――もう、一年も経つのに。
「……はぁ」
「…あの、先輩」
「………」
「一ノ瀬先輩…っ」
「くぉら、さよすけっ!」
「わぁぁぁっ!!は、はいっ!!」
我に返って声の方を振り返ると、立川先輩が腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「俺が呼んでも返事をしないとは何様だ、ぁん?お花見デート出来たのは結構ですが、いつまでも余韻に浸ってもらっちゃあ困るんですがねぇ?」
「えっ!?ど、どうして知ってるんですかっ?志波くんとお花見行ったの…!」
「なぁにぃ!?行ったのか!?行ったのか、お花見にっ!!」
「にゃああ、何でそんな怒ってるんですかぁっ!」
「くそぉ…お前だけ良い思いしやがって…!羨ましいだろうがっ!祥子ちゃん以下、クラスの女子に軒並み断られた俺は全力で羨ましいですっ!」
「…クラスっていうか、学年単位じゃなかった?」
「ごめんねぇ?時間がないわけじゃなかったんだけど、メンドくさくって」
「ひ、酷い…っ!そんなに嫌か。そんなに俺と一緒にお花見行くのは嫌か…っ!?」
よよよ、と床に崩れ落ちる立川先輩に、祥子先輩は相変わらずの冷たい視線を投げかける。
「そんなに行きたければ男子と行けばいいじゃない。貴方は男の子には人気なんだから」
「ふざけんなっ!ヤローとお花見行ったってイイ事なんかなかろうもん!」
「はいはい。じゃ、一人で行けば?あいにくもう葉桜だけど」
「…うわ、すごい冷たく言われた。もう死ねば?くらいの目付きで言われた…!」
一連の先輩のやり取りの最中に、「あの…」とジャージの裾をそっと掴まれる。
困ったように私を見る子は、新しいマネージャーさん。鈴原穂乃香ちゃん。
鈴原さんは一年生だけれど私より背が高い。というか、全部の学年で考えても高い方だと思う。手も足も長くて、まるでモデルさんみたいだ。
「用具の点検は終わって…それで、洗濯物が、まだ…」
「あっ、そうだった。一緒に行くよ!まだ慣れないもんね?」
「…ありがとうございます」
ふわりと、鈴原さんが笑う。長い黒髪は今は二つに括ってあるけれど、普段はさらさらとしてて綺麗なんだ。重めの前髪の間に、長いまつげに縁取られた目が細まるのが見える。
(…美人さんだなぁ…)
同じ人間なのに、私とは随分と違う。ひーちゃんも美人だけど、また雰囲気が全然違う。背は高いけれど華奢でふんわりした雰囲気で、何だか守ってあげたくなる感じ。
それまでぎゃんぎゃん騒いでいた立川先輩がこっちに気が付いた。
「あっ、さよすけばっかりズルイじゃないか!俺もほのたんとおしゃべりしたい!」
「…っ」
「だめぇーっ!だめですっ!先輩は鈴原さんに近寄るの禁止っ!」
びくりと体をこわばらせる鈴原さんと立川先輩の間に、私は手を広げて割って入る。だって、後輩を守るのは先輩の役目だもんね。
千沙子先輩に「行ってらっしゃい」と手を振られ、私と鈴原さんは洗濯物を取りに出た。
「…ふふ、さよちゃん張り切ってるんだね?いつも鈴原さんに付いて色々教えてあげてるもの」
「一ノ瀬さんが後輩に教えるなんてね。…見てるとどっちが後輩だかわからない身長差だけど」
「ちょっ…俺が近付くの禁止って、どゆこと?」
「…さぁ?変質者っぽいからじゃない?」
「あーそういえば知ってるー?最近、学校の周りでねぇ」
「やーーめーーてーー!!これ以上俺のイメージを貶めるのはやめて!!」
「あの…すみません」
「ううん、気にしないで!立川先輩はいつもヘンだけどホントは凄く良い先輩だから大丈夫」
「…わかってるつもりなんですけど。やっぱり、まだ慣れなくて」
洗濯物を取り込みながら、鈴原さんは消え入りそうな声で呟いた。
「…うん。少しずつ慣れればいいよ」
「…はい」
鈴原さんが入部した時、立川先輩だけでなく男の子たちはそれはそれは喜んだのだけど。鈴原さんは蚊の鳴くような声で挨拶したきり、男子部員とは話したことはない。
話したくても話せないのだと、私に教えてくれたのは連休明けの練習の後だった。
彼女は外部生(つまり、羽学の中等部からでなく、他所の学校から受験したっていう意味。結構多いと思う)で、中学は女子高だったらしい。そのせいなのかわからないけれど、男の子と話すのは凄く苦手なんだそうだ。でも野球は好きで、そしてそんな自分を変えたいという思いもあって入部してきたらしい。
好きだというだけあって、ルールもスコアの書き方も、誰に教わらなくても知っていたし、私の入ったばかりの頃に比べたら物凄く優秀なマネージャーさんなのだ。
持ってきたカゴに洗濯物を入れる。そのついでに持ってきていた新しい洗濯物を干していく。濡れた洗濯物は、繰り返し作業していると段々重く感じるから少し大変。
「…あの、一ノ瀬先輩」
「なにー?」
「さっきの…志波、先輩と。お花見に行ったって」
「えっ?…えぇっと」
何て答えを返せばいいか咄嗟に出てこなくて困った。あんまり言われるとやっぱり恥ずかしいなぁ…。
別に、ただお花見に行っただけで、デートじゃないけれど。
愛想笑いしか出てこない私に、鈴原さんは「もしかして、練習を時々見に来ている人ですか?」と言った。手は止めないまま。
「あ、うん…そうだよ」
「どうして見に来てるんですか?入部は、しないんですか?」
「…うーんと」
鈴原さんの単純な、けれども容赦ない質問にますます困ってしまう。答えられないわけじゃないけど、志波くんの知らないところで、更にはっきり事情を確かめたわけでもない話をするのは何となく躊躇われた。
でも結局迷った挙句、私は志波くんのことを彼女に話した。志波くんが、昔は野球をしていたこと。でも今はしていないこと。それには「事情」があるらしいこと。
でも本当は志波くんは野球をやりたいってこと(私はそう思うっていう話)。
そこまで話したところで、鈴原さんが私の顔をじっと見ていることに気が付いた。
「…え?なぁに?」
「…一ノ瀬先輩は、志波先輩に野球部に入ってほしいんですか?」
「うーん。…野球部にっていうか。…きっと、志波くんが何も考えないで野球出来るのが一番いいんだとは思うけど」
「私、この間先輩の部員さんが話してるの聞きました。あの人が入ったらもっと強くなれるのにって」
「そんな話があったんだ…うーん。強くなれるとかは、ちょっとわかんないけど」
言いながら、考えてみる。志波くんがもしも野球部に入ってくれたら。
もしも一緒に、野球部で活動してたら。それは、きっと。
「…楽しいだろうな、きっと」
自然と、口元が緩む。現実、そう上手くはいかないんだろうけど。良い事ばかりじゃないだろうけど。
志波くんが同じ野球部だったら楽しいだろうな。色んな志波くんが見れるだろうな。そう思うだけでも何だかドキドキした。
だから、全然気が付かなかった。
鈴原さんが何かを決意したような目で、私を見ていたこと。
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