8月の第一日曜日。志波ははばたき駅前に向かっていた。
夕暮れ時、時間としては遅れてはいない。周囲にも浴衣姿を何人も見かけ、自分の姿が浮いていない事に、志波は内心ほっとしていた。これなら相手が浴衣じゃなくても問題はなさそうだ。
大体、花火大会だからってどうして母親のテンションが上がるのだろう。半ば強引に浴衣を着せられた。「がんばって」とは何の声援なのだか。意味が分からない。
突然の電話と突然の誘いに、正直戸惑いは感じた。しかも、あのクラスメイトに。
どういうつもりかと思ったが、行くのは別に構わなかった、というか、話したい事も、ないわけではないのだ。
体育祭の時も、補習で一緒になった時も、彼女の態度は何だかおかしかった。初めはわからなかったが思い出した事がある。春、図書室で会った時の事だ。
野球の事を聞かれ、ついカッとなって本を投げつけた。向こうはこっちの事情など知らないし、彼女にしてみれば世間話程度のつもりだったんだろう。
おまけに、あの体格差だ。怖がらずにいろと言う方が無理かもしれない。
別にどうという事はないが、目が合う度びくつかれるのもあまり気分がいいものではない。丁度良い機会だから誤解だけは解いておこうと思ったのだ。
(それにしても…どうして花火大会なんだ?)
こういうのは、家族以外でなら仲の良い友達同士や、あるいは恋人同士で行くものじゃないだろうか。その辺りあまり詳しくない自分でも普通に考えつく事だ。
もしかしたら、罰ゲーム的なノリなのかもしれないと思いついた。針谷辺りが考え付きそうな事だ。
(…それか)
本当に友達がいないか。
引っ越して来たばかりだと言っていたし、もしかしたらこういうイベント事に誘う友達がいないのかもしれない。
待ち合わせ場所はもうすぐだ。時間はまだある。…ところで彼女はどんな風だっただろう。背が低いくらいしか思い出せない。
まぁ立っていれば向こうが気付くだろう。身長にならいやでも特徴があるのは自覚している。
なるべくわかりやすそうな所を探した。なるべく、目につきやすそうな所だ。引っ越してきたばかりでは地理感覚もあまり期待できない。こんな所で迷われたりしたら厄介だ。
広場になっている真ん中の時計台辺りが空いていた。丁度一人、浴衣姿で立っている。
(……ん?)
志波は視界に入ってきた浴衣姿をもう一度よく確かめた。うす桃色の浴衣に黄色い帯の…それと、あの身長。
視線に気が付いたのか、向こうもこちらに気付いた。そして「あっ!」と声を上げる。その声で、予感は確信に変わった。
「もう来てたのか」
「う、うん。待たせちゃダメだと思って…でも、そしたら思ったより早く着いちゃって」
「…そうか」
まごまごと視線を彷徨わせる彼女を、志波は上から見下ろす(どうしたって身長差でそうなるのだ)。普段は見掛けなかった(と思われる)髪飾りがきらきらと光を反射しているのが見えた。
早く着いた、というよりも彼女は時間を間違っていたんじゃないだろうか。まだ本当の待ち合わせ時間まで20分はある。
「…浴衣」
「え…あっ、うん。は、花火大会だから…良かった、私一人だけじゃなくて…」
「……」
「あっその、周りがって意味で!ね!」
「あぁ…まぁ、そうだな」
慌てて言い直す彼女に、何か言いたいような、言わなければいけない気もしたが、志波は結局それ以上は言わなかった。
何だか、おかしな空気だ。やっぱり、こいつが俺を誘ったのは罰ゲームなんじゃないだろうか。
おどおどして、気を遣っているのが鈍い志波でも嫌でもわかる。
(まぁ…どうでもいいか、そんな事は)
「まだ早いけど、行くか。ここで立ってても仕方ないしな」
「う、うん」
道を作るように連なってある出店を眺めつつ歩く。人はどんどんと多くなってきていた。家族連れやそうではない二人組や、あるいは中学生くらいのコドモの集まりなんかが目の端を流れていく。
騒がしい空気。むうっとした、でも何となく懐かしい空気。空はすっかり暗い。
志波は時々後ろを振り返って一ノ瀬さよを待つ。彼女は歩幅も自分とは全然違うし、何よりあっちこっちぼんやり眺めていたりするので少しの移動にもやたら時間がかかった。
まるでガキだなと、ついため息が零れる。
「おい、もう行くぞ」
「あ…ご、ごめんなさい!」
「花火大会は初めてでも、そんな珍しくもないだろ…こんな出店なんて」
そう言うと、一ノ瀬さよははっとしたように顔をあげて、それから微かに笑った。どこか諦めたような、淋しそうな笑顔。
いや、気のせいかもしれない。暗いから、そんな風に見えたのかもしれない。
「…志波くんは、花火大会来たことあるの?」
「ある。…でも、久しぶりだな」
幼い頃は家族と、それこそ幼馴染の一家も巻き込んで来たし、もう少し大きくなれば仲間同士で来た事もあった。…チームメイトたちと。
去年は来なかった。花火大会なんて気分にはとてもなれなかった。
「……わぁ…」
感心するような声を上げ、一ノ瀬さよはまた立ち止まる。今度は何だと振り返れば、そこには特に特徴もないりんご飴屋があった。
つやつやした飴に包まれたそれが、店頭に所狭しと並べてある。柔らかな灯りをうけて煌めくそれを、一ノ瀬さよはひどく熱心に見ていた。いや、魅入っている、と言った方が正しい。
りんご飴なんてそんなに珍しいかと思ったが、そう声を掛けるのもつい考えるほど彼女は一心に見ていた。ふと視線を移す。彼女の近くにいる小さな女の子がやはり同じようにりんご飴を見上げながら「ほしい」と駄々をこねている。
あれと同じだ。
「…欲しいのか、あれ」
「…えっ」
そう聞くと、彼女は我に返ったようになり、その後に物凄くバツの悪そうな顔をした。やはり、欲しいらしい。
「なら、買えばいいじゃねぇか」
「そ、そうかな。…買っても、いいと思う?」
言葉の意味がわからず、志波は軽く混乱した。別にりんご飴だろうが焼きそばだろうが好きにすればいい。そんな事をいちいち俺に訊いてどうするんだと思う。
「欲しけりゃ買えばいいし、要らないんだったら買わなきゃいい。違うか?」
「う、うん。そうだね……じゃあ、やっぱり、いい」
しょんぼりと俯いてそう言った彼女は、けれどそのくせそこから離れがたいらしく、未練たらしくりんご飴の方を見ている。
先に行こうとした足を止め、志波は一瞬躊躇したが、結局は戻り、「どれがいい?」とりんご飴屋の前に立つ。
「え…えっ?どうして?」
「俺も食いたくなった。…ついでにお前のも頼んでやる」
どれがいい、と聞いたところでりんご飴屋にはりんご飴しかないのだが、とりあえずはそう聞くしかなかった。
別に、こんなもので埋め合わせをしようなどとは思っていない。いい加減苛々したのもあるし、後は、何となくだ。
けれど、「頼んでやる」と言った後の一ノ瀬さよの喜びようを見れば、やはりそう言って良かったのだと思った。何故りんご飴一つでこうも喜ぶのかは知らないが。
彼女は目を輝かせて嬉々としてりんご飴を選び、それを手にした時の嬉しそうな顔と言ったらなかった。店の人に代金を払い、また元の人波に戻る。
「お金、払うよ」と彼女は言ったが、志波は受け取らなかった。これくらいは払えない金額じゃないし、元々そのつもりだったから受け取る気はなかった。
彼女はまだうれしそうにりんご飴を眺めている。まるで、大切な宝物みたいに。
しかし、次の言葉に志波はこけそうになった。彼女は真面目な顔をして「ところで、これって一体どこを食べるの?」と聞いてきたのだ。
「お前…好きで欲しかったんじゃなかったのか?」
「う、ううん。じ、実は初めてで…こういうの、買うの。飴って言うくらいだから甘いんだよね?中のりんごも食べれるの?」
「この、赤いのが飴で、中のりんごはただのりんごだ。食えるし、まぁいらなきゃ食わなくてもいいんじゃないか?」
「へぇ…そっかぁ。志波くん、りんご飴好きなの?よく食べるの?」
「よく、は食べねぇけど…甘いものは嫌いじゃない」
答えながらも、ああそうかとさっきまでの流れに納得がいった。買った事がないから、あれだけ逡巡していたのか。
「えへへ、嬉しいな。…ありがとう、志波くん」
「…あぁ」
はにかんで笑う彼女の顔が、暗がりの中少ない灯りに浮かび上がる。
こういう顔も出来るのかと、そう思った。いつもはおどおどして困ったような、時には泣きそうな顔しか見た事がなかったから。
「…えと、どうかした?」
「…別に。行くぞ」
そう言って歩き出せば、彼女も慌てたように付いて来る気配がした。
(…なんだ?)
さっきから、落ち着かない。うんざりするような、でもそれとは少し違うような、うまく説明できない感覚。
毎年一度ある花火大会を、志波だってそれなりに楽しみにしていた。こうして女子と来た事はなかったし、そういう事にはそれほど興味がなかった(それは今も言えるかもしれないが)けれど、友達同士で来るのは単純に楽しかったと思う。出店の焼きそばも一緒に食べたし、絶対に当たりっこない怪しげなくじ引きだの射的だのに興じてバカみたいに笑った。花火も、何だかんだ言いつつやはり見れば綺麗だと感じていつまでも見ていた。
いつも一緒にいたのは仲間たちだった。「野球」というものが前提にある友達たち。
思えば、自分の生活の何もかもに「野球」が根付いている。練習をするとか、体を鍛えるとか、それ以前の問題だ。それだけではないのだ。
食べるのも、考えるのも、眠るのも、面倒くさい学校の授業も、仲の良かった仲間達も。無関係に見えるそれらは、実のところ少し掘り下げればすぐにそれに行き当たる。
自分の中の何もかもが、関わり合いになるあらゆるものが、結局は「野球」になっていく。
どう足掻いてもそこから抜けられない。知らないフリも忘れたフリも、無駄だった。そんな事は、初めからわかっていたのに。
野球を辞めるだなんて、それを無視して生きていくことなんて、出来ない。
元に戻れるものなら戻りたい。何も考えずに野球が出来た頃に、笑えたあの頃に。
「…結構、凄い人だね…」
「そうだな。…見えそうか」
「うん、大丈夫」
小柄な彼女は、ともすると人の中に紛れてしまって空なんて見えそうにもない。
それじゃ花火も見えないだろうと後ろに立ってスペースを確保してやれば、「ありがとう」と彼女は嬉しそうに笑った。
(…あぁ、そうか)
どうしてこうも落ち着かなくなるのか、志波はわかった気がした。
彼女の笑顔、いや、それだけではなくて。もっと全体的に、存在全部と言ってもいい。
思い出させる。あの気安さ。そして近しさ。構える必要もない空気、間柄。
同じものを目指す気持ち、そこから生まれる安心感。今までは当たり前のようにあり、そして突然に離れていってしまったもの。
彼女の持つ空気そのものが、何故かそれを志波に思い出させる。
ここしばらく、誰にもこんな風に接してこられる事はなかった。例えばあの馴れ馴れしい態度の針谷にしても、こうはならない。アイツは気安く見えてそういう事は慎重なヤツだ。決して測り間違えたりしない。
一ノ瀬さよは、志波にとってはとても唐突だった。うまく言えないけれど、彼女は距離感が無い。おどおどしているくせに、自分を怖がってさえいるのに、そのくせ突然何よりも身近なところにいるような、その場所へ簡単に辿り着かれてしまうような、そんな近さに戸惑う。
ひどく懐かしくて、少し痛みを感じる。今はまだ。
「…楽しそうだな」
「え?そ、そう?」
「あぁ。さっきから口、開いてるぞ」
「うぇっ…」
慌ててきゅっと口を閉じる一ノ瀬さよに、志波は少しだけ笑う。りんご飴の一件から彼女が妙に構える事は無くなったが、それにしてもやはり一言謝らなければいけない。
いつ言おうか、ずっと考えていた。
「…悪かった」
「へ?何が?」
「…図書室で。びっくりしたろ。…あれは、どう考えても俺が悪かった」
一瞬、彼女の顔から表情が消える。けれどすぐにぶんぶんと勢いよく首を振った、取れそうなくらい。
「志波くんは悪くないよ!わ、私が、何も考えずにヘンな事聞いて…」
「野球、…やめたんだ」
「え…」
「でも、それはお前には関係ないのに。…ごめんな」
大きな音と共に、一つ目の花火があがる。きらきらと、たくさんの光が夜空に消えていく。
彼女は何も言わなかった。自分も黙って夜空を見上げていた。今まで一度も口にしなかった言葉を、何故彼女に言ったのか自分でもわからなかった。
次の花火の打ちあがる音が、真っ暗な空に響く。
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