空気が冷たい。もう12月だ。
今日は風も強いし天気も良くない。部室にある暖房器具は一応あるものの、それでもこの寒さが緩和されているかといわれると怪しいものだ。
とはいえ、無いよりは余程マシと言えるが。
備え付けの机に向かいつつ、柏木祥子はカチカチとシャープペンシルの頭を親指でノックする。指先は冷えて冷たい。
そして周りが静かな事に気が付く。もう練習時間も終わり、片付けと、今書いている日誌を書き終えれば帰宅、という段で騒がしくもなるはずはないが、それにしても静かだった。
シャープペンシルを机に置き、メガネを直す。原因はわかっている。今日は後輩の一ノ瀬さよが早めに上がっているからだ。あの子がいると、いつも何かとバタバタして騒がしい。
彼女は今年の春から入ってきた後輩だが、今ではすっかり、そしてもちろん大切な野球部員の一人となっている。…相変わらず不器用というか、少なくともスマートとは言えない動きではあるのだが。
彼女に対しての評価は、夏以降変わりつつある。というのも、入部当初はいかにも鈍くさそうだった為(そしてそれは真実そうだったわけだが)、もしかしたら途中で辞めてしまうかもしれないと正直思っていたのだ。もう一人のマネージャーで友人である倉田千沙子や、一ノ瀬さよを勧誘してきた立川は否定したけれど。
もちろん理想として、そして気持ちとしてはそう思いたいところだし、祥子だってそれを願っていたわけだけれど、常に最悪のパターンというものを頭に入れておかなければ不測の事態が発生した時に出足が遅れることになってしまう。
けれど、彼女はやめなかった。そういう素振りを見せたこともない。時間はかかったが、手は抜かない。いつも最後まで部室に残っている事が多い。最近ではほとんどの日がそうではないだろうか。
「祥子ちゃーん。日誌書き終わった?」
扉の開く音と共に、ジャージ姿の千沙子が入ってくる。「用具の点検、終わったよ?」と首を傾げながら言う彼女に、祥子は「お疲れ様」と声をかけた。
「まだ途中?」
「ごめんなさい。あともう少し」
「急がなくていいよ。待ってるから」
そう言ってふわりと笑ってから、千沙子は「でも珍しいね」と続けた。
「いつもなら私の方が遅いのに…考えごと?」
「…静かだなって思って」
「立川くん、帰っちゃったから?」
「ちっ、違うわよ!それは別に関係無いわ!」
「まぁまぁ。あれだね、今日はさよちゃんが早く帰っちゃったから」
さよちゃんバイトだもんねと、千沙子は窓の外を見る。祥子もつられて外を見た。どんよりと曇った空は、もう随分と暗い。
「今頃お花屋さんで頑張ってるんだろうなぁ」
「…そうね」
「…心配?」
「え?」
視線を戻せば、千沙子は相変わらずの優しい表情でこちらを見ていた。自分では決して出来ない顔。
「さよちゃんのことが心配って、顔に書いてある」
「…そんなこと」
否定の言葉を、けれど祥子は飲み込む。この友人には誤魔化しはきかないのだ。無駄な労力は使わないに限る。
代わりに、別の言葉を口にした。少し前から、ずっと思っていた事。
「…あの子って、不思議な子よね」
「ふしぎ?どういうこと?」
強い風が吹いたのか、窓ガラスががたがたと鳴る。祥子は机に置いたシャープペンシルをもう一度手にした。
カチカチと、また意味もなく芯を出しては戻す。考えごとをする時の祥子の癖だ。
「うまく言えないけど…。あの子自体が変わってるとかじゃなくて…いえ、言いようによってはそうとも言えるけど」
「…何か、祥子ちゃんにそう思わせるものがあるってこと?私は特に何とも思わないけれど…」
「たとえば、一ノ瀬さんはいつも最後まで残って頑張ってくれてるじゃない?」
「そうだね。…それが変わってるの?」
そうではない。彼女の初見の印象から受ける雰囲気からすればそれは確かに意外だったけれども、そこではない。
「あの子、最近アルバイトを始めたでしょう?」
「うん。「アンネリー」でしょ?今度こっそり立川くんと覗きに行こうって言ってるんだけど」
「どうして急にバイトなんて始めたのかしら?」
「そりゃあバイトくらいするんじゃない?お小遣いだって欲しいし。別におかしくないと思うけど…」
「…そうね。おかしくはないわ。だけどね、私には何だか引っ掛かるの」
一見、それは何もおかしくはない。部活にも慣れてきたからバイトを始めたのだろう。本人もそう言っていた。「野球部の方には絶対絶対メイワクかけませんから!」と彼女は言い、そして実際にそれは守られている。
「…つまり、急にバイトを始めた事に何か理由があるかもしれないってこと?」
「あるいは、そうかもしれないけれど。でもだとしたら私は、一ノ瀬さんは野球部をやめると思うわ」
「ど、どうしてそうなっちゃうの!?話が飛びすぎじゃない?」
「そういう事情があるなら、という話ならよ。でもあの子はやめなかった。つまりそこに、例えば経済的な事情があるわけではない事は確かでしょ」
そういった事情を抱えていたとするならば、彼女は両立させようとは思わないだろう。そもそもそこまで器用だとは思わない。
けれどももしもそれでも部を続けたいと思うならば、それなりに理由を話すはずだとも思う。そういうところをいい加減にする性格ではない。
だが、それもない。やはり彼女は「生活に慣れてきたから」バイトを始めたのだ。
千沙子はちっとも要領を得ないという顔で祥子を見る。
「祥子ちゃんの言ってる事がさっぱりわからないんだけど…つまり、何がおかしいと思っているの?」
「…私はね、一ノ瀬さんには一ノ瀬さんに出来る仕事しか頼んでいない。ついでに言えば彼女はドジする事はあっても無能ではないわ。時間がかかるって本人は言うけれど、実際そんな大した問題じゃない…それはあなたもよくわかっていると思うけれど」
「そうだね、さよちゃんは良くやってくれてると思う。私たちが気付かないこともやってくれたりするし」
「そう。だから、逆に言えば今の一ノ瀬さんならどんなに時間をかけたとしても、あんなに毎回最後まで残るほどの仕事ではないのよ」
時間がかかって結果居残るわけではない。彼女は望んでそうしているのだという事に、ある時期から祥子は気付いた。マネージャーの仕事配分は選手の練習メニューのそれよりはずっと大雑把なものだが、それでも彼女一人だけが毎日居残るような配分はしていない。そして、今の彼女にそこまで時間がかかるとは思えない。
初めは野球部が好きなのだろうと思っていた。野球そのものに興味があるかはともかく、彼女は周りからもかわいがられていたし、彼女自身もマネージャーの仕事を楽しんで、そしてやりがいを感じていた風に見えたからだ。そしてそれは間違っていないだろうと思う。
けれど、そこにあのバイトの話だ。もちろんバイトをするななどと言う権利はないし、そんな事を言うつもりはない。どんな生活を送ろうと、それは本人の自由だ。
だが、その話は祥子は納得は出来るものの違和感は捨てられなかった。数か月あの後輩と過ごしてきて、彼女の考え方や行動パターンは大体把握した今では、この時期にバイトを始めるというのは、何か突飛な話に思えたのだ。
彼女は自分の事を過小評価気味で、周囲に迷惑はかけられないという気持ちが強く、そのせいで物事に対しては慎重なところがある。そして頼まれた事や決められた事はきちんと最後までやり通す。
逆に言えば、自分から何かしようという気持ちはあまりない。無いというよりもどこか恐れているような部分すらある。
そんな人間が部活と掛け持ちでバイトなんて始めるだろうか。あれだけ「迷惑をかけたくない」と思っているのに、多分にその可能性を含む「掛け持ち」という発想に至るだろうか。
しかも彼女はバイトと両立が始まってからも部活にはギリギリまで顔を出す。普通なら疲れて多少は早めに切り上げるものではないだろうか。もしも大変ならバイトの日は休んでもいいと言っても、さよは聞かなかった。今まで彼女は一度だって休んだ事はない。
部活が好きだとか、責任感が強いだとか、そう言ってしまえばそこまでだが、祥子にはどうしてもそうは思えなかった。けれども、それを確かめる術は今のところない。
さよはこちらに何も気取らせない。あの子は何もかもあけすけなようでいて、実は何も見せてはいない。
(…それは、いいのよ。別に。そういう事じゃない)
例え何があっても、何もなくても。彼女が仲間であることに違いはない。
「何だかよくわからないけど…やっぱり祥子ちゃんはさよちゃんが心配なんだね」
「…そう、ね。心配ね」
花屋の仕事だって楽ではないだろうに。体だって小さくて華奢で、特別頑丈ってわけでもないくせに。
やっぱり明日少し話してみよう、と、祥子は思う。自分の勝手な憶測はともかくとして、無理をしないようにくらいは言うべきだろう。彼女のようなタイプは往々にして自分を顧みないものだから。
「無理して倒れたりしたら、それこそ困るというものだわ」
しかし、それは実現しなかった。何故なら次の日、一ノ瀬さよは部活に来なかったからだ。入部以来初めて。
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