何も出来ないことはわかっている。
それでも、見つけてしまったからには声を掛けないわけにはいかなかった。
課外授業を行うこと自体に反対はしないが、それにしても今日のようなお客が多い水族館に来るというのは如何なものだろうか、と赤城一雪は思う。
制服着用は規則なのできちんと夏服を着てはいるが、ベストが室内では少し暑い。館内は冷房で室温が調節されているはずだが、それもこの人だかりでは追いつかないのかもしれなかった。
今日は他のクラスも合同ということで大所帯だ。夏休み間近の日曜日に、制服を着込んだ高校生の集団が水族館でウロウロしているというのは何とも奇妙だ。こういうところは友達同士や、あるいは付き合っているカノジョなんかと来るべき所じゃないだろうか。
(…なんて言っても、僕にはそんな子はいないけれどね)
ちらりと胸に浮かぶ面影に、一雪は笑う。こういう時、「あの子」のことばかり思い浮かべてしまうのは最早一雪の中では習慣だった。
そんな事を考えていたからどうかはわからない。けれども、その女の子の姿は一雪の視界の中で、単なる一風景とはならなかった。彼女は大きな水槽(確か熱帯地域の魚が入っていたんじゃないだろうか)の前で一人で突っ立っていた。誰かと話すわけでもない、かといって、水槽を観賞しているわけでもなさそうだった。ぼうっと立っているというよりも、「立っている」という姿勢のまま固まっているような気がした。
それは異様な光景だった。少なくともこの館内で彼女の存在は浮いているように見える。周りにはばたき学園の生徒が多いからかもしれない。水色のワンピ―スが頼りなげで、しかし彼女が微動だにしないのでちらりとも揺れる事はない。
もちろん、一雪には何もやましい気持ちなどなかった。確かに彼女はワンピースを着た年の近い、しかもこんな水族館に独りで突っ立っているような女の子ではあるけれども、あわよくば、なんて気持ちは一切ない。ただ、引率の教師からも解放された時でもある自由時間に、一雪は友達と一緒に歩いていたわけでもなく、黙々と一人でレポートについて考えたりメモを取ったりすること自体に飽いていたというのはある。要は暇だったのだ。もしも困っているなら助けになればという親切心はなくはないが、心底そう思っていたわけでもない。
周りの学生や、あるいは他の客は誰も彼女の様子に気付かないようだった。近付いてわかった事だが、彼女はもしや具合が悪いのではないかと一雪は少し心配になった。
彼女は少しも動かず、ただただ立ち尽くしていた。どこを見ているのかはわからないが、水槽を見ていない事は間違いない。彼女はひらひらと泳ぐ熱帯魚には背を向けていた。
体調が悪いのなら、具合を聞いて、場合によっては引率の教師を呼ぶか、水族館の係り員にでも知らせないと。
何かはわからないが、何事かはありそうだ。そうなった時の幾つかのパターンを想像しながら一雪は声を掛けようとして…、その声を一旦は引っ込めた。
(…なんだ?)
はらりと、何かが床に舞い落ちる。まるで花びらのように、けれども、それが花びらでないことは一目了然だ。
それは何の風情も感じられない、ただの紙切れだった。小さな、手の平に収まるほどの大きさのそれは、冷房の風の具合なのか、それとも人の動きのせいでなのか、一雪の足元にひらりと音もなく床を滑った。埃っぽい絨毯張りの床から、一雪はそれを摘まみあげる。見たところ、メモ用紙かノートを破ったようなそんな感じの紙だった。何とはなく、一雪はその紙の裏表を確かめる。
「………」
初めに見た面には何も書かれていなかった。そして裏を返した後、一雪は僅かに顔を顰める。
それから、その紙切れを手の中に握りこんだ。
「…ねぇ、君。大丈夫?」
彼女はしばらく間を置いてから、はっとしたようにこちらを振り返った。自分に声を掛けられていると気付かなかったのだろうか。それとも。
彼女は一雪を見て、まずは何が起きているのかわからない、という顔をした。それからゆっくりと、その瞳に不安の色を浮かべる。
小さな子だなと思った。もしかしたら中学生だったりするのかもしれない。
「もしかして、具合が悪いのかと思って。それとも、道に迷った?まぁ、こんな所で道に迷うも何もないけれど」
「あの…私、だいじょうぶ、です」
「そう、ならいいけど。…君、一人で来たの?」
言いながら、一雪は彼女の腕を掴んでその水槽の前から引き剥がすように連れ出した。もしや嫌がられるかもしれないと思ったが、彼女は抵抗することもなく、一雪に引っ張られるまま歩く。
一人なのかという一雪の問いに、彼女は首を振った。それからか細い声で「途中で、はぐれちゃって」と付け足す。そう、と、一雪も返事をした。
「電話、したんですけど…」
「ああ、ここ電波が悪いみたいだね。さっき友達が言ってた」
「あ、あの、私…」
「ここをまっすぐ行けば総合案内所だってさ。君の彼氏もそこで君の事待ってるんじゃないかな?」
「か、かれしってわけじゃ…」
「ふぅん?まぁどっちでもいいけど。とにかく、バカじゃなければそこにいるよ。見つからなければ館内放送でもしてもらえばいい」
彼女の言葉を遮り、一雪は少し冗談めいた口調でそう言った。それから、声を潜める。歩みは止めないままだ。
「…これ、君の落し物?」
彼女は黙ったきりだった。構わずに一雪は続ける。
「心当たりは?」
ふるふると、彼女は首を振る。さっき一人なのかと尋ねた時よりもはっきりと。
「…なら、これは僕が捨てておくから」
少し間があってから、ありがとうございます、と、小さな声が返ってくる。
気のせいか、震えているような気がした。
「…志波くん!」
その声を聞いた時、志波は心底ほっとして、そして自分がとても心配していた事に気付いた。
こんな大して広くもない水族館で。別に小さな子供というわけではないのに。
あちこち探したが結局見つけられず、おまけに肝心の携帯電話は電波が悪くて繋がらなかった。とりあえずは出入口付近にまで戻ろうとしていた時、さよの声が聞こえたのだ。
「ごめんなさい!」と開口一番に彼女はそう言った。とても申し訳なさそうに。
「あ、あの…ぼーっとしてたら、志波くんと離れちゃったみたいで…お客さんもいっぱいで、それで」
「いい。気にしてねぇから」
「でも…」
「会えたんだから、いい」
そう言っても、さよの顔は晴れなかった。その事が、とてももどかしい。そうじゃない、そんな顔を、させたいわけじゃないのに。
不意に胸が詰まったようになり、志波は軽く混乱する。一体、何だっていうんだ。何だって、胸が痛くなったりするんだ。
それでも、彼女を放って行くわけにはいかない。わけがわからないからといって、遠ざける気にはなれなかった。
どうしたらいいのかわからない。見つけて、安心したはずなのにまだどこか落ち着かない。
「…だから、そんな顔しなくていい」
さんざん考えた末、志波はさよの手を取った。小さな手は、少しかさついている。野球部で、いつも走り回って動いている姿を思い出した。
「またはぐれたら困るだろ」
「…うん」
言い訳めいた志波の言葉に、彼女はこっくりと頷いた。それから恐々とでもいうように、少しずつ力を込めて、小さな手は志波の手を握り返す。
「それにしても、今日は人が多いな」
「…他の学校の人たちが来てるみたいだよ」
ほとんど入口まで戻ってしまったので、もう一度同じ進路で水族館の中を歩く。今度は手を繋いでいたので二人の腕の長さ以上の距離にはならない。ついでに言えば、ひどく落ち込んでいたさよも徐々にいつもの調子に戻っていった。
「…他の学校?」
「うん。さっき、はぐれちゃった時に助けてもらったんだけど、たぶん課外授業とかだったのかなって。制服着てたから」
言われて見回せば、確かにそういう制服姿がちらほら見えた。随分大人数で来ているらしい。
「あぁ、はば学だな」
「はばがく?」
「はばたき学園だ」
はばたき学園に通っていると言えば、この辺りでは自慢しても良いくらいの学校ではある。生徒のほとんどが一流大学に進学するだとか、金持ちでなければ入れないだとか、とんでもない天才がいたりするだとか、まあ噂は色々だが、志波にはあまり興味のない話だ。
「…そうか。お前は引っ越してきたから」
「うん、でも…」
さよは集団で固まっているはば学生を、しばらく見つめていた。
「あの制服、見たことある」
「そりゃ、羽学生と同じくらいはば学の奴らもいるからな」
「…そうなの?」
「たぶんな」
さよは、視線を水槽の方に戻す。それから「あの魚、きれいだね」と言ったので、その話はそれきりになった。
「ユキってば、さっき見てたよぉ〜?」
にやにやと笑う同じクラスの女子生徒に、「何が?」と一雪はとぼけてみせた。まぁ、無駄だとはわかっていたけれど。こういう時の女子の感知能力というのは異常だ。
「とぼけてもムダ!さっき女の子に声掛けてたでしょ?課外授業中にナンパなんていっけないんだ〜」
「冗談。その子、水族館で彼氏とはぐれた挙句、気分が悪くなっちゃってさ、おまけにケータイの電源も切れちゃって、もうどうしたらいいかわからないんですって涙目で言われちゃったから、適当な所まで案内しただけ」
自分でもよくもこんなぺらぺらと適当な事を言えるものだと思ったが、クラスメイトは全く疑うことなく「そうなんだ、その子ダイジョウブだったの?」と心配げに眉をひそめる。人間、単純である事は美徳だと一雪は思った。
そんな事より、と一雪はクラスメイトの心配を「そんな事」で片付けてしまい、さっさと自分の疑問だけをぶつける。
「ここに来たのは僕らのクラスだけ?それとも他のクラスの奴もいたっけ?今日は合同だろ?」
「え?そうだけど…うーん、たぶん来てるんじゃない?自由行動になってから皆バラバラだからよくわかんないけど」
とっても参考になる答えをどうもありがとう、と、一雪は心の中で皮肉った。しかし、それは仕方がないことかもしれない。そもそも、この水族館でのはば学生の動きを全て把握することなんて、教師ですら困難な話だ。
「なんで?ユキ、もしかして先生に何か頼まれてたりするの?」
「いや、そういうわけじゃないよ」
言いながら、つい数分前この水槽前に誰が居たかをなるべく鮮明に思いだそうとする。一雪は個人行動を取っていたが、それほど集団に外れた憶えはない。現にあの時、周りには何人もはば学の生徒がいた。だが、クラスメイトの言うとおり、自由行動の最中だ。集団であったとしてもそれが自分のクラスの生徒だけだとはいえない。
「なんかさー、ユキ、フインキ怖いよ。どうしちゃったの?何かあった?」
「……あのさ、君、『ゆるす』って漢字で書ける?」
「はぁ?ゆるす?ゆるすってあの…ごめーん、許して〜!の、ゆるす?」
彼女は空中に指でそれを書いていく。ごんべんに午後の「午」だ。許す。
「…やっぱりそうだよね」
「当たり前でしょ!いくらなんでも『許す』くらい書けるっつーの!まさか、ユキ書けないの?」
「いいや。僕も、『ゆるさない』って漢字で書くならそう書くなって話だよ」
「…さっきから何言ってんの?」
アンタ、マジで大丈夫?とクラスメイトが顔を顰めるのも構わず、一雪はさっさと歩きだした。ずっと握りしめていた手の平を広げて、あの紙をもう一度見る。
色々と、複雑な気持ちになった。単なる悪戯かもしれないし、第一、一雪がここで一人頭を悩ませたからといって何の解決にもなりはしない。こんな紙切れ一枚で、あの場に居たはば学生を全員疑うなど、馬鹿げているにも程がある。
「…それにしたって、ひどいな」
何も出来ないことはわかっている。何も知らないし、何も関わりが無い。あの水色のワンピースの子とはもう二度と会う事もないだろう。それでも見つけてしまったものを見なかったことにすることは出来ない。
こんなにも強い言葉を投げつけられていいはずがないと思った。理由もなく、こんな悪意に満ちた紙きれを投げつけられなければいけない話なんて、あの子にはないはずだ。
(…こんな字、簡単に書ける奴の気がしれない)
知識、という意味ではない。神経、という意味でだ。良識、と言い換えてもいい。
『赦さない』
その紙切れにはたった一言、そう書いてあった。細い字体ではあったけれど、筆跡に迷いはない。くっきりとそう書かれていた。一雪ですら、その言葉に滲む悪意と不気味さに慄然とするのだから、あの女の子の受けたショックはどれほどかというのは推して知ることが出来る。
小さくため息をついて、一雪はそれを備え付けのゴミ箱に放り投げた。もちろん、きちんと「燃えるゴミ」の方に。
(…次からは、はぐれないようにね)
心の中でそう呼びかけたが、一雪はもうあの女の子がどんな顔だったかも憶えていない。
偶然の出会いなど所詮はそんなものだと、何故か投げやりな気分で思った。
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