「…でね、最近はば学生っぽい人がよく学校の前にいるらしいの。誰か待ってるのかしらねぇ?」
「はばがく?私、知らないんだけど…」
「ああ、さよさんは引っ越してきたから。はば学っていうのは…あら?」
お喋りしながら歩いていたひーちゃんが、少し遠くの方を見る。つられて、私もそっちを見た。今、歩いている廊下のずっと先の…私達の教室の方。
何だか、人がたくさん集まっている。まだお昼休みは始まったばかりだった。
「うちのクラスかな?」
「…じゃなくて、お隣みたいよ。…何かあったのかしら」
男子も女子も、学年の違う生徒も、とにかく何だかたくさん集まっていて、皆興味津々といった感じで教室を覗き込んでいた。そのくせ、中には入らない。
私もひーちゃんも近付いて、そして気が付いた。あれは、志波くんのクラスだ。私のお隣。
だんだん、周りにいる人たちの声が聞こえてくる。ケンカか?とか、すげぇかわいい子なのに!とか、絶対告白だよ、その呼び出しだよ!とか。
「…あの子って、確か野球部のマネじゃない?私、見た事ある」
(えっ…)
反射的に、鈴原さんの顔が浮かぶ。「さよさん!」と私を呼ぶひーちゃんをほったらかして、私は走り出していた。
教室の周りは人が多くて、中の様子はわからない。何とかして入り込めないか、隙間を探すけどそれもない。気になって、心配で、ドキドキする。すごく、混乱もしている。
だって、鈴原さんは一年生なのに。彼女は2年生の教室に一人乗りこんでくるような性格じゃない。それに、どうして隣のクラスなんだろう、私のクラスじゃなくて、志波くんのクラスなんだろう。
男の子と話すの苦手だって、言ってたのに。
(…違うよ)
そうと、決まったわけじゃない。第一、まだ鈴原さんかどうかだってわからない。…志波くんが関係あるかもわからない。
それなのに、どうしてこんなに不安になるんだろう。…不安?私は一体、何に不安になるの?
ふ、とあれ程混んでいた人だかりが動き始める。…ざぁっと、海が割れて道が出来るみたいに―そういう話を昔聞いたのを思い出した―、人が避けた。
「……あ」
目が合った。彼女はさっと顔色が変わったけれど、きゅっと口を引き結んで私から目を逸らす。志波くんは、私には気付いてないみたいだった。
私の前を横切る時に小さく「ごめんなさい」と聞こえた。
でも、その時はすごくすごく静かだったから、もしかしたら幻聴かもしれない。
その日、鈴原さんは部活には出てこなかった。体調不良で早退したらしい。
志波くんも、その日は姿を見せなかった。あれきり、志波くんも見かけてない。
「…さよちゃん?聞いてる?」
「え。…あ!すみません!」
「何だか元気ないね、大丈夫?」
倉田先輩は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。3年生は、あの出来事を知らないらしい。平気です、と言って、無理やり笑顔を作る。
もう、後は片付けだけだから帰っていいよ、と倉田先輩はふわりと微笑む。…部活、もう終わるんだ。私、一体何をしていたのかまるで憶えていない。
あの昼休みの出来事から、時間が止まってしまったみたい。私一人がそこからずっと動けないでいるみたいに。
先輩に言われて、私は着替えて荷物をまとめる。…もしかしたら、先輩は気を使ってくれているのかもしれない。
申し訳ないと思ったけれど、結局そのまま挨拶して先に部室を出た。…カバンは教室に置いてきたから取りに行かなくちゃ。
何だか、ずっと変な感じがする。何か、凄く固くて重たいものを飲みこんでしまったような感じ。取りたいのに、つっかえて取れない。
周りの音も景色も全部遠ざかってしまって、私は鈴原さんと志波くんが一緒に教室を出て行ったところばかりを思い出す。気にしないでいようと思えば思うほど、何度も。
その度に思う。どうして、って。
どうして志波くんなの。
一体、志波くんに何の話があったの。
どうして、私には黙って来たの。
(…いやだ)
こんなこと、考えたくない。お腹の中がぐるぐるするような気がして、気持ち悪い。
「…あれ?お前もまだ残ってたのかよ」
「…ハリー」
教室に戻るとハリーがいた。見たところハリーももう帰るところみたいだ。こんな時間まで残ってるなんてご苦労なこった、と、ハリーはからからと笑う。
「お前の事だから、どーせ鈍くさい事してたんだろ」
「…別に。そんなんじゃないもん」
いつもなら聞き流せるような高慢な言葉も、今は酷く神経に障る。いやだ、早く帰ればいいのに。どうしてハリーとなんか会っちゃったんだろう。
そして、こんな時に限ってハリーはやたらと話しかけてくる。何だか妙に上機嫌だった。
私の事なんてお構いなしだ。普段から、私の事を気にかけてくれる事なんてないけど。
「そういやさー今日、志波んところに一年の女子が会いに来たんだろ?俺はその場にはいなかったけどさ。野球部のマネだって。お前と一緒だろ?」
「…ぅん」
いやだ、聞きたくない。ハリーの無邪気で陽気な声が、余計にイライラする。
やめてよ、その話はもうしないで。
「何しに来たんだろうな?なんかすげぇカワイイとかってダチが騒いでたけど…背が高くて、モデルみたいってさ。でも、そんな背が高かったらお前のほうが小さいんじゃね?」
「……」
「やっぱあれかなー。コクハク?しにきたんかな?でも、一人で乗り込んでくるなんて結構度胸あるよなー。お前、話とか聞いてねーの?」
「…なぃ」
「え?」
「だから、知らないったら!」
ほんの少しはっきり言ったつもりが、思った以上に大きな声が出て、自分でもびっくりした。…同時に涙が零れたことにも。
つっかえていた鉛みたいな重たいものが、涙になって溶けだすみたいだった。一度勢いづいてしまったら、もう止められない。
ハリーがぎょっとして私を見るのがわかった。
「そんなっ…いちいち聞かれたって、わからないよ!私だって…私だって、なんにも、し、知らなかったんだから…っ!」
「お、おい!何だよ、何でいきなり泣いてんだよ…!」
「ど、どうせ私はちっさいし…かわいくだってないし…!で、でもそんなの、ハリーには関係ないっ…」
「別に、俺はそんな意味で言ったんじゃねーって!」
「だって、どうしようもないのに…そんなの、わかってるけど…けど…」
ああ、もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。ハリーは全然悪くないし、私がこんな風に泣くのはおかしな話なのに。
ただどうしようもなく不安で、悲しくて、…悔しかった。そしてそんな風に思う自分が凄く嫌だった。とても、惨めな気持ちだった。
「…あー。あーもう!めんどくせー奴だな!…とりあえず泣き止め!でもって…ほら!これで顔拭け」
顔に、ハンカチが押しつけられる。ハリー様のハンカチだぞ、ありがたく使え!とこんな時でもエラそうなハリーの声。
けれどハンカチはタオル地で柔らかくて、気持ちが良かった。
「ったく、いきなり泣いたらびっくりするだろが!次からはちゃんと予告しろ」
「そ、そんなの、無理だよ…」
「あぁ?…まぁ、そりゃそうか。…ところでお前、この後予定あんのか」
「うっ…ひっく。よ、よてい…?」
「泣いてないで答えろ!まっすぐ家に帰るか、それともバイトか何かあるのかって聞いてんだよ」
「…っ、…ば、ばいとが」
今日は、アンネリーのバイトがある。どうしよう、こんなに泣いて、真咲先輩たちに顔おかしいって思われないかな…。
ハリーのハンカチで目元を拭っている最中に、ハリーは真面目くさった顔をして勝手に私のカバンから携帯電話を取りだした。ぱくんと開いてまるで自分の携帯電話のように操作している。
「…お、俺とおんなじ機種だ。そのセンスだけは認めてやってもいいな」
「ちょ、ちょっとハリー!勝手になにして…!?」
「うるせー、ちょっと黙ってろ。…これか?花屋、アンネリーっと…」
伸ばした私の腕を避けて、ハリーはそのまま私の電話を耳にあてる。…まさか。嘘でしょ。
「は、はりー!ま、待ってよ!どこに電話…!」
「だからうるせぇって!…あ、もしもし。花屋のアンネリーさんですか?俺は、一ノ瀬のクラスメイトです。針谷といいます」
普段からはハリーとは別人のようにはきはきと礼儀正しい。私が体調不良で休むことを話し、そして代わりに入る日までさっさと決めてしまい、ハリーは最後まで礼儀正しいまま電話を切った。
目の前の出来事があまりにも突然で、そして信じられなかったので、私はただ呆然とする。
だって、信じられない。
ハリーはまるで気にする素振りもなく、私にぽいと用が済んだ携帯電話を投げ返した。そして、カバンを掴んで、ついでに私の荷物も掴む。
「よし!んじゃ、行くか」
「え…え!?い、行くってどこへ…!?」
「いいから、ついてこいって。…ま、行きは荷物くらいは持ってやるよ。帰りは持って帰れよ!自分で」
「ま、待ってよ、ハリー…!」
さっさと歩いて行くハリーを急いで追いかける。…だって、私の荷物を持って行ってしまったし。
さっきまであんなに泣いていたのに、涙はすっかり引っ込んでしまった。…それどころじゃなかった。
「おら!ぐずぐずしてんな。時間無ぇんだから!」
「だ、だって、歩くの早いし…!待ってよ…」
遅い事は牛でもするんだと、ハリーは鼻を鳴らして…それから「お?」と何かに気が付いたみたいに声を漏らした。
同時に、びくりと体が反応する。だって、あんな背の高い人、他にいない。もちろん、そうじゃなくても間違えようもない。
「よぉ、志波!お前もまだいたのかよ。…今日は大変だったらしいなー、聞いたぞ、コクハク事件」
「あれは、別に…、一ノ瀬?」
名前を呼ばれて、咄嗟に顔をあげてしまった。志波くんは、少しびっくりしたような顔をしている。
何故か見ていられなくて、顔を逸らした、思い切り。
「…どうか、したのか?」
「何でもねーって。目にゴミが入っただけだよ」
私の代わりに、ハリーが答える。ハリーの答えは全然デタラメだけど、今はそんな事どうでもいい。
離れたい、早くここから。
「悪ぃ、ちょっと俺ら急いでんだ。…ほら、行くぞ!」
「あ、あぁ…」
志波くんはまだ何か言いたそうな雰囲気だったけれど、それを断ち切るようにハリーは歩き始めた。だから、私もそれにならってその場から離れる。
一度も、顔を上げられなかった。
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