「………」

最後の最後まで、「あるわけがない」と思っていた。話には聞くけれど、所詮は他人事、自分には関係ないこと。
そう、思っていたのに。





「ご、ごめん、志波くん!待った…?」
「…あぁ」
「ほ、ほんとにごめんなさいっ!」

思い切り頭を下げると、「行くぞ」と、上から声が降ってくる。それから、ふいっと離れる気配がしたので慌てて追いかけた。
試験がやっと終わったと思ったら、いつのまにか梅雨が明けて、すっかり夏になっていた。空には雲ひとつなくて、強く白い光が濃い影を作っている。

「…その服」
「え?これ?」

今日、着てきたのは薄い水色のワンピースだ。裾がフレアになっているのがかわいいと思ったんだけど、実際着てみるとちょっと恥ずかしい気もする。

「へ、変かな…?」
「…いや、いいんじゃないか」

単純に「似合っている」という意味だけの響きで、志波くんはそう言った。もちろん、それだけでも私は嬉しくなってしまう。

「…行くぞ。水族館は結構観るとこあるからな」

はぁい、と返事をして、私は志波くんの横に並んだ。チケットは先に買っておいてくれたらしい。お礼を言うと「一人で待ってて暇だったから」と言われた。
志波くんは、先月の試合後から野球部の練習に参加している。あの試合で志波くんは宣言通り暴投ばかりしてきたピッチャーを打ち返した。結果、羽学は持ち直し、試合には勝ったけれど立川先輩が決めた通り次の試合に出る事を辞退し、そこで今年の羽学野球部の甲士園への挑戦は終わった。
志波くんは二年生だし、実力的にはレギュラーに入る力があるのは部員全員が知るところではあるけれど、特別待遇されることはなかった。結局一年生の新入部員と同じような練習メニューをこなしている。本人がそうしたいと願い出たからだ。「もう一度、初めからやりたいから」と、志波くんはそれだけ言った。

「…志波くん、水族館は好き?」

今日の水族館は、私が誘った。羽ヶ崎の水族館はまだ来た事がなかったから、志波くんと来てみたいなと思っていて。それをそのまま理由にした。
そんなの一人で行けばいいだろって断られるかと思ったんだけど、意外にも志波くんはあっさり諒承してくれた。

「好き?さぁ…考えたこともねぇけど。…今の時期はいいかもな」

何となく涼しそうだ、と言うのが志波くんの答えだった。

「おい」
「え?なに?」
「混んでそうだからな。はぐれないようにしろよ」
「だ、大丈夫だよ!私、はぐれたりしないし…はぐれちゃってもちゃんと出来るよ」
「…どうだか」

くく、と、志波くんは小さく笑い、けれどもすぐに笑みを引っ込めていつものポーカーフェイスに戻ってしまう。

(…どうかしたのかな)

志波くんは無表情というわけではないけれど、感情や意志の表れはごく控えめだと言っていい。例えばハリーみたいなわかりやすい感情の起伏はあまりない。
でも、どういうわけか最近、その控えめな感情表現ですら抑えている気がする。時々、ふいと目を逸らされてしまう、気がする。

(もしかして、迷惑なのかな)

本当はこんな所、来たくなかったのかもしれない。…私と一緒なんて嫌だったのかもしれない。

「…どうした?」

嫌な不安が頭を過ぎったその時、志波くんが怪訝そうな目で私を見下ろしている。
覗きこまれるように見られて、心臓がどきりと音を立てた。

「な、何でもない!え、えっと、どっち行けばいいんだっけ?」
「先にオルカショーだろ?こっちだ」
「う、うん」

促されて通路を歩く。一歩ずつオルカショーの会場へ近づくごとに、潮っぽい匂いが濃くなった。どこかの家族連れの子供の甲高い声が遠くに聞こえる。
来たくなかった。だとしたらきっと志波くんは誘った時に断ってるはずだ。だから、変な事考えずに楽しまなくちゃ。でなきゃ本当につまらないと思われちゃう。
せっかく志波くんと一緒なんだから。

「あ、あの」
「ん?」
「楽しみだね、オルカショー。私、初めて見るよ」
「あぁ、それはそうだが…」

席を見つけて座り(割と前の方で座る事が出来た)、オルカが泳ぐのだろう大きなプールを見たり、周りの客席がどれくらい埋まっているかを眺めていたりしていた所に、志波くんはぎょっとするような事を言った。

「お前、無理してないか?」

すぐさま、「そんな事ないよ!」と返した私に、志波くんはそれでもどこか疑わしげな視線を向ける。背中に、だらだらと汗が流れた気がする。暑いせいもあるけど、それだけじゃない。
無理なんて、してない。まぁある意味、志波くんとこうして水族館に二人で来るというのは無理をしていると言えるかもしれないけれど、でも、嫌だとかそういうんじゃない。
むしろ、無理しているのは。来たくもないのにこんな所に来ているのは。

「…し、志波くんは大丈夫?す、すいぞくかんとかやっぱり…」
「俺は平気だ」

志波くんは涼しい顔でそう答えた。

「さっきから、楽しみにしていたって割には静かだから具合でも悪くなったのかと思った」
「ち、違うよ!大丈夫!体は全然平気!」

むんっと力こぶを作るポーズを披露すると、志波くんはまた笑った。…今度は不自然に無くなってしまわなかった。

「あんまり無理するなよ」
「うん。…ありがとう」

わぁっ、と周囲で歓声があがる。オルカショーが始まったのだ。
その事に気が付くのに、私は数秒かかってしまった。志波くんの笑顔に気を取られていたので。





これは一体どうしたらいいものかと、珍しく悩んでしまう。

オルカショーは中々面白かった。大きなクジラのようなイルカのような生き物が滑るように泳いだり、時には水面に伸びあがってきたりするのは思った以上に迫力があり、目が離せない。
だが、そのショーの間も志波は頭のどこかで考えごとをしていた。集中力が乱されるほどの事ではない。大した事ではないのだ。ただ時々ふと思い出して、そして考え始めるとしばらくその考えに囚われてしまう。今もそうだった。
隣では、同級生の一ノ瀬さよが真剣な顔つきでオルカを見ていた。その様子が妙に子供っぽくて、志波は本人にばれないようにこっそり笑う。

(…今は大丈夫だ)

自分の内側に何の変化もない事を確かめて、志波は自分もステージの周りをぐるりと囲む大型の水槽(そう呼ぶにはあまりに巨大ではあるが)に目をやる。見た目は大きな魚にしか見えない生き物が、係り員の指示に従って悠々と泳いでいた。あいつらには悩みなんてなさそうだなと、ぼんやりと思う。

悩み。いや、悩みというほどではない。むしろ今まで抱えていた悩みのような気持ちは目下解決し、思い煩うことなど何もない、はずだ。
野球をもう一度始めた事に、志波は晴々とした気持ちでいた。後ろめたさを感じずに済むのは、自分の気持ちを確認させてくれた先輩のお陰かもしれない。
途中入部であるにも関わらず、迎えてくれた部員たちは温かく迎えてくれた。入った当初から気を使わずに色々話してくれるのも志波にとっては有難かった。
ここで始められて良かったと思うし、逆に言えばここでなければ俺は始めることは出来なかったのかもしれない、とも思う。
野球に関しては、例えれば「水を得た魚」のような気持ちだった。過去を忘れたわけではない。だけど、少なくとも過去は過去として受け入れ、前に進む事が出来る。
それは、単純にとても幸せなことだと思う。

だが、それとほぼ同時に、志波は自分でも不可解な感情に気付く。感情、というよりも、対応、というべきだろうか。

「…オルカショー、凄かったねぇ」
「あぁ。思った以上だった」

よっぽど面白かったのか、観終わったあと、さよは嬉々とした声でそう言った。さっきまでは大人しかったので具合でも悪いのかと心配したが、本人の言うとおりそうではなかったらしい。

「次、どうする?」
「えぇっと…、志波くん、どこ行きたい?」

すい、と、見上げてくるさよと目が合った。「あ」と、思う。そして、そこから頭の中が真っ白になった。

「…別に。お前の行きたいところから回ればいい」

言ってしまってから、自分が思う以上に言葉が強くなった事に志波はたちまち後悔する。それまで嬉しそうに笑顔でいた彼女がみるみるしょんぼりしていくのがわかって、舌打ちでもしたい気分になった。

(…まただ)

「じゃ、じゃあ順番に行こう?進路、こっちだって」
「…あぁ」

さよは、志波を先導するように少し前を歩く。細くて華奢な背中しか見えない。どういう顔をしているのだろうかと想像した。
そして、こんな近くにいるのに想像しか出来ない事に少し苛々する。
そもそも、自分以外の人間を必要以上に悲しませたり怒らせたりする趣味は志波にはない。特別喜ばせてやろうというサービス精神も持ち合わせてはいないが、少なくとも無理に波風を立てるつもりはない。この体格と顔付きのせいで多少絡まれることはあったとしても、それはごく一部の特殊な人間にだけであって、それ以外では概ねうまくやれているはずだと思った。

けれど、一ノ瀬さよに対してはそれがどうもうまくいかない時がある。そして、志波自身もどうしていいか戸惑う時がある。
普段は迷わないのに、彼女に対してはどうしていいか本当にわからなくなるのだ。でもそれもいつもではない。それは自分自身でも判断がつかない。

嫌悪感とは違う。それこそ、入学した当時はそういう気持ちを持ったこともあったが、今ではそれはない。
そういったわだかまりは自分の中ではもうとっくに消えている。では、他と変わらないのではないかと思うのだが、そうとも言いきれない。

(さっきだって)

さっきだって、あんな風に言うつもりはなかった。志波は特別見たい魚なんてないし、ここには何度か来た事がある。だから、初めて来たと言う彼女の見たいものを優先すればいい。そういう意味だった。面倒になったとか、質問を返された事に腹が立ったとか、そんなんじゃない。
だが、そう取られてもおかしくない語調で言ってしまった。どうしてこうもうまくいかないのだろう。彼女には、時々そういう事をしてしまう。

(…うまく?)

うまくいかないって、何がだ。
そこで、一旦思考が途切れる。そして、気が付いた。前を歩いていたはずの一ノ瀬さよの姿が見えない。視線の、もう少し先を目を凝らして見てみる。それでも水色のワンピースを着た彼女の姿は見当たらない。

(どこ行った?)

いざとなれば携帯電話に連絡すればいい。そう気軽に考えながらも、志波はとりあえずあちこちを見回した。近くにいるはずだったのに、と苛々が募る。
一瞬でも、目を離した事を悔いた。いや、頭ではわかっている。彼女だって子供じゃない、一人になってしまったことに気付けば自分を探すだろうし、あるいは連絡を寄こしてくるだろう、その為の持ち歩ける携帯電話ではないか。





わかっているのに、気持ちは逸った。壁一面にある大きな水槽のなかで志波の気など知るわけもなく泳ぐ魚に、また苛々とする。





















次へ