「…ただいま」
玄関のドアを開けて家の中に入れば、とりあえずは外の暑さから解放された。日が暮れても外はまだ日中の熱気が残っていて、走っていると蒸されるようだ。
おかえりー、という、母の大きな声が廊下に響く。それに次いで彼女は開けっぱなしのドアからこちらに顔を出して呆れたように眉をひそめた。いつもの事だ。
「もう、いっつも帰ってくるのが遅いんだから。早くシャワー浴びてきちゃいなさい。ごはんはもう出来てるから」
「あぁ」
「お父さんももう帰ってくるって電話あったから急いでね」
「わかった」
返事をしながら脱衣所に向かう。脱いだスウェットはそのまま洗濯機に放り込み、風呂場の戸を開ける。それと同時に玄関の方で「ただいまー」と間の伸びた声が聞こえた。父親が帰ってきたらしい。
急がないとまたうるさく言われるなと、志波はコックを捻った。
風呂から上がってダイニングにむかえば、テーブルには所狭しと料理が並べられていた。冷ややっこ、お味噌汁、なすの揚げ浸し、サラダ、豚の生姜焼き、それから茹でた枝豆。
父親は既にビールを飲んで上機嫌だった。
「ちょっと勝己!あんた何でちゃんと髪乾かさないのよ、風邪ひくじゃない!」
「…急げって言っただろ。そのうち乾く」
「そうだけど、それとこれとは話が違うのよ!大体ね、夏風邪はバカがひくって言うんだから!アンタ気をつけなきゃダメでしょ!」
「うるせぇ。腹減った、メシ」
「あーもう、人が心配してるっていうのに!お父さんからも何とか言ってよ!」
「まぁまぁ、勝己は頑丈だから大丈夫だろ。それより母さんも、一杯。ほら座って」
「あっ、ちょっとお父さん、ビールは一缶だけって言ったでしょ!?それでなくても最近…!」
「まぁまぁ、そうカリカリしないで。ちょっとだけだって」
まったく、いつも心配してるのは私だけなんだからっ、と、母はぷりぷりと怒りながら、それでもコップにビールを注いでもらうために父にそれを差し出すのだった。
大体、いつも通りだ。いつもの通りの家族の夕食。
そう、何も変わらない。志波が野球をまた始めようとも。
一応、けじめだと思って始める旨を両親に伝えたが、どちらにしても反応はあっさりとしたものだった。母は「そう。また頑張りなさいね」とあっけらかんと言ったし、父は「来年の夏は甲士園まで応援に行かなきゃいかんなぁ」と、のんびりと言った。
そしてそこから、それなら会社は休めるのかとか、有休はどうなってるだとか、どうせなら会社の誰それさんも誘えばいいわよ、ほら、あの人野球好きだって言ってたじゃない?などと言う話に発展し、「いや、まだ行けるとは決まってない」と口を挟めたのは、もしも優勝した場合、ご近所に何か配った方がいいのかしらという話になったところでだった。
これくらいでいいのかもしれない、と思う。これくらいが、自分には丁度いい。
椅子に座って、てらてら光る生姜焼きに早速箸を伸ばしたら、「ちゃんと『いただきます』してからでしょ!」と母の怒声が飛んでくる。
なので、箸を置き、手を合わせて「…いただきます」と言った。父は向かいで、茹でてきれいな緑色をしている枝豆を摘まんでいる。
「…ねぇ、そういえばさよちゃんは元気?」
そう聞かれたのは、おかわりをした生姜焼きの豚肉に齧り付いたところだった。どういう話しの流れで「そういえば」なのだろう。意味がわからない。
どう返事をしたものかと迷っていると、とうとう3缶目に手を出した父親が何一つ戸惑う事なく話に加わってきた。
「あぁ、さよちゃんってのはアレだろ。母さんの友達の」
「……っ」
お袋の友達!?
何がどうなっていつの間にそんな話になっているのだろう。いや、その前に、何故親父があいつの名前をこうも気軽に呼ぶのか。確かに買い物をするスーパーで会うという話を母から聞いていたが、友達だという話は初耳だ。
ますます混乱する息子の事など目もくれず、母は「そうなのよ」と話し始めた。自慢げに、そして自信たっぷりに。
「いつだったかしらねぇ…、この間会った時はね、卵の話をしたのよ。その日は卵が安くってね、で、安いのは嬉しいけど、あまりにも安いとちょっと考えちゃいますよね〜って。ほら、お肉とかでもそうじゃない?」
「ははぁ、なるほどねぇ。高校生なのにしっかりしてるんだな、さよちゃんは」
「その日は、さよちゃんもたくさん買い物しててね。確かお父さんが帰ってくるっていうので。そしたらご飯の用意も二人分でしょ?保存の事とか、色々聞かれたわ。ごはんは冷凍してどれくらい持ちますか、とか」
お父さん。
その言葉に、以前行った一ノ瀬さよの家を思い出す。父親と娘、親子二人で住むには広すぎる、立派すぎる家。
既に自分の分の食事を終えた母は、コップについだ麦茶を一口飲んだ。志波は黙っておかわりした生姜焼きをごはんと一緒に黙々と頬張る。
父はビールを飲んで空になってしまったコップに母と同じように麦茶をついだ。
「お父さんが帰ってくるって、さよちゃん家はお父さん、毎日帰ってこないのか」
「そうなのよ。なんでも出張が多いんですって。仕事場に泊まり込むことも多いって言ってたわ。でも夏休みの間はまた海外に行っちゃうって」
「そりゃあ、大変だなぁ…」
父親は麦茶を飲みながらしみじみとそう言った。それはさよに対してなのか、それとも彼女の父親に対してなのかはわからない。
でもね、と母は少しばかり憤慨したように声の調子を強くする。そうしながらも、食べ終えた食器を重ねたりテーブルを台布巾で拭いたりと、動きは止まらなかった。
「でもね、そりゃあお仕事も大変かもしれないけれど、ちょっとどうかと思うわ。だって、年頃の女の子をほったらかしにだなんて、危ないじゃない」
「…お母さんは、いらっしゃらないのか」
そうなのよ、と、母は更に憤懣やるかたないと言う風に、けれどどこか意気揚々と答える。よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりに。
こうなると中々話は終わらないかもな、と、志波は正直うんざりする。いつも思うのだが、父は母の話をよくも平然と聞いていられるものだ。母との付き合いの年季の差だろうか。
母の話はまだ続く。
「さよちゃん家って、そりゃあ立派なマンションなのよ。ほら、ちょっと前にウチにもチラシが入ってたでしょ、あそこ」
冷ややっこの小鉢も、お味噌汁のお椀も、次々と重ねて、そして流しに持っていかれる。残っているのは自分が食べている分と、サラダの入ったボールくらいだ。
「新しいマンションだから、セキュリティ?っていうの?そういうのもちゃんとしてるらしいんだけど、でもやっぱり心配じゃない?ねぇ、お父さんだったらどうする?女子高生よ?女子高生っていってもさよちゃんはもう少し幼く見えるようなかわいい子なんだけど、そういう子をがらんとした家に一人で置いておける?」
「そうだなぁ…」
「私だったら、絶対そんな事できないわ」
父の答えなど聞く間もなく、母はきっぱり断言した。そしてその後に「娘を持ってないからよくわからないけど」と付け足し、そして「でも娘ってかわいいものだと思うのよね」で締めくくる。
そして更に「だからね」と志波の方を見た。母はようやく全てを食べ終えたらしい息子にも麦茶を出してやりながら、強い口調で言った。
「だから、あんたもしっかりしなきゃだめなのよ」
「……何で俺が」
「そりゃあそうでしょう。あんたは私の息子なんだから、何かあった時にはさよちゃんを助けてあげなきゃダメじゃない!」
あんた、バカじゃないのと言わんばかりの調子で、母は呆れたように自分を見る。
母の横では父がのんびりと「そうさなぁ」と相槌を打った。
「さよちゃんは母さんの友達だからな。何かあったらお前は力になってあげないとな」
「ねぇ!そうよね!ったく、ぼーっとしてるんだから!」
「いや…」
(何か、順番が違わないか?)
納得が出来ないまま、しかし、彼女に何かあった場合は確かに力にはなるだろうから「わかった」と返事をしておく。
これは、例の正体不明の感情は関係ない。母の友達かどうかは置いておいて、そうでなくとも同じ学校の友達で同じ部の仲間なのだから答えに迷う理由はない。
「…でも、何か、って何だ?」
「……あんたって子はほんっとに……!」
「何だよ、わからねぇから聞いただけだろ」
「女の子なんだから何でもあるのよ、色々と!あんたみたいな木偶の坊とはワケが違うの!ちょっと想像したらわかるでしょ!」
「…さぁ…」
「…あーもう!これだから男って…!ほんっとにもう!」
それから後も、母には散々な言われようで酷い目にあった。出された麦茶を飲み干し、「ごちそうさま」と言って早々に自分の部屋に退散する。階段を上がり、ドアを閉めて、やれやれとため息をついた。
母は去年の冬、一ノ瀬さよを看病した一件から彼女をとても気に入っているらしい。(それ以前から気にはかけていたようだが、あれがきっかけとなり拍車がかかったようだ)
考えてみれば、母親が「女の子」に接する機会というのは今までほぼ無かったと言っていい。だからやたらと気にかけ、かまいたがるのは仕方がないことかもしれない。「あんな子」と眉をひそめられるよりは余程良い傾向なのだろう。若干行き過ぎている気もしなくはないが。
さて、雑誌でも読むか、筋トレか、それとももう寝てしまうかと考えているところへ携帯電話の着信音が鳴る。メールではない、通話の方だ。
液晶画面に映し出された名前は、さっきまで話題だった「母の友達」だった。
「…はい、志波です」
「…もしもし、一ノ瀬です。…今、時間大丈夫だった?」
遠慮がちに言う彼女に、さっきまでお前の話が夕食時の話題だったと言えばどんな反応が返ってくるだろう。
試してみようかと思ったが、結局は触れずにおいた。話したところで母親と彼女の仲が深まるだけな気がする。それは何となく面白くない。
「どうした?何か用か?」
そう言って、志波は先を促す。一ノ瀬さよは遠慮が先立って、中々話が始まらないのだ。何か言えば志波が怒るとでも思っているのかもしれない。それくらい、ごにょごにょと逡巡する時間が長い。
そこまで自分に遠慮するのは何故だと思うのだが、この頃はあまり気にならなくなった。何もなくて自分に電話をかけてくることなど彼女には有り得ない。こうして遠慮している時は、特に。
だが、その続きは予想とは違っていた。
「あのね、明日の練習始める時間が変更になったの。志波くん、知ってるかなと思って」
「あぁ、聞いてる」
「そっか。それならいいんだけど」
「……それだけか?」
「え?…うん」
それだけだよ、と、あっさり返ってきた答えに、志波は肩透かしでも食らった気分だった。何のことはない、部活の連絡事項だった。別に、彼女でなくても誰でも用が足りるような話。
その事に、志波は自分でも驚くほどがっかりとしている事に気付く。そしてこの通話が、あと何秒かで終わってしまう事に焦っている事も。
反射的に「嫌だ」と思った。どこかで、このまま終わってしまう事に納得(というよりも諦め)しているはずなのに、聞きわけのない子供のように「嫌だ」と駄々をこねる自分がいる。
意味がわからない焦りにどんどん追いつめられて、『それじゃあ、遅くにごめんね』と会話を終わらせようとした彼女に「待て」と言った。
…言ってしまった。
「…え?な、なぁに?」
「…あ、いや、その」
引き止めたからには何か言わなくてはならない。けれど、何も出てこなかった。
まさか、「もう少し話していたかったから」などと言えるわけがない。
(もう少し話していたい?)
そうなのだろうか。自分はその為だけに、彼女を引き止めたのだろうか。
そもそも、話とはなんだ。俺は一体、あいつに何の話がある?
「…あのぉ、志波くん?」
電話越しに聞こえる気遣わしげな声に、はっとなる。きっと不審に思っているのだろう。あるいは、心配しているのかもしれない。
今日は、父親がいるのだろうか。それともまた一人でいるのだろうか。
そんな事をぼんやり思った。
「…8月の頭の日曜、空いてるか?」
「え?…う、うん。空いてるけど…」
「なら、花火大会に行こう。…一緒に」
言ってしまってから、気の早い話だと自分に呆れる。今は7月半ばで、花火大会までは半月ほどある。
だが言ってしまえば、それこそ自分たちにとって大事な話ではないか、とさえ思った。少なくとも、明日の練習時間云々などよりもよっぽど。
「…本当?」
こんな時に冗談言ってどうする、と思う。おずおずと、だけど期待と喜びが隠し切れていない声。さよにこうして聞き返されることが、志波は嫌いではない。
また変な感じがする。もどかしいのに、満足している。もう彼女が断らないことを、志波はわかっていた。だからなのか、さっきとは一転して満たされた気持ちだった。
余裕で、笑みさえ浮かぶくらいだ。
「あぁ。お前が良ければ」
「い、行くよ!絶対!…嬉しい、すごく楽しみ」
「…日曜、晴れるといいな」
また明日学校でと電話を切ってからも、満足感がなくなる事はない。気分良く眠れそうだと思った。
部屋にあるカレンダーの、8月のページを確かめる。印こそ付けなかったが、一週目の日曜が何日かなのかだけは頭に叩き込んでおいた。
花火大会の日はきっと晴れるに違いない。そう信じて疑わなかった。
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