雨が降る。

図書室の窓から見る外は暗い。しばらく降り続いている雨は止みそうになく、景色全部を黒く濡らす。

(…三日)

冬には珍しくこのところ長雨が続いていた。普段なら部活動に励む生徒たちの声が聞こえてきそうだが、当然ながらグラウンドには人一人おらず、ひっそりと静まり返っている。ぽつぽつと、時折窓ガラスを叩く水音が耳障りだ。
だらしなく机に寝そべっていた体の向きを少し変える。三日。けれどもそれは、志波にとっては雨の続いた日数を意味しているのではない。

(…三日、見てない)

初めは気が付かなかった。当然だ、普段から意識したことなどなかった。
二日目、何か違和感を覚えた。普段と変わらない、けれどもどこか足りない。

――志波くん、おはよう。

真面目に授業に出ているなどと言うつもりはないが、朝は一応一度は教室に行く。そういえばその時挨拶を交わしていた。思い返してみればそれは学校のある日は毎日だった。
挨拶以外はロクに話をしたことはないけれど。
相変わらず遠慮がちに。けれど彼女は毎日「おはよう」と言った。だから自分も、「おはよう」と返していた。それだけのことだ。

この雨の中、野球部もさすがに練習はしていなかった。故に、彼女の姿も見ていない。
学校を休んでいるのだと、そこでようやく思い当たる。
そして、今日で三日目。彼女は今日も来ていなかった。今日は朝から姿を探した。もしかしたら遅刻してくるのではないか、とも思った。
それからまた気が付く。何故、自分はそんなのも気にかけるのだろう。彼女は一クラスメートに過ぎない。

(…今日はもう帰ろう)

ごそりと体を起こした。ゆらりと、視界が揺れる。少し寒かった。雨が降っているというだけで何となく物憂げな気分だった。
どうせ、学校にいたってすることなどないのだ。こんな日はさっさと帰ろう。

図書室を出て、廊下を歩く。カバンは教室に置きっぱなしだった。廊下の空気は、図書室のそれよりぐんと冷え込んでいて体温を奪っていく。

「…おや志波くん。まだ残っていたんですねぇ」
「…若王子先生」

向かいから歩いてくる白衣を着た人物に、志波は軽く頭を下げる。若王子先生の優しそうな目が、さらに細まった。

「それにしても、今日は寒いですね。雨も降ってるし」
「そうですね」
「野球部も、練習はお休みみたいですね?」
「……そう、みたいです」

ごく自然な流れで「野球部」と言われ、一瞬遅れで志波はどきりとする。どうして知っているのだろうと先生の顔を見返すのだが、先生の方はまるで気にしていないようだった。
単なる、偶然かもしれない。

「ああそうだ。志波くんにも渡しておかないと…はいこれ」

抱えるファイルから一枚のプリントを取り出して若王子先生は志波に手渡した。

「大事なお知らせなのでお家の方にも見せてください。…志波くん、授業はまぁいいですけど帰りのHRは顔出してくださいね、先生心配しますから」
「…すみません」
「さてと、後は一ノ瀬さんの分ですね」

先生の言葉に、彼の手の中にあるファイルに目が止まる。一ノ瀬の分。
志波の視線に気付いたのか、若王子先生は微かに苦笑した。

「さすがに三日もお休みだと何かと溜まってしまいましてね…。こっちも心配なのでちょっと様子見がてら届けようと思いまして」
「……」
「これから明日の授業の準備やら色々片づけてしまったら行こうかと思ってるんですけど…ちょっと遅くなりそうかな」
「……あの」
「ん?何です?」

自分でも、何故そんな事を言い出したのかわからない。若王子先生は忙しそうだし、比べて自分は暇だった。単にそれだけだったのかもしれない。
三日ぶりだ。どうしてかそんな言葉が頭を過ぎった。

「俺が…行きます。あいつの家に、届けてきます」





朝、出掛けに母親に無理やり傘を持たされたのだが、正解だったなと空を見上げて志波は嘆息する。雨は相変わらず降り続いていた。
傘を畳んで、志波は目の前にあるマンションを見上げる。それから若王子先生にもらった彼女の住所が書かれたメモを確認した。ここで間違いない。
この建物の存在を、志波は知っていた。まだ新しく出来たばかりのマンションで、家に入ったチラシを見て母親が騒いでいたのを思い出す。
今までの友達の中でもマンション住まいの奴はいたが、これほど立派なマンションは志波は見た事がない。マンションというよりもまるで高級ホテルだ。目の前には分厚そうなドアと、横にはオートロックを解除する為のパネルが冷たく鈍く光っていた。
とりあえず来てみたものの、入り方がわからない。入ってもいいものだろうかという気分にすらなってくる。これでは若王子先生も来たところで入れなかったのではないだろうか。
どうしたものかと立ち尽くしていたところへ、偶然にも中からドアが開いた。住人の一人が出てきたらしい。これを逃す手はないと、すかさずそのまま入り込んだ。

入った先もまた広かった。広い上にそれぞれの世帯の玄関は同じ廊下だったり別だったりと色々らしく、行き方もそれによるようだ。この中から一ノ瀬さよの家へ辿り着くのは至難の業のように思える。

「…あの、どうかされました?」

声を掛けてきたのは若い(とはいっても自分よりは年上だ。母親よりは若い感じだった)女性だった。親切そうであると同時に、何やら警戒されている空気も伝わってくる。
全く謂れの無い誤解だが、声を掛けてもらった事自体は志波にとってありがたい事に違いなかった。「すみません」となるべく丁寧に(そして穏やかに聞こえるように)志波は話しかける。

「一ノ瀬…さんの家に行きたいんですが。行き方が、良くわからなくて」
「一ノ瀬さん?…あぁ、そういえば高校生の女の子がいらっしゃったかしら…それなら」

制服姿のお陰でどうやら不審人物の誤解は解けたらしい。空気が解けるように緊張感が溶け、その人も愛想よく行き方を教えてくれた。

「…ありがとうございます、助かりました」
「いいえ。初めて来られた方には少し解りにくいでしょうから…あ、そうだ。一ノ瀬さんに用があるなら一つ頼まれてくれません?」
「…は?」

彼女が手招きして連れてきたのはたくさんの郵便受けが並ぶ区画だった。たくさんのポストの一つに「一ノ瀬」と印字してあるものを見つける。
そこには大量の郵便物が入っており、今にも溢れそうだった。

「余計なお世話かもしれないけど…一ノ瀬さん、時々郵便物がいっぱいになって…前に管理人さんが文句を言ってらして。悪気はないんでしょうけど…もしも一ノ瀬さんのお家に御用なら一緒に持っていらした方がいいと思うわ」
「はぁ…」
「ここの管理人さん、ちょっと口煩くて。…それじゃあ私はこれで」

そう言ってにこやかに去る人にもう一度頭を下げてから、志波は言われた通り取り出せる分だけ郵便物を取りだす(全部を取り出すのは鍵がかかっているので無理だ。それでも結構な量だった)。どうでもいいような広告が入っているのはどこの家も同じだったが、それ以外に多いのは書類が入っているような大型の封筒だった。大学、研究所、あとはローマ字で印字された海外かららしい郵便物。それらの宛名はどれも「一ノ瀬惣介」とある。恐らくは父親の名前なのだろう。
自分の父親にはおよそ縁の無さそうなものだ。世の中には色んな父親がいるものだなと思いながら、彼女の家を目指す。

教えてもらった通りにエレベーターに乗り込み、廊下をたどる。彼女の家は端部屋で、マンションの一部ではあるがちゃんと門もあった。そこを開けて入り、インターホンを押す。それも自分の家にあるそれとは全然違う、いかにも新しそうなものだ。

返事はない。もう一度押してみる。しばらく待ったがやはり誰も出る気配はない。

(……留守、なのか?)

学校を休んでいるのにそんな事がありえるだろうか。一瞬、病院かとも思ったがこんな時間に行くのはおかしい。…もしかしたら母親も仕事があっていないのかもしれない。
ふと、ドアノブに手を掛けてみる。そんなバカな事があるわけがないとは思ったが念のためだと、それを回して少しだけ引っ張ってみた。

(…開いた)







それは、ガチャリと固い音をさせて、けれども何の抵抗もなく開いた。まさかという思いで、それでも志波は郵便物を抱えたまま玄関に入る。
























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