春が近付くと、眠くなる。微睡むような時間が増えて起きているのか眠っているのかわからないような、そんな時間が増える。
もちろん夢と現実の区別がつかなくなるなどと、そんな馬鹿げた事があるはずがない。けれども、たとえその線引きがあやふやになったとしても自分にとってはどうでもいいことだ。
今とりまく全てのものが夢だったとして、それが惜しいとは少しも思わない。
更に言えば、どうしてもしがみついていなければいけない現実など、自分にはないのだから。
かわいいピンク、爽やかな水色、あたたかなベージュ色、どれを見ても自分には似つかわしくない色ばかりがあって、志波は何度目かのため息をついた。(もちろん色だけではない)
よく行くスポーツショップとは訳が違う事は承知していたが、ここまで居心地の悪い思いをするとは。
今すぐにでも引き返して店から出ていきたいがそういうわけにもいかない。3月14日はもう明日に迫っている。
適当に選べばいいじゃないかと、志波は何度も頭でそう思った。欲しい物があるとは聞いた事がないし、好きそうなものも全然わからない。女だからこういう物が好きなのだろうと適当に入った店だが、だからといってこの店にある中でどれが一番喜ばれるかなどわかるわけもない。目をつぶって最初に触ったのを買ったって結果は同じことだ。さっきから店員やら他の客(全員女だ)やらにちらちらと向けられる視線が痛い。一秒でも早くここから立ち去りたい。
それなのに、どうしてそうは出来ないのだろう。ネコがいいのかクマがいいのか、ピンクがいいか青がいいか、さっぱりわからないっていうのに。
西本はるひへのお返しはすぐ用意出来た。ノリのいい彼女らしく「お返しならコレにしてや!」と元々指定を受けていたのだ。それを買いに行けばいいだけだったので、特に苦労も葛藤もなかった。
けれども、彼女からは何も聞いていない。…まぁ、普通はそうかもしれない。
もらった小さな紙袋の中には小さなチョコレートケーキが入っていた。ケーキといってもパウンドケーキのようなシンプルなものだ。いくら頓着しない自分でも、それが手作りであることくらいはわかる。
毎年チョコレートをもらったのかもらっていないのかとうるさい母親の詮索は適当に受け流し、もらったケーキは部屋で一人で食べた。別に、どうしても隠したかったわけではなかったけれど、正直に報告する気にもなれなかったのだ。
もう一度、棚に並べられたこまごました物を、わからないなりに物色する。
(…出来れば)
出来れば、笑って喜んでくれるものがいい、そう考えながら。
「はい!さよすけ運命の2択ですっ!」
「ぅわっ、立川先輩、何ですか?いきなり」
「何って今日はホワイトデーじゃないかっ!だから2択!」
そう言って、ずいっと目の前に差し出されたのはマシュマロが入った袋と…本?やたら凝った装飾が施された薄っぺらい本みたいなもの。何だろう、これ。
「あのう…これは?」
「こっちのマシュマロは部員全員から!そしてこっちは俺プロデュースの『ドキ☆ご主人サマ!』の同人誌、全36P、価格500円のところを本日は無料でプレゼンツ!
さぁ、好きな方を選ぶがいい!」
「………………あ、あの」
「ちなみに千沙子ちゃんは俺が選択肢を挙げる間もなくマシュマロを選びました!何故なんだ!」
「去年は『うるうるネコにゃん』だったよねー。ジャンル変わっちゃったからなぁ〜残念」
「そこだったのかっ…!移り気な俺の心の弱さが敗因か…っ!ほら、さよすけ、どっちでもいいぞ?どっち選んでもマシュマロは付いてくるから俺的にはコッチがオススメだ!」
「…マシュマロだけでお願いシマス」
「じゃあ私はこっちをもらう事にするわ」
すい、と横から手を伸ばして本と手にしたのは柏木先輩だった。私はもちろん、当の本人の立川先輩も目を丸くしている。柏木先輩は顔色一つ変えずに「ありがとう」とお礼を言った。…信じられない!
「…か、柏木先輩、そういうの読まれるんですか…?」
「読まないわよ?でも、これ立川くんが作ったんでしょう?私はそこに興味があるの」
「…へ、へぇ…!」
「だってほら、髪の毛とか、爪だとか、そういうものはむしろ入手困難でしょ。本人の一部ではないけれど過剰なまでに想いを込めている物だとしたらあるいは…」
「ちょちょちょ、ちょーっと待った!何するつもり?それを使って俺に何の呪いを掛ける気っ!?」
「ねぇ知ってる?とある外国では国家レベルで黒魔術が使わ…」
「止めてぇぇぇ!誰かこの人止めてぇぇぇ!!!」
(ホワイトデーかぁ…)
もらったマシュマロの包みをカバンに直して、もう一度外に出る。先輩たちや他の部員は帰ってしまった。後は用具の点検と…汚れているのがあったら掃除しておこう。
3月だけれど、今くらいの時間になるともう薄暗い。それでも、何だか今日はふわふわと暖かい日だ。オレンジと赤と紺色の混ざった空が、不思議だなぁとぼんやり見てしまう。
まるで夢みたいな色。
(…別に、お返しが欲しいわけじゃないもんね)
野球部員のみんなも(これは柏木先輩たちと一緒に用意したけれど)、ハリーにも氷上くんにもくーちゃんにも。いつもお世話になってるし仲良くしてもらってるからチョコレートを渡したんで、お返しが欲しいわけじゃない。お返ししてもらえるのはもちろん嬉しいけれど。
(迷惑、だったのかな…)
何だか勢いで渡しちゃったけど、「トモダチ」ならいいよねって思ったから…でもやっぱり手作りのを渡したくて作ったりしたんだけれど。
どんな顔してたかなんて確かめられなかったから…でも、嫌そうではない気がしたんだけど。
練習で使う白球を一つ一つ確かめながらため息が出る。気を抜くと止まりそうになる手を、自分で励ましながら作業を続けた。冬みたいに寒くはないけれど、やっぱり指先が少しだけ冷たくなる。
(……手)
思い出した。おっきくてゴツゴツしてて、でもあったかい手。もう何度も思い出したけど、何度思い返してもやっぱりドキドキして勝手に顔が熱くなる。たぶん、あれは偶然というかそういう感じだと思うんだけど、チョコを渡しに行った時、私、志波くんと手を繋いでしまった。
これくらいの事でも普通でいられないのに、もっと仲良くなんてなれるのかな。いっぱいお話したり、遊びに行ったりしたいけれど…そう思う反面、どうにも出来なくなってしまう。
…だって、変な事してまた嫌われたら辛いもの。今度こそ立ち直れない。
「…早く終わらせよう」
だめだ。考えったってどうしようもない。
ふるふると頭を振って、しゃがみ込んでいた膝を伸ばす。その時、ざり、と後ろで砂を踏む音がした。
「一ノ瀬」と呼ぶ低い声が、私の耳に届く。
一人でちょこんと座りこんで作業する後ろ姿を見て、志波は何と言っていいかわからない気持ちで眉をひそめる。
「こんな時間まで」と思った。それが否定的な思いか、肯定的なものか、自分でもよくわからない。周りが薄暗いせいか、小さな背中が余計に小さく見える。
志波はしばらくそれを見ていた。今になって声を掛けるのを躊躇うなんて馬鹿げてる。朝から散々迷ったあげく今になってしまった。
しゃがみこんでいた彼女が不意に立ち上がる。そこでやっと、志波は彼女の名前を呼んだ。
「一ノ瀬」
「…志波くん?」
少し驚いたような顔で、彼女が振りかえる。驚いても仕方がない。こんな時間に用もないのに声をかけられれば驚くに決まっている。
子犬みたいな瞳が、呆けたように自分を見上げていた。
「…え、あ、あの、志波くん、どうして…?」
「まだ残ってたんだな」
そうは言ったが、大低これくらいの時間まで彼女が残っているのは知っていた。だからこそ今、会いに来たのだから。
彼女の後ろにある、たくさんのボールに一瞬視線を移す。白球。今ではもう、少し懐かしいくらいな気がする。
「それ、運ぶんだろ?手伝う」
「えっ!い、いいよ、大丈夫!いつも一人でやってるから…」
「いいから。…俺も、用があるしな」
「え…」
彼女の返事を待たず、山のようにボールが入っているカゴを持ち上げる。結構な重さだ。またこれも運ぶには時間がかかるのだろう。
「どっちに持っていけばいい?」
「あ…、えっと、こっち。…ごめんね」
「気にするな」
微かに、土の匂いが鼻を掠める。普段遠ざけている何もかもが、途端に鮮やかに自分の前に現れるのがわかった。
まだこんなにも簡単に思い出せる自分に、ただ呆れるしかない。けれど、それも仕方がないことだ。忘れることなど、出来ないのだから。
一ノ瀬さよは慌てたように横に付いてくる。そこで彼女と自分との歩幅の差を思い出して、志波は少しだけゆっくり歩く。
ボールを片づけてしまってから、彼女は「ありがとう」と言いつつも遠慮がちに志波を見上げた。戸惑ったような不安そうな顔。彼女が自分によく見せる表情。
「…あの、もしかして志波くん…用事って野球部にあった?先輩たちはもう帰っちゃったんだけど…」
「いや、違う」
「そ、そうなんだ。ごめ」
「お前に」
ずっと小脇に抱えてた包みを、彼女の前に差し出した。次の言葉を言うのに、ほんの一瞬間が出来る。…なんだ?緊張してるのか、俺は。
「…礼だ。チョコの」
「……わたしに?」
「ああ。…ありがとう。美味かった、あれ」
「本当?……良かったぁ」
(…あ)
今、何か。
「…わぁ、かわいい!志波くん、ありがとう!大事にするね」
「あ、あぁ…」
プレゼントを見て満面の笑顔で喜ぶ一ノ瀬さよに、頷きつつも妙な感覚に志波は何故か戸惑う。
喜んでくれるのは嬉しい。あの身のつまされるような思いをしたのも無駄にはならなかった。
でも、そうではなくて。喜んでくれた笑顔よりも、さっきの。
「志波くん?どうかした?」
「いや…何でもない。…それより、もう帰るんだろう?送ってく」
「えっ、何で?」
「もう暗いからな。…早くしろ」
「は、はい!」
仕度をする彼女を部室の外で待ちながら、誰もいないグラウンドをただ眺めていた。何も変わらない、誰もいないグラウンド。
いつか、戻れるだろうかここに。そんな、夢みたいな未来があるのだろうか。
「志波くん、ごめんね!お待たせしました!」
「あぁ…行くか」
歩き出しながら、志波は考えを頭から追い払う。どうしたって夢は夢だ。現実はいつもはっきりと目の前に突き付けられている。
ひょこひょこと隣を歩く一ノ瀬さよに合わせて、志波はゆっくりと歩いた。踏みしめる地面を確かめるように。
次から2年生です。