(…んーむ)

コッチコッチと静まり返る部屋の中に時計の針の音が響く。もうどれくらいの時間こうしているかわからない。
右手にあるのは携帯電話、左手にあるのは一枚のメモ。私にとっては何よりも重要なモノ。

話は少し遡る。

野球部の先輩たちのお陰で私はそれから補習を免除されて部活動に戻ったわけだけれど。
……正直、あのまま補習を受けている方が、ずっとずっとずっとずうううううっと、楽だった。
それくらい柏木先輩の「補習」は厳しくて(おまけに部活は部活で別にちゃんと作業があった。どんな風にして過ごしていたかもうあまり記憶が無い)、若王子先生の名前を泣きながら呼んでいた。
でも、お蔭で何だか勉強出来るようになったみたい。補習の分だけじゃなくて勉強の仕方も教えてもらったからこれから補習は受けずに済みそうだ。(というよりもそんな点数を取ってまた補習されるなんて絶対に御免だ、先輩には悪いけど)

「さーよちゃん」

部活終了後、その日柏木先輩に出された課題を半べそかきながらやっていた私に、ひょっこり顔を見せてくれたのは倉田先輩だった。ふんわり笑顔に癒される。

「えらーい。ちゃんと頑張ってるんだねぇ」
「…か、柏木先輩は…?」
「祥子ちゃんは先生や先輩達とミーティング。立川くんも、今はそっちにいるから」
「あの、すみません。メーワクかけちゃって…」

私が抜ける分は先輩達がフォローしてくれているのが申し訳なくてそう言ったのだけれど、倉田先輩は「どうして?」と小さく首を傾げた。

「さよちゃんは頑張ってるよ?マネージャーの仕事だってちゃんとやってくれてるし…それにね、祥子ちゃんはさよちゃんがお気に入りなの」
「え…え?柏木先輩が?」

そうかなぁ。今回の補習もだけど、普段も怒られてばっかな気がするけど。
倉田先輩は、ふふふと笑う。ゆるく三つ編みにしてる髪が少しだけ揺れた。

「だって、そうでなきゃわざわざ先生の代わりに補習をするだなんて言わないもの。…さよちゃん、いつも最後まで残って仕事してくれるでしょう?わからない事はメモしたり…私たち、ちゃんと知ってるよ?」
「そ、それは…だって、私、時間がかかるし、メモしないと覚えられないし…もっと効率良く出来たらなぁっていつも思うんですけど」

昔からそうだった。何をやっても人より時間がかかる私。うまくいかない私。小学校の頃、みんなちゃんと芽が出た球根は、私だけ芽が出なかった。
給食も、掃除時間になってもまだ食べていた。さかあがりも結局出来ずじまいだった。
だから、なるべく迷惑がかからないようにと思ってそうするのは、もう癖だ。…勉強は、そこまで気が回らなかったけど。

不意に、頭の上にあたたかなものが触れる。さらさらと動くそれは、倉田先輩の手だった。
…うわぁ、ダメ。こんな風にされたら泣きそうになっちゃうよ。
思わず胸がじーんとなる私に、倉田先輩はにっこりと微笑みかけた。

「…と、いうわけで。いつも頑張るかわいい後輩のさよちゃんに、ささやかながらプレゼントです」

そう言って、差し出された一枚のメモ。そこには11桁の数字と、…メールアドレス?誰かの連絡先らしい。

「……あ、あの、これって…?」
「うん。これね、志波くんの携帯番号とメールアドレス」
「………………え」

え、何か今…凄くカンタンに事もなげに言われたけど………え?

「え?あの…え?志波くんて…あのしばくん?」
「そう、さよちゃんの好きなあの志波くんです」
「ええーーーーーーーー!!!?」

思わず、座っていたからイスから立ちあがってしまった。飛び上がる勢いだ。
ひらひらとメモを摘まんだままの倉田先輩は不思議そうに私を見てる。

「あれ?いらなかった?」
「えっ!そ、そんな事はないです!…で、でも、どうして倉田先輩が志波くんの…」
「えへへ、それはヒミツです…少し種明かしすると、正確には私じゃなくて立川くんが知っていたんだけど」
「は、はぁ…」

立川先輩って……ホント、よくわからないなぁ。
でも、せっかくの先輩からの好意だし、何より、し、志波くんの連絡先だしっ。と思って手を伸ばすと、今度はひょいと避けられた。

「え?え?」
「…で、これは立川くんからの伝言なんだけど、ただあげるわけにはいかないんだって」
「ど、どういう事ですか?」
「来月、第一日曜日に、羽ばたき市では花火大会があります。知ってた?」
「へ?そうなんですか?知らなかったぁ」

花火かぁ、いいなぁ見てみたいなぁ、なんて暢気な事を考えていたら。
倉田先輩はのんびりした口調でトンデモナイ事を言った。

「と、いうわけで、志波くんを花火大会に誘って、レッツラブラブ花火デートだぜ!…だって」
「ら、らぶらぶ花火デートぉ…!?」



という経緯で、今に至るわけだけど。
もう少し詳しく話をすると、これは立川先輩の「心遣い」なんだそうだ。つまり、志波くんと中々仲良くできない私の為にという。
ありがたいんだか何だかよくわからない。しかももしも行かない(行けない)場合は「柏木先輩とのお勉強デート」が待っているらしい。それはそれで全力で遠慮したい。

(どうしてこんな追い詰められてるんだろう、私…)

でも、もう一週間前だしさすがに電話しないと志波くんも予定が入っちゃうかも。予定、というか一緒に行ってくれるかどうかが問題なんだけれど。

「……〜〜〜っ、わぁん!無理!無理だよ絶対!」

ケータイをベッドの上に投げ出して、べたりと床に張り付いた。視線の先には志波くんの連絡先が記してあるメモ。

軽くおさらいすると。
まず、志波くんは私の名前も憶えているかどうかアヤシイ。
そして、図書室で会った時には「もう話しかけるな」と言われた。仲良くなる前に嫌われてしまった。
体育祭の時もロクに話が出来なかった。志波くんはずっと面倒臭そうだった。
試験の結果発表の時はバカだと思われた(と思う。たぶん)
補習の時も、ハリーと煩くして睨まれた。

…無理だ。考えれば考えるほど希望が見えない。例えば私だって、そんな風に煩かったりキライな男の子と出掛けたいとは思わないもの。

(…でも、行けるなら行きたいな)

花火大会。引っ越して来たばかりだから全然知らないけれど凄く楽しそう。
そういう所に志波くんと行けるなら、行ってみたいな。

「……ダメで元々だよね」

どうせ好印象じゃないんだから、断られて普通だと思っておけばいい…ちょっと、悲しいけど。
起き上がって、放り出した携帯電話をもう一度手にして、番号を押した。何度も押しては止めていたから、番号はもう憶えてしまった。
あ、緊張してきた。背中に変な汗かいてる。

(…あーもーどうにでもなれ!)

半分自棄になって通話ボタンを押した。押してしまった。
心臓がすごく早く動いて血液がどんどん頭に回ってる気がする。何だか目の前がぐるぐるしてきた。
どうしよう、留守電だったりしたら。それはそれでほっとするような困るような…わからない。
3コール程でぷつりとコール音が途絶えた。一瞬後に「志波です」の低い声。

(うっ…うわああぁ…)

志波くんだ志波くんだ志波くんの声だ。
どうしよう、何言えばいいんだろう。わからない、もう電話を切ってしまいたい。
一人であわあわしていると、もう一度不審そうな声で「…もしもし?」と聞こえてはっとなる。こ、これじゃイタズラ電話になっちゃう!

「あっ、あのっ!こんにちわ!」
「……?」
「あの、い、一ノ瀬さよ、です…」
「いちのせ…?あぁ」

…やっぱり、あんまり憶えがないのかな…。「あの、同じクラスの一ノ瀬さよです」と一応繰り返して言うと「知ってる」と憮然とした答えが返ってきた。

「…で、何だ?」
「へ?」
「用事があってかけてきたんだろ。早くしろ」

相変わらずぶっきらぼうな声に、先行き不安になる。こんなので本当に花火大会に行こう、なんて言えるのかな…。
でも、余計な世間話をしても怒られそうだから、ここは用件だけ話そう、うん。

「あ、あの…志波くん、ら、来週の日曜日は、暇、ですか…?」
「…なんだ?」

(うわぁダメ、こわい!)

唸るように言う声に、びくりと肩が竦む。もう、早く話して断られちゃおう!もう身が持たない!

「あのっ、来週の日曜日、よかったら一緒に花火大会に行きませんかっ!?」
「…花火大会?」
「そ、そうだよね、無理だよね、ごめんなさ…!」

やっぱり無理なんだ!無理に決まってるよごめんなさいっと思って、謝ってさっさと電話を切ってしまおうとしたら「おい待て」と声が聞こえてきた。

「…え?な、何…」
「誰も、無理だなんて行ってないだろ。…ヒマだから付き合う」
「え……」

うそ。今、なんて?つきあうって…一緒に行ってくれるってこと?
呆けて声の出ない私に「おい聞いてるのか」とまた志波くんの不機嫌そうな声が聞こえてきた。

「待ち合わせの場所、決めなきゃ困るだろ。どこに行けばいい?」
「え!え、えっとえっと…あの、志波くん、本当に行ってくれるの?」
「…お前が一緒にって言ったんだろ」
「そ、そうだよ、ね。そうです、うん。…ところで花火大会って何処でやってるの?」
「はぁ?」

思いきり呆れた声に、慌ててごめんなさいっ、と謝る。

「あの、あの!わ、わたし引っ越して来たばっかりだから、ば、場所とか知らなくて…ごめんなさい、私から誘ったのに…!」
「…じゃあ、はばたき駅の前で。場所、わかるよな?」
「う、うん。そこなら絶対!」

ため息交じりに「それじゃあ」と言った志波くんを「あの!」と引き留める。
どうしようどうしよう、すごく嬉しい。来週、花火大会に志波くんと一緒に行けるんだ!

「…何だ?まだ何か用か?」
「あの、ありがとう、一緒に行ってくれて!」
「……いや、別に」
「引き留めてごめんなさい!それじゃあ来週!」

電話を切ってからも何だかふわふわしてた。まだドキドキしてるけど、嬉しすぎて大声で叫びたい気分。
きっとありがとうなんて言ったから志波くん変に思ってるだろうなと、ちらりと思ったけれど、そんなのもうどうでもいい。





手帳を取り出して、8月のページを開く。
一番最初の日曜日のところを、ピンクのサインペンで大きく丸を付けた。
























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