まず一ノ瀬の家に入ってから母親が言った言葉は「立派なお家ねぇ」の一言だった。それから、まるで自分の家のようにさっさと上がり込む様子はさすがというか何と言うか表現に困ったが、現時点では頼もしいには違いなかった。

あれから散々迷って、志波は結局家に連絡して母親を呼んだ。
この家の状況を知った上で(それはあくまで表面上の事かもしれないが)、志波はこのまま一ノ瀬さよをここに置き去りにして帰る気には到底なれなかった。
置き去りも何もここはれっきとした彼女の家だが、それにしてもこのまま何もしないでは帰れないと思ったのだ。
けれども、具体的にどうすれば良いのかわからない。こういう時、まるで頭が働かない自分は、結局のところ子供で無力なのだと思い知った。

助けを求めようにも彼女の両親は連絡が付かない。学校の方でも頼りになりそうな人の連絡先は知らない。それに、これは勝手な憶測だがもしかしたら学校や友達には彼女はこの状況を知られたくないかもしれない。
一瞬、大学生の幼馴染の顔も浮かんだ。だが女の部屋にこれ以上男を上げるのもどうかと思い、それならいっそ母親に来てもらえばいいと思いついた。
そして、今に至る。

(それにしても)

世間は狭い、と志波は台所やダイニングテーブルに散らかったゴミを分別しながら息をついた(「ゴミくらい片づけられるでしょ」と母親に命じられた仕事だ)。どこで知り合ったかは知らないが、どうやら母親と一ノ瀬さよは知り合いだったらしい。母は彼女を見るなり「さよちゃん!?」と血相を変えた。

「勝己ー、勝己ーちょっと来てー!」
「…何だ」

デカい声で呼ぶなと心で愚痴りつつ、志波は声のする方へ向かう。それにしても母親という人種は、どこへ来ようがその振る舞いは変わらないらしい。来た途端あちこち覗く、冷蔵庫は勝手に開ける、恐るべき神経の持ち主だ。

「ねー、この洗濯機ってどう動かすんだと思う?乾燥まで全自動らしいんだけど。凄いわよねー」
「…俺が知るか。何か適当に押せば動くんじゃねぇか?」
「ちょっと適当ってアンタ…あーでも、案外そうかもねぇ…って、コラ!女の子の洗濯物をじろじろ見てんじゃないの!」
「見てねぇ。なら呼ばなきゃいいだろ」
「あー言えばこー言うんだから。ゴミ、ちゃんと片づけてくれた?まとめたら玄関に出しておいてね、帰りに捨てて行くから」
「…わかった」
「あとは、冷蔵庫には結構色々あったから適当におかず作って…あと今日さよちゃんの食べる分でしょ?で、その間に洗濯物も乾くだろうから…」

指折り確認しながら、それでもどんどん用事を片づけていく母親を見て、志波はやっぱり母を呼んで良かったと思った。自分一人ではこうはいかなかった。今日ほど彼女の存在を頼もしく思ったことはない…本人には言わないけれど。

「あ、それから家に電話しておいて。お父さんそろそろ帰ってくるから」
「なんで」
「なんでって、お父さんが心配するでしょ!もうちょっとかかりそうだから悪いけれどゴハン先食べておいてって。あと、遅くなりますって」
「わかった」
「で、今から食べれそうなもの作るから、アンタはさよちゃんの事見ててね。…あ!見るだけよ!?信じてるけど、ヘンな事しちゃダメだからねっ!?」
「…するわけないだろ」

変な気回すなと内心苦々しく思いつつ、志波はさよの部屋に向かった。母が来てからは廊下もどこも灯りを付けているので随分家の中が明るい。そして改めて見ればやはりここは広い家だと思う。
ここに家族3人、いや、あるいは二人というのは広すぎるような気がした。そんなところに、ましてや一人でいるだなんて。
そっとドアを開けて中に入る。薄暗い部屋の中、彼女は相変わらず辛そうだったが、着替えもしたし、額には母が買ってきた冷却シートがのせてあり、初め見た時よりは気持ち落ち着いている風に見えた。
机の椅子を引っ張ってこようかと思ったが、結局やめてそのままベッドの脇に座り込む。彼女の眠る顔が、すぐ傍に見えた。

(…こんな風だとは思わなかった)

全く勝手な想像だが、彼女はもっと愛されて、護られているのだと思っていた。ドラマか何かで見るような、絵に描いたような幸せな家族の中に、彼女はいるのだと思っていた。
もちろん家族の形なんていうのはそれぞれで、それがどんなものだったとしてもその本人でなければ幸せかどうかなんてわからない。そして、それ自体がどんなものでも彼女個人を見る目が変わるわけではないし、そうでなければいけないと思う。

それでも、関係無いと思っても忘れることは出来そうになかった。山積みになった郵便物、静かすぎるリビング、そして、あの電話。
母が来て、さよの名前を呼びながら彼女に触れた時、さよは志波の母親に向かって「おかあさん」と言った。たぶん、意識がはっきりしなかったのだろう。それでも一瞬、自分の母親が軽く目を見張ったのを、志波は見逃さなかった。

どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわからない。

(…同情、してるのか、俺は)

同情。そうかもしれない。父親は出張で家に帰らず、母親は…事情は知らないが恐らくはここには戻らないのだろう。ほとんど独り暮らしのような生活の中で、熱を出して寝込んでいた。
家族には頼れない。かといって友達にも話していない。一人きりでこの暗い家にいて。同情するなという方が無理な話だ。
さっきから、学校や外で会った時の彼女のばかり思い浮かぶ。「野球は好き?」と聞かれたこと、体育祭で一緒に二人三脚を走ったこと、補習、花火大会でりんご飴を嬉しそうに持っていたこと。
うさぎの着ぐるみを着ていたこと、動物園に一緒に行ったこと。毎日「おはよう」と挨拶していたこと。
気にも留めていなかった記憶が次々浮かび上がっては消える。そしてどの時もこいつはここではやっぱり独りだったんじゃないかと思うと、少し胸が苦しい気がした。

ふと、閉じられた瞼にある睫毛が微かに震える。ゆっくりと、その目が開いた。

「…起きたか」
「…しばくん?どうして…」
「あれから…ちょっとな。気分どうだ?」
「おばさん…」
「俺のお袋。…知り合いだったんだな」
「じゃあ、やっぱり…」

ぼんやりと定まらない視線が、それでもこちらを向く。「ヘンな事しちゃダメだからね」とう母親の声が耳の奥で蘇ったが、別に、ヘンな事をするわけじゃないと言い訳しておいてから志波はゆっくり手を伸ばした。冷却シートが張り付けてある額に触れる。

「もう温くなってるな、これ」
「…ぅん」
「新しいの、後で貼るといい。…食べれそうか?薬飲むから、食べれそうならその方がいい」
「…のど乾いた。ちょっとなら…たべる」
「わかった。…聞いてくる」

立ち上がりかけたところに、もう一度「しばくん」と小さく声が聞こえた。

「なんだ?」
「あの…うぅん、やっぱり何でもない。あの、ごめんね。迷惑かけちゃって」
「気にしなくていい。俺が勝手にしたことだ」

そう言ってやれば、さよは「でも、やっぱりごめんなさい」と小さく言った。自分を見上げる目は水の膜で覆われたみたいに潤んでいる。たぶん、熱のせいだ。
ぽん、と頭を軽く撫でてから、今度こそ立ち上がった。伝わったかはわからないが、安心させてやりたかった。





今の自分の気持ちが、同情なのか何なのかそれはわからない。
ただ、今だけは優しくしてやりたいと思う。それだけは確かだった。





















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