(…結局来てしまった)

野球部の試合。甲士園の出場をかけた試合はもう始まっている。今日は、羽学のグラウンドであるはずだ。もうとっくに試合は始まっているだろう。
良く晴れていて、気温が上がりそうだと、志波は空を見上げる。低い、塗り込められたような水色。上がりそうだというよりも、もうとっくにじっとりと暑い。

あの時も、こんな天気だった気がする。じっとりと暑く、風がなかった。
とはいえ、あの時の事をもうあまり詳細には思い出せない。一年前はまるで録画再生のように鮮明に思い出せたというのに。一生忘れないだろうと思っていたのに、俺は余程頭が悪いのかもしれない、とぼんやり思った。
ただ、どうしても忘れられないものもある。例えば、あの日感じた温度。チームメイト達の悲鳴や怒号。落ち着かない、けれども重苦しい空気。この拳にぶつけられた感触。
一年前ならばそれはやるせないくらいに圧倒的な存在感を持っており、グラウンドには近付く気すら起きなかった。何度も自分を打ちのめす罪悪感、怒り、後悔。
それは、少し恐怖に似ていた。

けれど、今はそこまでの嫌悪感はない。現に志波は今日だけでなく何度も野球部の練習を見ているし、試合だって今日初めて見るわけでもない。
ただ、その時の自分の気持ちがどうなのかと言えば、それは言葉にするのは難しかった。野球をするつもりはない。ならば何故来るのか。何の為に来るのか。自分でもわからない。

野球を、するつもりはない。

ずっと、自分に言い聞かせてきた言葉だ。自分の考えられる最大の謝罪の仕方だった。そして自分への罰のつもりだった。
自分で決めたことだ。だから、それを覆すことは出来ないと強く思っていた。今でも情けないが、これ以上情けない人間になりたくないと思った。
だが、それでいいのかと今更迷う自分がいる。俺は、本当にこのまま野球をしないままでいいのか。

――お前が苦しんだって誰も喜ばねーぞ?
――志波先輩に、来てほしいんです。皆…一ノ瀬先輩も、待ってるんです。
――無理、しなくていいと思うよ。

(………)

歩いていた足が、止まる。目眩のように視界が揺らいだ。俺は…、俺は、何をしようとしてる?
湿気を含んだ空気が鬱陶しかった。だが、ぼんやりとした暑さは思考を鈍らせる――気付きたくない核心を誤魔化す。
もう少し先まで歩けば、グラウンドはすぐそこだ。今だって野球をしている音だけは耳に届く。懐かしい音。自分を駆り立てる音。

別に、何をするでもない。見るだけだ。今年の羽学野球部はかなり実力を付けている。もしかしたら甲士園出場も夢ではないかもしれない。
俺は、それを、見るだけだ。

不意に、心臓が掴まれたように痛い気がした。そして、グラウンドの方が何やらざわめいているのに気が付いたのも同時だった。

自然に、緊張で呼吸が浅くなる。この感じ、俺は知っている。
あの時と、同じ。

見えない足かせが外されたかのように、志波はもう一度歩き始める。さっきより歩く速度はずっと早い。不安と焦りが、先へと駆り立てた。

あの日、志波の所属していたチームは勝ち越していた。点差もついていたし、もちろん最後まで気は抜けないが、それでも勝利は確実だろうと誰もが確信していた。
初めに異変に気付いたのは誰だっただろう。もうあまり憶えていない。ただ、自分が気が付いた時にはもう何人も痛みに呻いていた、気がする。
仲間には何度も止められた。彼らが言うのは正論で、そしてそれが正しければ正しいほど苛立ちが募った。それなら、このままただ黙って見てろっていうのか。
そう言い返した瞬間、自分を抑えるチームメイトの手が緩んだ。
そして、マウンドでまた一つ声が上がる。それがほぼ同時で、その瞬間に自分の中で何かが弾け飛んだ。自分でも驚くほどの力で仲間の手を振り切って走り出た。

それが全ての始まりで、終わりだった。

目の前に、小さな人影が横切ろうとする。志波も、思わず足を止めた。向こうもこちらに気付いたのか、ゆるゆると志波の方を見上げる。
一ノ瀬さよだった。

「し、志波く…」
「…どうした、泣きそうな顔をして」

どうした、などという言葉は愚問だと、志波は一瞬思った。どうもこうも、何か起きたのに決まっている。でなければ、いくらなんでもこんな悲痛な表情を彼女がするわけがない。
彼女の目に、みるみる透明の雫が溢れてくるのが見えた。手には、何か山盛り荷物を抱えている。

「あ、あいての…」
「相手?試合のか?」
「相手校の、ピッチャーが…!」

ぴたりと、はまったようだった。いつかの夏の日の残像。
何もかもが、色を纏って蘇る。

「一ノ瀬さん、何してるの!」
「は、はい…っ、すみません!」

慌ててどこかから走ってきた女生徒が、こちらをきつい目付きで睨んできた。

「…悪いけど、今、貴方にかまっている暇はないの。邪魔しないで」
「か、柏木先輩。あの、みんなは…」
「貴女までうろたえないで。…大丈夫だから。湿布と冷却スプレー、もらってきてくれた?」
「は、はい!」
「なら、行って。急いで」

先輩マネージャーの声に鞭打たれたように、一ノ瀬さよはその場を走り去ろうとした。
だが、彼女はその場から動かない。…何故なら。

「ちょっと…!どういうつもり…?」
「し、志波くん…?私、戻らないと…」
「俺も行く」

咄嗟にさよの腕を掴まえていた。自分でも、驚く言葉だった。だが口にしてしまえば、それしかないと思えた。そうするしか、ない。
唖然とする一ノ瀬さよから荷物を取り上げ、「行くぞ」と彼女の背を押した。あまり肉の付いていない、薄っぺらな背中だと思った。
眼鏡を掛けた女マネージャーは信じられないとでも言う風に呆然と呟く。

「…もしかして、あなた」
「…お願いします」

それだけを彼女に向かって言い残し、志波はベンチの方に向かった。





「ダメだ」

誰もが歓迎すると思っていた志波の飛び入りは、しかし、部長の立川の一声で立ち往生した。
部員全員、顧問の教師までもが彼を見る。
志波としては、何も言える権利はない。元々無理を承知の申し出だ。けれどもどこかで受け入れてもらえるのではないかという気持ちもなくはなかった。
どうしてですか、と選手の一人が反発する。非難さえ感じられた声だった。

「このままじゃ、オレ達負けるんですよ?志波が入ってくれればそれだって何とかなるのに」
「そもそも、筋が通らない。百歩譲って志波がここで入部したとする。それでも試合には出せない。元々頭数に入れてないんだからな」
「そんなの、いいじゃないですか!アイツらだってめちゃくちゃな事してきてんだし…どっちみちこのままじゃ終わっちゃいますよ!」
「まだ一点返されただけだ。志波が入ってくれれば絶対勝てる!お前だって、志波と野球したいって言ってただろ!?」
「…俺は、ここで終わるつもりだよ。試合を放棄する。このまま続けることは出来ない」

静かな声に、強張るような緊張感が走る。志波ですら信じられない思いで立川を見た。放棄する?勝ち越していた試合を?
あまりの言葉に、誰も言葉が出なかった。辛うじて顧問が「立川、それは」と制止しかけたが「もう決めたことです」と立川は表情一つ変えずに言った。
そして、志波の方をまっずぐに見る。何の感情も見えない目に、志波は射すくめられたような感覚に陥る。

「お前、今更ここに何しに来たんだ」
「…何しにって」
「確かに、相手校のピッチャーはトチ狂った奴だ。俺たちはデッドボールで何人もやられて満身創痍、四面楚歌だよ。それで?部外者のお前はノコノコ何しに来たんだって言ってんだ」

その言い方は、わざとらしい挑発が含まれていたと言っても間違いではない。立川は、口の端を軽くゆがめた。

「どこぞの正義の味方みたいにお前が助けてくれるって?今までずっと逃げていた奴が?まともにボール使って練習もしていない奴が?…笑わせんじゃねぇよ」
「先輩、やめてください!どうして…どうしてそんな言い方するんですか?志波くん、折角来てくれたのに…!」

ひと際、高い声が上がる。一ノ瀬さよだ。彼は一瞬だけ彼女を見たが、すぐに志波に視線を戻した。

「俺たちがカワイソウだから?それともさよすけが泣くから?そんな半端な気持ちで来たのならお断りだ。…また頭に血が上って、暴力事件でも起こされたら事だからな」
「…っ、俺は!」
「それとも、その前に俺を殴るかよ?…それでまた野球をやめるか?今度は誰に言い訳する?」

反射的に、掴みかかる。悲鳴と、制止の声が上がった。それでも、目の前の強い瞳は揺るがない。

「お前の悩みなんてそんなモンなんだよ。ちっぽけな事だ。…こんなつまらねぇ事で、お前は時間を無駄にしてんだよ」
「…アンタに何がわかる」
「図星だから怒ってんだろ?…お前は本当は悔しいんだ。時間を無駄にしたって、後悔してんだよ。誰の為でもない、お前は自分が野球をやりたい為にここに来た」
「…違う!」
「違わねぇ!まだそんな事言うのかよ。現にお前はここに来たろ?辞めようだなんて思ってたら来るかよ。それでもまだ意地張るんなら、お前はやっぱりやるべきじゃない」

襟元を掴んでいた手から力が抜ける。立川はそれを軽く振り払った。

「…他人の為に辞める事は出来ても、他人の為に戻ってくる事は出来ないんだよ。そんな気持ちじゃ、マウンドには上がれない。今のお前に、その資格はない」

お前だって、本当はわかってるだろ。彼は静かにそう言う。
行き場の無くなった手を力なく下ろす。頭が何かに殴られたみたいにガンガンと響いている。

そうだ、知っていた。けれどもそれは余りにも浅ましい思いだと封じ込めた。

野球をもう辞めるだなんて、そんな気持ちは実のところ長くは続かなかった。もちろん、初めは本当にそういう気持ちだった。それしか代わりに差し出せるものはないと思っていた。
だが、頭ではそう思っても心のどこかで少しも納得していない自分もいた。走り込みや筋トレで誤魔化す日々も長くは続かない。そんなものでは満足できない。
時にグラウンドに近付くことさえ億劫にさせたあの忌まわしい思い出も、今では色褪せてひっそりと横たわる記憶の一つだ。まるで他人事のように余所余所しくなったそれらは、志波の決意を鈍らせる。本心をむき出しにする。そして、その度に野球への想いが隙をついて心をかき乱す。
野球部の練習を見て感じていたのは焦りだった。自分ならこうする、もっとやれる、何よりも、あの場に立ちたい。戻りたい。

野球を、やりたい。

そんな自分が嫌になった。気持ちが薄れるどころか、変わらず貪欲である自分に愕然となった。俺は、野球をすることをまだ少しも諦めちゃいない。

少し、視線を動かす。その先に一ノ瀬さよがいた。彼女は、志波をじっと見ていた。

――無理、しなくていいと思う。

あれは、本当に俺には救いだったんだ。そしてあの時から、もう本当は気付いていたんだ。

――しなくてもいいと思う。…志波くんが、それを選ぶなら。

あの言葉に、俺は心の中で一瞬で反発していた。それを、俺は選ばない。「しなくてもいい」、「しない」なんて選択肢は、初めから、ないんだ。

そう、気付かせてくれた。

「…やらせてください。試合を、途中で辞めるのでもかまわない。俺は、このまま戻るわけにはいかない」
「試合は辞めるのに、バットは振りたいって?そんなの、こいつらが納得するわけないだろ」
「それでも、いい。どう思われてもかまわない。…それでも、いいんです。お願いします」

必死だった。ここで折れたら、もう二度と、今度こそ戻れない。そんな気がした。

「…あのピッチャー、お前、知ってるんだよな?」
「…はい」
「打ち返せるか?」
「やります」
「じゃあ、行って来い。お前がここで一点返して、後は俺らで何とかする。千沙ちゃん!志波のユニフォーム!」

思わぬ言葉に、目を見張って立川を見る。彼は人の悪そうな笑顔を口元に浮かべていた。

「お前みたいな規格外のヤツは、あらかじめ作っとかないと困るだろ?ついでにこれだけ待たされた身としては、あれくらいの文句言う権利あるよな?」
「…はい」
「でもなぁ〜、さよすけに嫌われちゃったかにゃ?そん時はフォロー頼むぜ?かわいい後輩に嫌われるのは辛いからさ〜」
「わかりました」
「…大丈夫。出来るよ、お前は。少なくとも誰にも遠慮なんかしなくていい」
「はい」





後、頼んだ。そう言われて、志波は背中を押された。





















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