ハリーに連れてこられたのは、貸しスタジオみたいなところだった。打ちっぱなしの灰色のコンクリートの壁に色々な機材。辺りはひんやりした埃臭い空気が漂っている。
よくわからないけれど、今まで生きてきた中で入った事のない部類の建物だっていう事だけはわかった。でも、どうしてこんなところに来たんだろう。
ハリーはまるで自分の家のようにすいすい入って行く。心なしか歩く速さが増している気がする。

「は、ハリー、待ってよ…!」
「あぁ、やべ。遅刻だ。…ほら、もたもたすんなって!」

階段を下りて半地下のような所に、分厚いドアがある。ハリーはノブに手を掛けて力を込めてそれを開けた。
開けた途端に、色々な音が洪水のように溢れだす。ハリーは部屋に入るなり、片手をあげて挨拶をした。

「悪ぃ!遅れた!」
「いいよー、別に。その代り練習後のジュースはのしんの奢りね」
「な!マジかよっ!」
「ははは、もちろんマジ。…って、あれ?もしかして誰か連れてきた?」
「…あーそうそう。忘れるとこだった。…ほら、お前も入れって。ドア閉めらんねぇから!」

ぐいっと、ハリーに引っ張り込まれた先は、広いスペースになっていた。…思ったより中は広かったみたい。
そして、楽器を抱えた男の子たちが何人かいた。ふと、黒い長い髪の男の子と目が合う。その子はにっこりと笑ってから、こっちに近付いてくる。

「へぇー!女の子だー!かわいいねぇ、君、名前は?のしんと同じ羽学なんだ?どうして一緒に来たの?もしかして、か」
「う、る、せ、ぇ!!おい、井上!俺を素通りしてそいつの所に行くとは何事だ!」
「そりゃそうでしょ。のしんより女の子でしょ」
「…あ、あのぉ」

何だろう、この人たち、ハリーの知り合いなのかなぁ。それにしてもハリーが怒鳴っても全然平気そうだ。
「はいはい、うるさいなーのしんくんは」軽い感じで言ってから、黒い髪の井上くんは、もう一度私の方を向いて「名前、教えてよ」と笑った。
ハリーよりずっと優しそうで話しやすそうな人だ。「一ノ瀬さよです」と自己紹介すると、「じゃあ、さよちゃんって呼んでいい?」と、また笑顔で訊かれた。

「え?…はぁ、別に、いいですけど…」
「うん。よろしくね、さよちゃん。そんな怯えなくていいよ。のしんが何かしようとしたらオレが助けるからね」
「はぁ…、あ、あの、さっきから、のしん、って…」
「え?あぁ、羽学では誰も呼ばない?幸之進だから、のしん」
「あ、なるほど」
「それよりもさよちゃん、目、赤いよ?もしかしてのしんに何か言われた?された?」
「えっ?い、いえ、あの、そうじゃなくて…!」
「…いーーのーーうーーえーー!!」

井上くんがすい、と細長い指で目元に触れてびっくりする。その一瞬後に、私と井上くんの間にハリーが割り込んだ。

「お前!何してんだ!気安く触んじゃねぇ!」
「どうして。のしんの許可がいるの?そういうカンケイなの、二人は」
「違うっつの!んなワケないだろ、話をややこしくすんな!こいつは、俺の子分だよ、子分!」
「子分〜?お前はまーたそんなガキみたいなこと…まぁガキだから仕方無いけどさ。じゃあ、どうして連れてきたの?」

井上くんは呆れるようにハリーを見る。でも、確かにそうだ。どうして私、ここに連れて来られたんだろう。
ハリーは一つ咳払いをしてから、私に向き直った。

「何の用事もなく連れてくるわけないだろ。…いいか、お前は今から俺たちのバンドの一日マネージャーだ!」
「え…え!?何それ!?そんなの聞いてないよ!」
「当たり前だろうが!今、言ったんだからよ!ありがたく拝命しろ!」
「そ、そんなぁ!」
「とりあえずジュース買ってこい!人数分な。自販機はそこの階段上がったとこにあるから!」

それから、私は本当に「一日マネージャー」になった。ジュースを買ってきた後も、楽譜のコピーとか、それをそれぞれパートごとに順番に振り分けるとか(これは、ハリーのバンド友達に教えてもらった)、後は使用しているスタジオの掃除とか。マネージャーというよりもむしろ雑用係だ。難しい仕事なんてないけれど、アンネリーの仕事みたいに慣れていないから最後にはくたくたに疲れてしまった。…ところで私、一体何してるんだろう。

「お疲れさま」

座りこんでいた目の前にりんごジュースの缶が現れて、思わず見上げると井上くんだった。

「これはオレからの気持ち。どうぞ」
「あ、ありがとう…」

受け取ったジュースの缶は汗をかいていて、手が少し濡れた。
ハリーは、まだ他のメンバーと色々練習している。こうして離れたところで見ていると、全然知らない人みたいだ。
井上くんは何も言わずに、当たり前みたいに隣に座る。

「ね、さよちゃんはどうしてここに来たの?練習、見てみたかったとか?」
「うぅん、そういうのじゃなくて…。私はここに来ることは全然知らなくて。ハリーは連れて来てくれただけだから」
「へぇ…。ね、さよちゃんがあいつの子分って、本当にそうなの?それとものしんがそう言ってるだけ?」
「…うーん。私は違うって言うんだけど、ハリーは私のこと、子分って思ってるみたい。いつもそう言ってるから」
「…そうなんだ」
「ハリーとはね、一年生の時から同じクラスなの。…だからかなぁ」
「どうだろうねぇ。…まぁ気に入ってるんだろうけどね」
「え?なぁに?」
「何でもないよ。…ね、今日はどうだった?一日マネージャーしてみてさ」
「どうって…、すごく疲れたよ。ハリーが次々用事言いつけるし…」
「あはは!そりゃそうだね」
「でも…うん。ちょっと、元気になれた、かな」

もし、あのままハリーと別れていたら、きっと酷い気分のまま家に帰ったと思う。泣くばっかりで、…鈴原さんと自分をどうしようもないことで比べて卑屈になって。
そりゃあ、今でもちょっとは胸が痛むけど、ここで動き回っているうちに少し冷静になれた気がする。…泣いている暇もなかったし。

「あいつの歌、どう思う?」
「え?」

井上くんはハリーの方を見ていた。

「どう、って言われても。…私には、よくわからないよ」
「…あ、そうか。あんまり聴いたことないんだっけ?さよちゃんは」
「ううん、そんな事ないよ。ハリー、時々歌ってくれるから」
「…え」
「だけど、上手いとか下手とか…そういうのはわからない、っていう意味。…下手だなんて、思ったことはないけれど」

新しい曲が出来たとか、今度ライブで歌うとか。気が向いた時(そして機嫌が良い時)には、ハリーは歌ってくれる。

「いつも凄いなぁって思うよ」

言いながら、ふと志波くんの事を思い浮かべた。グラウンドの傍まで来て、そのまま帰ってしまう志波くんのこと。
それから、志波くんに一人で話をしにきた鈴原さんのことも。

「…だから、ハリーの歌を聴いたら、私も頑張らないとって思う」

私は、何もしていない。何も動いていない。
それなのに、自分から動いている人と動かない自分を比べて泣くだなんて、すごく自分勝手だ。手を伸ばせば届くのに、ただ泣いて駄々をこねる子供と同じだ。

「…私も、頑張らなきゃ」

…でもどうしたらいいんだろう。わからない。

「…お前らは。俺に黙って何サボってんだ!!」
「わぁ!」

突然、大きな声が降ってくる。気が付けば、ハリーが不機嫌そうな顔をして私(と井上くん)を見ていた。

「だって、さよちゃんの仕事が終わったから」
「オメーはまだ練習の途中だろうが!勝手に抜け出しやがって」
「いーじゃん、ちょっとくらい。折角さよちゃんが来てくれたんだから、仲良くなりたいじゃない?」

ねー?とにこにこする井上くんには愛想笑いを返すしかない。ハリーがますます怒るんじゃないかと思ったけど、意外にもそうではなく、私の荷物をまとめて持ってきてくれていた。

「え?どうして?」
「どうして、じゃねぇよ。お前は先に帰んの。…あんまり遅くなったら悪いからな。まだ練習あるから家までは無理だけど、途中まで送ってく」
「うわぁぁ、のしんが優しいぃ!何?どうしたの?明日槍でも降らせるつもり?」
「うっせぇ!お前は黙ってろ!」
「ハリー、私、一人で帰れるよ?たぶん外もまだ明るいし…」
「お、ま、え、も!つべこべ言わずにさっさと用意しろ!」

建物の外に出ると、もう真っ暗だった。意外に時間が経っていたみたい。「どこが明るいから平気なんだよ」とハリーは呆れるようにため息をつく。
私の荷物を、持ったままだ。

「は、ハリー、いいよ!私、自分で持つから…」
「…いい。まぁ、これくらいはさせろ。色々手伝わせたからな」
「でも、帰りは自分で持てって」
「うるせぇ、有難く思えよ?俺様がお前の荷物を持ってやるなんてこの先ぜってぇねーから」

そこで、会話が途絶えてしまった。ハリーは私の少し前をずかずかと歩いている。
だんだん夏に近付いているとはいえ、まだ夜は少し肌寒い。夜空は真っ暗なはずなのに、何故か霞んで、白っぽく見えた。

「…学校では、ごめん」
「…え?何か言った?」
「おまっ…ちゃんと聞いとけ!人が謝ってんのに!」
「どうして?」
「だからっ…!あのなぁ!真面目に反省してる俺がバカみたいだろうが!そのっ、な、泣かせて悪かったって言ってんだよ!」」

そう言うハリーは、けれど前を向いたままだからどういう顔をしているのかわからない。

「あれは…ハリーのせいじゃないよ。私が、勝手に…」
「うるせぇ、俺が泣かしたみたいなもんだろが。…だからさ、ちょっとほっとけなかったんだよ。それで、こんな時間まで付き合わせちまった。悪い」
「え!?ど、どうしてハリーそんなに謝ってくれるの?ハリーは悪くないし、今日手伝ったのも大変だったけど、楽しかったし」
「そっか。…そんなら、まぁいいや」

ハリーは途中まで、なんて言ったけれど、家のすぐ近くまで送ってくれた。これからまたこの道を戻って練習に行くんだろうなと思うと、申し訳ない気もする。
立ち止まって、荷物を渡された。今まで荷物を持っていなかった手には、ずっしりと重く感じる。

「じゃーな。俺、もう行くから」
「うん。ありがとう」
「それから。…まぁ、お前はお前だ。確かにお前はちっこくて鈍くさいけど、今更どうにかなるわけじゃなし。だから、あんまり気にすんな」
「…うん。ありがとう」

励まされているのか貶されているのか、いまいちよくわからないけれど。
でも、私は笑った。ハリーの気持ちはわかったから。





ハリーに手を振って別れてから、私は家の方に歩く。
今日は色々あったけど、足取りはそんなに重くなかった。





















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