天気予報で、今週末は晴れると言っていた。
だから、今、低く黒い雲がたちこめていたとしても一向にかまわない。日曜はきっと雲ひとつない空が見えるはずだ。
それにしても、夏の雲というのはどうしてこうも不穏なのだろう。見ているだけで心がざわつく。
「勝己ー、勝己ー!」
遠くで母が呼んでいる気がする。微睡みの中、志波はぼんやりとそれを聞く。
声はだんだん大きくなってきて、やがてそれははっきりと存在感を持って聞こえた。
「いるんなら返事くらいしなさい!ったく、練習がないってなるとゴロゴロしてばっかりなんだから!こんな大きな牛、飼った憶えはないわよ?」
「…るせぇ」
「あら、なによ?だって本当の事でしょ!それから、親に向かってうるさいって何?あんたがそうやって寝ている間に、誰がせっせとご飯作ってると思うの?」
「……悪かった」
そう言われてしまえば、志波は謝る他にない。これは言外に「生意気言うならお前のご飯は作りません」という通告だ。大人しく引き下がる以外に手はない。
母親は、しばらくはだらだらと寝て過ごす息子を傲然と見下ろしていたが、次にはあっさりとした口調で「わらび餅買ってきたの、食べる?」と台所の方へ消えた。
「食う」とだけ言って、未だに体にわだかまる眠気を引き剥がすように、志波はむっくりと起き上がる。
きなこと黒蜜のかかったわらび餅は、喉につめたくて美味しい。甘やかなつめたさが霞みがかった頭の中をすっきりさせていく気がした。やはりこれは夏の食べ物だと思う。
向かいに座る母は、わらび餅をぱくぱく食べながらテレビ画面を熱心に見詰めていた。テレビからは女性アナウンサーの落ち着いた、しかし少し甲高い声がニュースを読み上げている。先日起こりました女子大生軟禁事件について、警察当局は――。
「…物騒ねぇ、最近、こんな話ばっかりで嫌になっちゃうわね」
「大した怪我もなくて保護されたんだから、まだマシだろ」
「バカ言わないでよ、怪我はなくったって精神的にはすっごく傷付けられたのよ?本当にお気の毒ねぇ」
そう言って、母はまた一口わらび餅を頬張った。確かに気の毒だが、そうは言っても所詮は名前も知らない他人だ。今一つピンとこない。
「その点ウチは、まぁあんたは軟禁はされないわね。何か事件に巻き込まれるとしたら…そうねぇ、後ろから刺されるとか、車に轢かれるとか?そんなかしら?」
「おい。縁起でもないこと言うな」
「何よ、冗談よ冗談」
わらび餅を食べ終えてしまった辺りで、テレビの話題もご当地グルメか何かの話に切り替わり、先程とは一転してにぎやかな画面になっている。しばらくは見ていた母も、途中でチャンネルをいくつか変え、挙句テレビを切った。「ロクな番組がないわね」などと、あれほど熱心に見ていた事を棚に上げ、つまらなそうに口を尖らせて。
「それにしても、お天気悪いわねぇ、降ってきそうで洗濯物が干せないわ。浴衣も陰干ししたかったのに」
「浴衣?」
「だって、今度花火大会でしょ?あんた、また浴衣着て行くじゃない。だから、風通しておこうと思って」
「…あぁ、それで」
「折角だものねぇ、ねぇ、さよちゃんと行くんでしょ?」
「…まぁな」
まさか、また色々と詮索されるのだろうかと身構えたが、予想に反し母はそれ以上は突っ込んでは聞いてくることはなく、「日曜日は晴れるといいわね」とだけ言った。
「まだお昼なのに、何だか暗いわよねぇ、曇ってるせいかしらね」
だが、いつ余計な事を聞かれるか油断は出来ない。ほうじ茶を飲みながら窓の方を見る母に「ごちそうさま」と告げ、部屋に戻った。
だが、戻ったからと行って特にすることもない。日課にしている筋トレや走り込みはこなしてしまったし、この天気だと気分転換に走ろうかという気分にもならない。仕方がないのでベッドに寝転ぶと、存在を忘れていた眠気が、また波のように揺れて戻ってくる。つらつらと、色々な物が頭を過ぎった。わらび餅、ワイドショー、手に付いた黒蜜、さよちゃん、浴衣、曇り空――。
そこには、出店がたくさん出ていた。志波は浴衣を着て、手にはりんご飴を持っていた。去年、一ノ瀬さよと行った花火大会の時に似ていると思う。
だが、彼女の姿はどこにも見当たらない。人とすれ違う度に彼女を探すのに、ちっとも現れない。もしかしたら、約束の時間にここには来れないのかもしれない。
歩いて行くと、そのうち、りんご飴屋が見えてくる。その店の前に、親子が立っていた。若い母親と、小さな女の子。
女の子は熱心にりんご飴を見詰めていた。魅入っていると言ってもいい。誰がどう見ても、あの子はきっとりんご飴が欲しいのだとわかる態度だ。
母親はそれに気付き、女の子と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。「ほしいの?」と、一言聞いた。
女の子は母親とりんご飴を何度か見比べて、だが結局首を振った。母親はそれを見て、ただ柔らかく微笑んだだけだった。
「おい」
女の子が、自分の方に振り向く。うす桃色の浴衣に黄色い帯は、その子供には少し大きかった。
「やる。お前に」
志波は持っていたりんご飴を彼女に差し出す。てっきり喜んでもらえると思ったら、女の子は顔を強張らせた。むしろ傷ついたような顔をして、いらない、と言った。
「わたし、いらない」
「さっき、ずっと見てただろ?」
「いらないもん。そんなの、わたしいらない!」
癇癪を起こしたようにそう言って、それからどういうわけか目に涙を浮かべた。しゃくりあげて、べそべそと泣く。いっそ声を上げた方が楽なのに、泣くのを堪えようとするのでまるで呼吸困難のような泣き方だった。手を伸ばそうとすれば、彼女は身を捩ってそれを避けようとする。とにもかくにも、全身で志波を拒絶するのだった。
女の子は「ごめんなさい」と志波に謝る。こまらせて、ごめんなさい。わがままをいって、ごめんなさい―――。
ふつりと、見えていたものが切り替わる。そして、ああやっぱりあれは夢だったんだと自覚した。それにしても、おかしな夢だった。
辺りはずいぶんと暗かった。思っているよりも長い時間、自分は寝てしまったらしい。冷房も入れず、窓も閉め切っていたので全身じっとりと汗ばんでいて気持ち悪かった。夕飯前に風呂に入るかと、ぼんやり考える。
窓を開ければ少しは暑さもマシになるかと思ったが、外も大して変わらないようだ。開けた途端に熱気と湿気を含んだ空気が纏わりつくように流れ込んでくる。相変わらず、空は綿ぼこりのような雲で覆い尽くされて息が詰まりそうだった。天気予報はああ言っていたが、本当に日曜は晴れるのだろうか。風もなければ音もない夕暮れは微かに緊張感を孕んでいて、やはり息苦しい。
さっき見た夢の記憶は、目覚める瞬間まであれほど鮮やかだったのにも関わらず、既に遠ざかろうとしていた。自分は浴衣を着ていたはずだと、そんな情報しか思い出せない。
夢の内容はともかく、自分は案外と花火大会を楽しみにしているらしいと改めて思う。
(…一ノ瀬は、どうだろう)
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。電話では、嬉しい、みたいな事を言っていたけれど。
――「いらない」
きっぱりとした声。だがすぐさま、考えすぎだと、志波は軽く頭を振る。そんな風に、彼女は志波に言ったことがない。りんご飴だって、さよは「ありがとう」と受け取ったのだから。
(どうかしてる)
きっと、おかしな夢を見たせいだと、志波は自分に言い聞かせる。正直、もうほとんど思いだせないような夢なのに。
あるいはこの天気のせいかもしれない。あの不穏な黒雲が、意味もなく落ち着かなくさせているのかもしれない。
ぴりり、と甲高い電子音が部屋に鳴り響いた。志波は特に驚きもせず携帯電話を手にする。むしろ意味のわからない不安から解放された事にほっとして、ろくに相手の確認もしないまま、志波は通話ボタンを押す。
「もしもし、志波です」
『……あ、志波くん、ですか?』
「…一ノ瀬、か?」
一瞬、がさがさと声以外の音が入る。彼女の声が遠いような声がして、志波は携帯電話を注意深く耳に押しあてた。
「何だ?…もしかして、外からか?」
『…あ、うん。そう、なんだけどっ…』
そこで気付いた。声が遠いのではない、小さいのだ。そのせいか、普段の彼女の声より幾分低く、硬く聞こえた。
それにしても出先からかけてくるとは、余程の急用だろうか。こんな事は初めてだ。
『い、今、バイトの帰りで…それで、えっと、志波くんは元気かなって』
「…そうか。お疲れ」
何だ、一体。
会話をしながら、志波は妙だと感じる。出先からというのもだし、会話の内容もだ。一ノ瀬ははっきりした用件がなければ自分に電話などしてこない。こんな取りとめのない会話を、しかも出先からわざわざ電話してくるとは、普段の彼女からは考えられない。
それに。
「…どうした?一ノ瀬、聞こえてるか?」
妙だという疑問から、不安が次々沸き起こってくる。空にある黒雲のように。
「女の子なんだから、何でもあるのよ」という、いつかの母の言葉を何故か今思いだして忌々しい気分になった。
『…き、気のせいだと思うんだけど…なんか、誰か付けてきてるような気がして…っ』
「…今、どこだ。どこ、歩いてる」
思わず電話を持ったまま立ちあがった。心臓が、煩いくらい激しく動いているのがわかる。
『アンネリーから…家に向かって、それで…っ』
ひくり、と、しゃっくりを我慢するような音がして、涙声が志波の鼓膜を震わせた。
『なんか…こわいよ。志波くん、たすけて…っ』
「いち…っ」
ぶつり、と全部の音が一気に遮断される。あとは、いくら耳を澄ませても無機質な電子音が繰り返されるばかりだった。
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