玄関は暗かった。入ったらまず挨拶しなければと身構えていたが、その必要はないのだとすぐに知れた。
人の気配が、まるでしない。まさか本当に誰もいないのかと玄関を見ると、そこには小さなローファーが脱いだままになっていたから、やはり一ノ瀬さよは家にいるらしい。
玄関だけでも立派だった。マンションのそれとは思えない広さだ。黙って上がりこむのはどうにも気が引けたので、とりあえず「お邪魔します」とだけつぶやいて靴を脱いだ。
彼女に会わなければ意味はないのだが、どこにいるのだろう。部屋の数はもちろん限られているがあちこち開けて回るのも何だか泥棒みたいで気が進まない。
とりあえずまっすぐ廊下を進んでドアを開ける。そこはリビングらしかった。広々した部屋に、立派なソファに薄型テレビが置いてあって、どこかのモデルルームみたいだなと思った。
確かにきれいな部屋だった。置いてある何もかもが最新のもので高級そうだ。自分の家と比べればそれは良く分かる。
けれどそれ以上にそこには強烈な違和感が付きまとった。まず、ここにはまるで生活感が無い。オフホワイトの革張りのソファも、どっしりとしたダイニングテーブルも、ただここに放り込んで置いてあるだけのような気がする。現に部屋の隅のほうにはまだ開封すらされていない段ボールもいくつかあった。引っ越して来たとは聞いていたが、まだこんなものが置いてあるとは普通では考えられない。だが生活感が無い割にはテーブルの上やキッチンは散らかり放題だった。見たことのあるレトルト食品の袋が中身を開けたままそのまま置いてあったりする。一応使う人間はいるらしい。
(…どうなってんだ)
あまりにも異様な空間に軽く混乱する。少なくとも「家族」が住んでいる家の空気だとはとても思えない。
他所の家をあちこち見まわすなどあまり良い趣味とも思えないが、そうせずにはいられなかった。それくらい、そこはおかしかった。
ふと、電話台に目が止まる。机くらいあるその棚の上に、やはりいかにも新製品らしいファックス電話が置いてあった。その横には山のように郵便物が置いてある。
一応スペースは二つに区切られていた。「お仕事関係」と「それ以外」。分けられてはいたが、その区切りもあってないようなものだ。やはり自分の持つ郵便物と同じようなものがそこには積んであった。どういう基準で分けられているかは志波にはもちろんわからない。とりあえず代わりに取ってきた郵便物はここに置いておけばいいらしい。一緒になってしまわないように少し脇にそれらを置いた時、ふと既に山積みにされているものの一番上にあった封書が目に付いた。
「…裁判所」
その文字を見て、意味もなく不安になるのを感じ、すぐに馬鹿げていると思いなおした。俺がどうして焦らなきゃならないんだ。
そんな志波の心を見透かすかのようなタイミングで、突然電話の呼び出し音が鳴り響いた。がらんとしたそこでは、機械音がやたらと大きく響く。普段ではありえないが、咄嗟の事に志波はその電話を取ってしまった。代わりに取ったというよりもけたたましく鳴り響く呼び出し音を止めたかったのだ。
――もしもし、いつもお世話になっております。○○弁護士事務所ですが、一ノ瀬さんでいらっしゃいますか?
今度こそ、混乱した。弁護士事務所だなんて、今まで生きてきた中で関わったことなど一度もない。そんなものにどう対処すればいいのか、皆目見当もつかない。
何も知らない、わからないと言って切ってしまうのは簡単だったが、そんな無責任な事も出来そうにない。黙ったままのこちらを不審に思ったのか、電話の向こうでもう一度「一ノ瀬さんのお宅ですよね?」と確認する声が聞こえた。
「…はい。あぁ、そうです。確かに一ノ瀬の家…ですが、俺は、違います」
――はい?…あぁもしかしてお留守番の方ですか?
「まぁ、そのような者です」
実際にはもちろん違うが、この際細かい事情説明は話がややこしくなるだけだろう。
向こうはすっかり志波を留守を預かっているのだと思い込み、滑らかに話を始めた。
――そうですか。ということは、また長期で出張なさっている、という事ですかねぇ?
「たぶん…そうだと思います」
長期で出張?ということは少なくとも父親はあまり家にはいないのだろうか。
――…まぁお仕事柄仕方がないとは思いますけど…あまり時期を延ばすのも良いとは言えませんので。相手方も、なるべく早くお話を進めたいと思ってらっしゃるようですし。
「…相手?」
――…あぁ、いえ…ともかく、お帰りになりましたらすぐにこちらにご連絡くださるようお伝えください。
ただの留守番に喋りすぎたと判断したらしい。妙に早口に慇懃無礼とも取れる挨拶を告げられ、そこで電話は切れた。家の中は、まるで家じゅうが黙りこくったみたいにまた静かになる。
余りの事に、志波はしばらくその場に立ち尽くしていたが、さすがに落ち着いてきて電話の受話器を元に戻した。とにかく、一ノ瀬さよに会わなければどうしようもない。
若王子先生から預かってきたものもあるし、郵便物の事、あとはさっきの電話の事も伝えなきゃならない。
一ノ瀬さよのいるらしい部屋はすぐに見当が付いた。広くとも、部屋数はそれほどはない。ノックはしなかった。電話が鳴っても出てこないのだから恐らく眠っているのだろう。
代わりに出来るだけ音を立てないようにドアを開けた。
「…一ノ瀬?」
開けた部屋は薄暗かったが、照明は付いていた。空気は、あまり良くない。
部屋の中は、こちらは予想の範囲内というか、平均的な女子高生の部屋に思えた。(とはいっても、女の部屋に入ったのは小学生以来なので実際にはよくわからない)
細々としたぬいぐるみだの、かわいらしい雑貨だの、そのようなものが目に入る。
机の端の方に写真が飾ってあるのが見えた。飾ってあるわりには随分と見え辛い所に置いてある。映っているのは小さな女の子と、若い夫婦。
その女の子は一ノ瀬さよなのだとすぐにわかった。小学校の入学式なのかもしれない。写真の中の満面の笑顔に、思わず口元が緩んだ。
(…って、そんな場合じゃないだろ)
写真から視線を移して、ベッドの方に近づく。それから、妙な事に気が付いた。
一ノ瀬さよの姿が見えない。
一瞬いないのかと思ったが、そうではなかった。柔らかそうな羽根布団はちゃんと人型に盛り上がっている。彼女は頭まで布団をかぶって寝ていた。
「…おい」
息苦しくないのだろうかと思いつつ、声を掛けてみる。返事はない。眠っているのだろうがこれではどんな状態なのかもわからない。
一瞬迷ったが、結局志波は手を伸ばして羽根布団を少しめくってみる。もちろん顔が見える程度に、少しだけ。何となく、予感がしたからかもしれない。
そして、それは当たっていた。
顔は赤く、息は苦しげだった。汗ばむ額に手を置いてみると明らかに熱い。
「おい。一ノ瀬、大丈夫か?」
大丈夫でないのは見ればわかるが、声をかけずにはいられなかった。
(三日も)
三日もこんな風だったのだろうかと、口で呼吸を繰り返す彼女を見る。それから台所の惨状を思い出した。インスタント食品の残骸が散らかっていた、食器もそのまま流し台に放り込んであった。
郵便物も溜まっていて。玄関の鍵も開けっぱなしで。
「…お前、もしかしてずっと一人で」
さっきの電話でも言っていた。長期出張。裁判所、相手方。本当のところはよくわからない。けれど、事実この家には誰もいないし、誰も帰ってくる気配がない。
「…ん」
「…一ノ瀬?」
「ん、だれ…?」
うっすら開いた目がさまよう。額に張り付く前髪を、手で避けてやった。
「志波だ。…悪い、勝手に上がった」
「しば、くん…?」
その時、ベッドの脇にあった電話がまた鳴った。携帯電話ではない。あのリビングにある電話の子機だ。
電話が鳴ったとたん、一ノ瀬さよは、まるで待ちわびていたかのようにそれを取る。その瞬間だけは熱も忘れているみたいに。目の前に居る志波の存在もまるで気にも留めていない風だった。
「もしもし」と応対する声は、まるで普段の彼女と変わらなかった。
むしろ普段よりも元気そうな声で、彼女は電話に向かって「お父さん」と言った。
「そっちはどう?寒くない?こっちは…うん、大丈夫。少し寒いけど」
「え、書類?…うぅん、まだ見てない。水色の封筒?うん、わかった。」
「…うん、うん…来週末ね、わかった。え?うぅん、私は大丈夫だよ、元気。だから心配しないで。お父さんこそ、風邪ひいたりしないでね」
(何だって?)
信じられない言葉に志波は思わず受話器を持つ彼女を見る。大丈夫?元気?一体こいつは何言ってるんだ。
通話時間は短かった。話し終えた彼女の体が、ゆらりと傾ぐ。
「…っおい!」
「ご、ごめん…ちょっと力が入らなくて」
「大丈夫じゃないだろ、全然。何であんな事言うんだ」
おまけに来週末?熱を出して寝込んでいる娘をこんな家にほったらかして帰って来ないつもりなのか。こいつはそれまで一人でこうして寝ているつもりなのか。
支えてやった腕の中で、彼女は小さく「いいの」と言った。
「言ったって…どうせ帰ってこれないから。余計な心配、かけたくない」
「そんなことないだろ。いくら仕事でも」
「お父さん、今、日本にはいないの。だからどっちにしてもすぐには帰ってこれないし…帰ってこないから」
そこで、会話は途切れた。言葉が、出てこなかった。彼女の言葉には何の表情もない。単に事実を述べているだけだった。諦めも寂しさもどこにも感じられない。
だからこそ、それは覆されないもので、何を言っても無駄なのだと思わせる言葉だった。それが、志波には信じられない。何もかも、悪い夢を見ているような気分だった。
相変わらず、家の中は静かだった。雨の音だけが、妙に響いて聞こえた。
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