どん、と肩がぶつかる。
「あ、すみません」
「…いえ」
足早に出て行く客を、何となく見送っていると、「お、いらしゃいませー」と陽気な声が背中にかかった。…何やら陽気過ぎて振り向くのが若干躊躇われた。
どうして俺はここに来ちまったんだ…とため息を一つついて、志波は店内に入る。いつまでも自分のような男が入り口を塞いでいては迷惑だろう。
「お前が来るとは、珍しい事があるもんだなー」
「…ニヤニヤするな、元春」
「何だよ、せっかくかわいい弟分が会いに来てくれたんだから、喜ぶのは当たり前だろ?」
「うるさい。かわいい言うな」
店内は明るかったが、花屋独特の空気に満ちていた。水っぽくてどこかひんやりしている。
夏はいいだろうが冬は大変かもな、と志波は店を見回した。
この、自分と変わらない図体の幼馴染が花屋でバイトをすると聞いた時も、志波はさほど驚かなかった。元春と花屋が合っている、というよりも、この幼馴染はどこでだって馴染んでやっていけるからだ。
今も手際よく色とりどりの花を仕分けしながら、元春は声の調子を変えずに言った。
「わりーな、勝己。これ片したら時間取れると思うから、ちょっとだけ待っててくれよ」
「…別に、俺は」
「まぁまぁ。…あ、ちなみに、さよは今日休みだ。何か電話あったぞ。ハリヤくんってやつからだけど…あいつ、具合悪かったらしいなぁ」
針谷、と頭の中で置き換える。じゃあ、さっき学校で別れてからあの二人はどこかに一緒に行ってしまったのだろうか。いや、一緒かどうかは、わからないけれど。
具合が悪いというのは嘘だろうと思った。ただの勘だ。だが、もしも本当に具合が悪いなら心配だ。針谷が付いているのは安心なようでそうでもない。あいつにはいつも振り回されているみたいだから。
(…俺が、どうしてそんなこと)
確かに、見た感じがそもそも頼りない。小さいし、これは志波の勝手な考えだけれどあまり自分を顧みる性格ではないし。
しかし、だからといって自分がここまで心配する必要はないはずだ。…思い切り、顔を逸らされたし。
そこまで考えたのと、「おし、完了!すんません、店長!ちょっと休憩もらいまーす」と元春が言ったのとほぼ同時だった。
「…で、何があった?」
「何がって…別に、何も」
本心からそう言うと、「嘘つけ」と元春は笑った。自販機から出てきたジュースを放り投げる。夏に向かって日が長くなる季節だ。まだ外は明るかった。
「お前が何もないのに俺のところに来るかよ。まさか、花を買いに来たわけじゃないだろうに」
「…それは」
「それとも、さよに会いにきたか?あいつの事、知ってんだろ?」
「…知ってるのは、知ってる」
会いに来たかどうかには答えずに、志波はそれだけを言ってプルトップを開ける。
一ノ瀬さよが、「アンネリー」でバイトをしている事は知っていた。本人からではない、母親が聞いてもいないのに教えてくれたのだ。
「時々は会いに行ってあげなさいよ」と、わけのわからない事を言っていた。一体何の用事があってわざわざバイト先まで会いにいく必要があるのか。
元春も志波と同じように缶ジュースを開け、一口飲んだ。
「やっぱなー、ジョシコウセイがいるってのは違うのかねぇ。最近、男の客が多いんだぜー?さっきみたいな奴とか」
「さっき…?」
あの、ぶつかった客か。男だと気付かなかった。元春は志波の方を見てにやりと笑う。
「…お前、とか?」
「だから、そうじゃねぇ。あいつの働いてる日なんか、知るか」
「冗談だって!んな怖い顔するなよ。…でもさ、俺に何か言いたい事があって来たんだろ、うん?」
「兄貴面するな、気持ち悪い」
「素直じゃねーなー」
これだからコイツと話するのは嫌なんだと、志波は苦々しい気持ちでジュースを喉に流し込む。悔しいが、元春の言うことは大抵当たっていて、それを頼って会いに来るのだ、自分は。
あいつは、別にいなくたって良かった。ただ、もしいたら、何があったかくらいは聞こうと…、それくらいの事は考えていたのは事実だ。
元春に話したい事があったのもまた事実だ。昔からそうだ。友達とケンカしたとか、近所で飼われていた猫が突然行方不明になって心配だとか、テストの点数が悪すぎて母親に見せられないとか、…そういう事を、俺はいつも話していた気がする、昔から。
――ダメですか?
緊張しているせいか、何度も瞬きをしていた。顔に血の気はなくて倒れるんじゃないかと不安になったほどだ。いっそ悲愴感すら漂わせていた彼女は、それでも志波をまっすぐに見ていた。
「心配してたぞー、あいつも」
「…一ノ瀬が?俺を?」
「名前は聞かなかったけど…、あれはお前のことだろうなって。冬頃、だったかな?そんな話をした。野球部のマネージャーしてるって聞いてたし」
心配?冬?……そんなに前から?
ざわりと、体の中に波が立つようだった。心に、石を放り込まれたような。
(それなら、どうして)
――無理しなくていいと思う。
(どうしてお前は、何も言わないんだ)
どうして、顔を逸らしたんだ。
かこん、と、ジュースの入った缶が乾いた音を立てた。歪んだ缶に残っているジュースを、志波は勢いで飲みほしてしまう。味なんて、少しもわからなかった。
その様子を、元春がじっと見つめているのはわかっていた。…それから、小さくため息をつかれた事も。
「何かなぁ、俺ばっかり喋って悪いんだけども。…もう、いいんじゃないのか?」
「…いいって、何が」
「もう、充分お前も代償を払っただろって話」
「……」
無意識に、自分の手に視線を落とす。思い出して、手に力が籠った。あの時の事を思い出すと、いつも目の奥がちりちりと焼けるようになる。せり上がる怒りにも似た感情が、最後は決まって志波の目を閉じさせる。こんなにもはっきりと苦しい思いなのに、それが何に向けられたものだったか、志波はもうわからなくなっていた。
相手にされた行為に対してか、それとも自分がしてしまった行為に対してか。
「俺もさ…詳しくは知らないからな、何とも言えないけど。けど、お前は理由もなく人を殴れる奴じゃない事は知ってる。だから、…そんな風になるほど、お前は責められなくていいはずだ」
「…そんなのは、言い訳にならない」
「言っとくけど、お前が苦しんでたって誰も喜ばねーぞ。…お前が本当に償いたいと思ってるとして、野球をしない事がその答えか?そうしてくれって頼まれたのか?」
「そうじゃない。ないけど…それ以外、考えられなかった」
「でも、迷ってる。…お前だって、本当はわかってるんだろ」
「…わからない」
振り絞るようにして出した声は自分でも思った以上に頼りなげで、舌打ちをしたくなった。
――しなくてもいいと思う。…志波くんが、それを選ぶなら。
(うるさい)
耳鳴りのように聞こえてくる声にうんざりする。
何も知らないくせに。別に野球が特別好きでもないくせに、それなのにあいつはあの場所にいる。
無理をしなくてもいいと言う、俺に野球はしなくていいと言う。そのお前が、あの場所にいる。
何も知らないくせに、いつも一生懸命走りまわって。何も知らないくせに、俺の事を…心配して。
(……あぁ、そうか)
すとん、と、突然に納得する。ぐちゃぐちゃだったパズルのピースがぴったりはまるみたいに。…少なくとも、今日、ここに来た理由だけは。
空き缶を、自販機横のゴミ箱に投げ入れる。道に置いていたカバンを手にした。
「…仕事中、邪魔したな。帰る」
「いやいや、また何かあったらいつでも来い。あ、そうだ、さよが居る時に来てやるといいぜ?」
「…あぁ、そうする」
今日も、本当はそのつもりだった。会えたらいい、じゃない。俺は、たぶん会いたかったんだ、あいつに。
会ってどうするつもりだったか、それはわからない。もしかしたら、また八つ当たって傷付けたかもしれない。
それでも、会いたかった。会って、話がしたかった。
(…もし、お前だったら)
今日、昼休み会いに来たのが背の高い一年生でなく一ノ瀬さよだったら。
もしそうなら、俺はどうした。
次へ