それに比例して焦りと苛立ちがどんどん膨れ上がっていくのがわかる。信号が中々変わらず、車の流れが止まらないのも一因だった。
(…落ち着け)
無茶なペースで走ったせいか、せり上がってくる吐き気に顔を顰めつつ、志波はそれだけを何度も繰り返す。落ち着け。何度も何度も、祈るように。
彼女のバイト仲間でもある元春には、電話はしたが通じなかった。恐らくは運転中なのだろう。留守電に折り返し連絡するようメッセージを残したが、いつ気付くかわからない事を考えると、あまりあてには出来ない。
最悪、こういう時の為の公的機関に通報しようかと考えた。だが、何と言って説明すればいいのだろう。助けて、と電話はかかってきたが「付けられている気がする」というだけだ。場所も不特定で説明しにくい。そして、それ以外の情報は自分にはない。それで通報したところですぐに動いてくれるとも思えなかった。高校生の悪戯だと思われるのが関の山じゃないだろうか。
何より、そういった機関に通報するのは何としても避けたい気持ちだった。そうすることで、決定的に「大変なこと」となってしまう事が怖い。
「大変な」、「取り返しのつかない」事に。
(…どうして)
どうしてこんな事になってしまっているのだろう。ついこの間、花火大会の話をしていたのに。「楽しみだね」と言って笑っていたのに。
そんな風に笑いあったのは、ひどく昔の事のように思えた。そしてそれは、どんどん嫌な想像に追い立てられて遠くへ行ってしまう。
こんな時、どうすればいいのだろう。ただ闇雲に走り、無力感と不安に苛立つ事しか出来ないのか。
(やめろ、何も考えるな)
体はもうあちこちが悲鳴を上げていて、ばらばらになりそうな程酷使している。もし迷ったら足が止まってしまう。
ここで止まったら、俺はまた後悔をする事になるかもしれない。今度こそ、いくら悔いても自分を許せないような後悔を。
何度か深呼吸を繰り返す。体に入り込む生ぬるい空気は不快だったが、それでも、しないよりは幾らかマシだった。
「どこへ行こうか」
彼は唄うように言った。彼はがっちりとさよの手首から力を緩めることはなかったが、それ以外は何もしてくる気配はない。さよはただ、彼に引き摺られるようにして歩いているだけだった。 無駄に抵抗するよりも、隙を見て逃げる方がいい。頭のどこかではそう考えるのだけれど、何より恐怖が体を支配して言う事を聞かない。
彼の、あやすように優しい声や穏やかな表情が、尚のこと恐ろしかった。さっきから何人かの通行人とすれ違っている。助けを求めようと思えば出来たはずだった。だけど、口は強張って何も言えない。何よりも、このがっちりと掴まれている手から逃れられるとは到底思えなかった。
「…ずいぶん、大人しいんだね」
掴まれている手に、僅かに力が籠る。
「そんなに緊張しなくていいのに。折角二人きりになれたんだから、何か話してよ」
「…っ」
一体、何を話せばいいのだろう。この人は、落ち着きはらった顔をして、どうしてこんな訳のわからない事を言うんだろうか。
「せめて、どこに行きたいかくらいは教えてくれない?」
さよは、ふるふると首を振った。行きたいところなんてない。少なくとも彼と一緒に行きたいところなんてどこも思い浮かばない。
そうか、と、彼は残念そうな表情をした。君の行きたいところに連れて行ってあげたかったんだけど、と、まるで、さよの方が駄々をこねて困らせているような、そんな気にさせるような表情で彼はそっと溜息をつく。
「困った子だね。…それなら、僕の行きたい所になってしまうけど、構わない?」
構うも何も、否という選択肢がないことくらい、さよだってわかっている。彼は笑った。軽く、笑い声すら立てて。
「もう少し行くと公園があるんだ。…ほら、見えるだろ」
促されて見てみれば、確かに鬱蒼とした木のたくさんある公園が見えた。明らかに人気が感じられない場所。
「本当は君の家にお邪魔してみたいんだけど、それはここからは遠いだろ?だからそれはまた次にね」
その言葉に、はっきりと鳥肌がたった。
公園へ向かう間も、敷地内へ入ってからも(中は思ったよりも広かった)、彼の舌は滑らかで、話が途切れることはなかった。自分と初めて出会った時のこと、勇気を出して花屋へ入ったこと、そこで交わした会話、どうしても会いたくて羽ヶ崎学園まで何度となく行ってしまったこと、それから。
「それから、水族館でも君に会った。あの日は課外授業だったんだ。水色のワンピースを着てたよね?すごく似合ってた」
ふと、思い出されたもの。志波とはぐれてしまった時に、何時の間にか手にしていた紙切れ。
『赦さない』
「…あの時の、あれ…」
「そう、僕だよ。…僕の気持ちをどうしても伝えたくて」
ぴたりと、歩みが止まる。公園は丸きり人気がなくて、耳が痛いくらい静かだった。
重い沈黙に、息が苦しくなる。考えてみれば彼がこんなにも長く黙りこんでいるのは初めてだ。
「…僕はね、すごく悲しかったんだ。本当は、あの時だって声を掛けようと思ったけど…色々と邪魔が入ったから」
今までただ優しいだけだった声音に、僅かに剣呑な響きが籠る。
「君はかわいいから…だから色んな男が君を狙うんだ。あの花屋のチャラ男だってそうだし、いつかの赤毛の不良みたいなバカもそうだし、おまけにアイツまで…!…折角書いた手紙を捨てやがった」
「そ…それは、あなたの勘違いです…っ。別に、先輩もハリーも…あなたが言うような人じゃなくて、別に」
「あぁでも、一番許せないのはあの水族館で一緒にいた奴だな。見るからに体力バカみたいな頭の悪そうなやつで、そのくせ君には偉そうな態度を取るんだ。その上ほいほい家にまで上がり込んで…ずうずうしいったらない」
「や…やめてよ、志波くんのこと、悪く言わないで…っ!」
途端、ばしんと目の前に火花が散った。一瞬、何が起きたかわからなかった。
後から、遅れてくるようにじんじんと頬に熱と痛みがわき上がる。「黙れよ」と、さよに向かって彼は傲然と言い放った。
そうしてやっと、自分が彼に殴られたのだと理解する。
(…怖い)
今まで麻痺していた恐怖が背中を駆け上がってくる。怖い怖い怖い。
咄嗟に掴まれている腕を解放させようと体ごと引っ張ってみる。だが、びくともしなかった。それどころか、逆に強い力で体ごと引っ張り込まれる。
「ねぇ、痛かった?」
さっきよりずっと近い距離で囁いて、彼はするりとさよの頬を撫でる。心底嫌悪を感じて、必死に彼から離れようと押し戻すのに、その距離は少しも変わらない。
彼はまた柔らかく笑った。
「こんなこと、本当はしたくないんだよ。だって、何だか無理やりみたいだからさ。そういう風にされるのが好きって子もいるらしいけど、僕にはよくわからない」
(…この人、一体、何言ってるの…?)
話している言語は日本語だが、その意味はさよにはさっぱりわからなかった。ヒアリングの苦手な英語だって、この人の話す言葉よりはまだ意味が聞き取れるはずだ。
「…ゃ、だっ、離してっ…!」
「…いいけどそれで?どうしようっていうの?」
抵抗するさよに、彼は今度こそ意地の悪そうな、酷薄な笑みを返した。彼の胸を押す手を簡単に捕まえられて、丸っきり動きが取れない。全然歯が立たない自分の様子を楽しんでいる風に彼は見下ろす。
「ここで別れても、同じ事だ。まぁ最も離れる理由なんてないけれど、百歩譲って君の言うとおり離れても何の解決にもならないよ。…今度はきっと、もっと簡単に捕まえられるだろうから」
もう一度、彼の手が殴られた頬を撫でた。大切そうに、壊れ物を扱うように、丁寧に。
莫迦にしているんだ、と思った。そう思ったら今頃になって涙が出そうになったので必死に堪える。泣いたりなんてしたら、ますます相手が悦ぶような気がした。
顎を掴まれ、顔が上を向くようにされる。何をしようとしているのか気付いて抵抗しても、その力が緩まる事はなかった。むしろ、ぎしりと力を込められるだけだ。どんなにもがいてもこの束縛から逃げる糸口さえ見つからない。
もうダメだと思った。目頭が熱くなってぎゅっと目を瞑る。
(誰か…、志波くん…っ)
脳裏に浮かんだのは、ひっそりと、けれど穏やかに笑う優しい志波くんの笑顔。
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