(さすがにちょっと寒いな)

時折吹きつける風は冷たい。おまけに今日は曇り空でそれが余計に寒々しかった。どんよりと分厚い雲が低く垂れこめている。ここは屋上だから、雲に少し近いからそう見えるのかもなと下らない事を思いつく。

「うぉーい、志波!」

無遠慮にかけられる大きな声に、志波は声の方を振り返る。もちろんこの気安さは声の主の長所でもあるので不快になどなりはしないが。
近付いてくる針谷は、何やら荷物を抱えていた。

「やっぱここだったか。図書室覗いたけどいなかったし」
「…何だ?それ」

尋ねると、彼は自慢げに笑った。上機嫌だ。

「何って、チョコだよチョコ!今日はバレンタインだぞ?人気者は辛いってな!…んで、コレ」
「…どうしてお前が俺に?」

バレンタインというのは、確か女から男にチョコレートを渡すはずだ。その疑問が顔に出ていたらしい。針谷は慌てたように「勘違いしてんじゃねぇ!」と言った。

「オレからなわけねーだろ!それは預かってきたんだよ、西本から。友チョコだってさ」
「…そうか」

針谷から渡された小さな箱を受け取りつつ、一瞬浮かんだ予想とは違う名前に、どうしてか梳かされたような気持ちになる。甘いものは好きだから、友チョコだろうが義理チョコだろうがもらえるのは有難いことだが。

「にしてもこの寒い日によくこんなトコにいるよなぁ、寒くねーのかよ」
「寒いのは寒い」
「まぁ、お前じゃ風邪はひかねぇよなぁ、はははっ!」
「お前に言われたくない」

あー寒ぃ、マジ寒ぃわと言いながらも、針谷さっさと隣に座り込んだ。ごそごそと手持ちの袋のチョコをあれこれ物色し始める。

「まーでも、確かにココ良く見えるもんな。同時にお前にとっちゃニガコクだし」
「何が」
「グラウンド。見てるんだろ?…うぉっ、これ美味そー、すげぇなー!」
「…どうして」

思わず振りかえる志波に、針谷は「ん」とチョコレートの入った箱を差し出す。選べということらしい。中には一つ一つ形や、あるいは色の違うチョコレートが綺麗に並べられていた。

「お前がもらったんだろ、それ」
「あぁ、これはいいんだ。ばーちゃんとオフクロがくれたヤツだから」
「ばーちゃん?家族か?」
「朝、出てくる前にくれた。だから遠慮すんな」
「…何でわざわざ学校に持ってくるんだ?」
「う、ウルセー!いいだろ、別に!早く取れよ!」

真っ赤になって慌てる針谷に急かされ、チョコレートを一粒取る。そのまま口に放り込めば甘さがじわじわと口の中に広がった。
隣で針谷ももぐもぐとチョコレートを食べている。男二人でチョコレートを食べるというのも何だか妙な感じだ。

「…何でわかった」
「あぁ?何が」
「グラウンド、見てるって」
「そりゃ、俺サマはハリーサマだからな!…ていうのはともかく。何だろ、何かそんな気ぃしたんだ。つかお前、放課後いっつも見てんじゃんか」
「………」
「やんねぇの?」

短い言葉は、けれどもやけにはっきりと耳に残った。
やらない。はっきりと、そう答えるべきだ。けれど、何も言えなかった。「もう野球はしない」と、明確に言葉にした事はない。そう明言することを、志波はどこかで避けていた。
口にして、自分自身で終わらせてしまう事を恐れていた。

「何つーか、お前はお前だからオレの口出しすることじゃねぇんだけどさ…。ちょっと気になったから聞いてみた。気ぃ悪くしたんなら、謝る」
「……いや」

軽く首を振って、志波は空の下のグラウンドを見る。ここから見るその場所は、それほど広くはなく、何より遠かった。

「まぁ、やればやったで色々あるんだろーけどさ…」
「だろうな」
「何かな、時々どうしていいかわかんなくなるよな!情けねぇ話だけど」

針谷の空元気な声に、志波は苦笑するしかない。たぶん半分は自分に気遣って、半分は針谷自身の事なのだろう。
どうしていいかわからない、というよりは考えたくないだけなのかもしれない。変えられない答えを直視したくなくて俺は迷ったふりをしているだけなのかもしれない。

「そういや、あいつマネしてんだよな。さよすけ」

針谷は言いながら、また新たなチョコレートを口に放り込む。

「オレも時々見かけるけど…あの鈍くさいヤツがよくやってるよなー。見ててハラハラする時あるぜ?」
「そうだな。…けど、よくやってると思う」
「そぅかぁ?頑張ってるのはわかるけどよ、オレさまのマネージャーだったらクビだな、クビ!……さて、と。おいコラ、いつまでそこに隠れてるつもりだよ!」

針谷が怒鳴りつけた方向で「うぇっ」と変な声が聞こえた。そろそろと、コンクリートの壁の向こうから小さな頭がこちらを窺うように出てくる。

「立ち聞きとはいい度胸じゃねーか、さよすけのブンザイで!」
「ち、違うよ!お話中だと思って待ってただけで…!」
「おーそうだな。お前が鈍くせーって話をしてた、たった今」
「うぅ…」

しょぼんとうなだれる一ノ瀬さよは、それでも針谷が手招くのを見てひょこひょこと近付いてくる。手には小さな紙袋を持っていた。

「おお!オレさまにチョコ持ってきたか!さすがオレさまの子分、殊勝な心がけだな!」
「ハリーにはさっき渡したでしょ!これは違うの!」
「ちっ、さすがに引っ掛かんねーか。…まぁいいや。オレもう行くから、このチョコはお前にやるよ」
「えっ、えっ、何で?これハリーがもらったんでしょ?」
「オレはそんな小せぇ事にはこだわらねーんだよ。いらなきゃ志波に食ってもらえ!じゃーな!」

そう言ってさっさと引き上げる針谷に、一ノ瀬さよは「変なの」と呟きつつも少しほっとした表情をしていた。もしかしたらコワイと思っているのかもしれない。
けれども、彼女は自分の事は「怖くない」と言う。「優しい」のだと、いつか言っていた。一体、何が基準なんだろうと不思議に思う。
針谷に強引に渡された箱を眺めて、「どうしようコレ…」と戸惑い気味に呟いた。

「もらって良かったのかなぁ…だって、誰かがハリーにプレゼントしたのに」
「家からのだから気にするなって言ってたぞ」
「…そうなんだ。お母さんからのなんだ」
「正確にはおばあさんと母親から、らしいな」
「へぇぇ…ハリーおばあちゃんがいるんだぁ」

話しながらしまったと思う。家族の話なんて、彼女にはあまり気分の良い話じゃないかもしれない。
家に見舞いに行った時のことを思い出して一瞬焦ったが、一ノ瀬さよ自身は何とも思ってないようだった。こっちの気にしすぎなのかもしれない。
少し強めの風が吹いた。一ノ瀬さよの制服のケープやスカートの裾がひらひらとして、彼女はそれを少し寒そうに押さえる。

「…寒いか?」
「え?…うん、今、風のせいで…ちょっとだけ」

でも、大丈夫だから!と言う彼女の顔を、志波はじっと見る。それから、何も言わずに立ち上がった。

「志波くん?…どうしたの?」
「戻ろう、教室」
「え!?あ、あの、ちょっと待って…私」

おたおたと慌て始める彼女を志波は軽く止めた。無理やりに手渡された針谷のチョコレートの箱を彼女の手から取り上げる。それから…、それから一瞬迷ったけれど、結局は空いた彼女の手を取った。

「っ…!あ、あの…!?」
「話は中で聞く。…行くぞ」





別に他意はない。する必要もない言い訳を、志波は心の中で繰り返す。また風邪でもひいて寝込まれたら事だと思っただけだ。
冷たく細い手を落としてしまわないように、志波は握る手に少しだけ力を込める。





















次へ