「定期試験の結果、出たみたいだよ!」
どこからか聞こえた声に、ふと足が止まる。
7月。まだ少し残る梅雨の気配も今日はどこかに隠れてるみたいだ。空が、澄んだ水色で眩しい。
(試験かぁ…)
正直なところ、あんまり自信がない。元々勉強は得意じゃないし、何よりも野球部の活動がいよいよ忙しくなってきて授業をきちんと受けるだけで精いっぱいだった。
そんなわけで、出来れば真ん中ぐらいだったらいいな…というのが希望、なんだけど。
貼り出されている掲示板の前まで近付いて、上から順に見ていく。1番は氷上くんだ、凄いなぁ…あいさつ運動を頑張っているだけの事はあるなぁ。
あとは、小野田さん…佐伯くん…あ、水島さん。それにしても…ないなぁ。水島さんの名前を確認してから大分下がって、それでもまだ見つからない。もう半分くらいだと思うんだけどな。
(えぇっと…100番、150番…180番………え、うそ)
じわりと、背中に汗が滲む。え、もしかして私、自分の名前見忘れてる?やだなぁ、暑いからっていくらなんでもボンヤリしすぎだよね、ははは。
慌てて、少し目線を戻して、今度は集中して丹念に見ていく。まばたきだってするのを我慢するくらい。
でも………ない。どれだけ見ても、ない。
(ま、ままままさか…!)
信じられない。信じたくない。だって!け、結構、技術は出来たと思うのに…!
「っげぇ!マジかよ!カン冴えまくってたはずなのに!」
すぐ後ろで聴こえる良く響く声。針谷くん…じゃないハリーだ。ハリーとは音楽室で会って以来時々話をする。
それにしてもカンって。ハリーってばテストを何だと思ってるんだろう、まったく。ひょいと首を持ち上げてハリーの方を振り返る。赤いツンツンの髪が今日も目立ってた。
「ハリー、試験ダメだったの?」
「あぁ?なんだ、オマエか。うっせぇな、くそ、完ペキだと思ったのによー。補習ってマジか。くそー!」
「あのねぇハリー。カンなんかでテストで良い点取れるわけないでしょ?それは仕方無いよ」
私は至極真面目に言ったんだけど、ハリーは私の顔を見て呆れるような顔をした。
「…オイ、良く見てみろよ。”カンなんか”でテスト受けた俺より順位悪ぃぞ、オマエ」
「え。……う、うそっ!」
「嘘じゃねぇ!おら、その節穴の目、皿のようにしてよっく見ろ!」
「………う、うそだもん。アレワタシノナマエジャナイ…」
「…現実を受け入れろ。一ノ瀬さよって、お前の名前だろうが!観念しやがれ!」
「うわーーーん、やだぁーーーー!!」
赤点だらけのハリーの順位のすぐ下に、更に酷い点数が並んでいる横に…私の名前が、あった。
あまりのショックに動けないでいる私の後ろで、ハリーは暢気に「おう、志波!」なんて声をかけている。
「お前も補習仲間だなー、よろしくな!」
「…あまり嬉しくはないがな」
いつの間にいたのか、志波くんは掲示板に向けていた視線をふと私たちに向けて一言「……悲惨だな」と言って去って行った。
「…おい、さよ?何、固まってんだ?」
「ひ、ひさんって、言われた…ばかって思われた…ぜったい…」
「いや、思われるも何もホントにバカだろ?オレら。つか、志波もヒサンだって、なぁ?」
「わーーん、ハリーと一緒にしないでよぉ!」
「何おぅ!?お前のが成績悪いっての!つか、オレだけかよ!」
そんな事があって、一学期最後の一週間。じわじわと鳴く蝉の声を聞きながら、私(と志波くんとハリー)は若王子先生の補習プリントとにらめっこしていた。
若王子先生は今は別の用事で教室にはいない。私たちは各自無規則に座って課題をしているはず…だったんだけど。ハリーは全然やる気が無いし、志波くんもぼんやりとグラウンドの方を見てばかりだ。がらんとした教室は、それでもやっぱり蒸し暑い。
「あー…あっちぃなー。何でこんな日に学校来なきゃいけねぇんだか」
「…だって、補習だもん」
「ジュース飲みてぇなー…、さよ、飲みたくね?つか、買ってこい」
「なんで!?ハリーが自分で行きなよ!」
「それがメンドイからお前に頼んでんだろーが!察しろ!な、志波も喉乾いたよな!」
物凄い無茶苦茶な理由を言うハリーに、志波くんはやっとこちらに顔を向けて「俺は要らない」とだけ言った。
要らないから話しかけるな、というニュアンスがびしびし伝わってきて、私はそれだけでも縮みそうになるんだけど、ハリーは全然気にしてない風だった。
「なぁんだ、言えばコイツ買ってきてくれるぜ?なんつってもマネージャーだし」
「行かないよ!そ、それに、マネージャーなのは関係無いし…ハリーのマネージャーじゃないもん!」
「あったりまえだろ!お前みたいなドジっ子、オレさまのマネージャーは務まらねぇ!」
「うぅ…」
マネージャー、という単語に、志波くんは微かに反応してこちらを見た。何か言いたげな、不機嫌そうな顔。それだけで、心臓が冷える。
で、でも、これはアクマで会話の流れであって、しかも言いだしたのはハリーだから私は悪くない…はず。
でも謝ったほうが、いいかな?補習なのにうるさくしているのは本当だし。(主にハリーだけど)
ごめんね、と口を開きかけたその時。教室の扉が勢いよく開かれた。
「よぉ、さよすけ!ここにいたのか!」
「…貴女、こんなところで何してるの?」
「せ、せんぱいたち!」
そこに立っていたのは野球部のユニフォームのままの立川先輩と、ジャージ姿の柏木先輩。ちなみに、柏木先輩は…微妙に怒ってそう。
遠慮なくどやどやと入ってくる先輩たちに、私は声も出ない。ハリーが横で、ぶはっと吹き出した。
「何だよ、オマエさよすけって呼ばれてんの?マジ受けるんだけど!うはは!」
「うっ、うるさいなぁ!だって仕方ないじゃない!先輩なんだから!」
そんな風に言い合っていると、立川先輩は机の上のプリントを取り上げ、しげしげと眺める。
「何だ、部活に出てこないからナニしてたのかと思えば…」
「補習、ね。これは。…一ノ瀬さん、貴女補習を受けるほど成績が悪かったの?計算外だわ」
「うっ…」
「かわいそーになー、さよすけ。アホの子だったとは…っ、あ、目の前が霞んできた、カワイソすぎて」
「な、何ですかー!もう!立川先輩まで!」
柏木先輩に言われるのはともかく、立川先輩にまでそんな風に言われるのは納得いかない。
思わず反論すると、立川先輩は「残念でした!」と笑った。
「俺ってばカッコ良くて野球が出来るだけでなく成績もいいというパーペキな男だからな!おっと、惚れちゃダメだぜ?俺の心はもうとっくにハントされ」
「ゴタクは結構。そういうわけで私にとっても信じがたい事実だけれど彼は成績に関しては問題無いの」
得意気に言う立川先輩を遮って、柏木先輩は何故か苦虫を噛み潰したみたいな顔でそう言った。
…むむぅ、立川先輩が成績が良いっていうのは確かにちょっとショックだ。
そこへ、からりとドアが開いて若王子先生が帰ってきた。先生は先輩たちを見て「おや」と少し目を見開く。
「これはこれは、立川くんに柏木さんこんにちは」
「こんにちは若ちゃん。うちの後輩がお世話になってます!」
「後輩?…あぁ一ノ瀬さん、野球部でしたもんね?」
にこりと顔を綻ばす若王子先生に、柏木先輩が一歩前に進み出る。フレームのない眼鏡をカチリと直した。
「早速ですけど若王子先生。彼女にも部活に参加してほしいのでこのまま連れて行ってもいいでしょうか。私たちも彼女に来てもらわないと色々と困るんです」
「ほぉ。一ノ瀬さん、マネージャー頑張ってるんですねぇ、エライです。柏木さんがこんな風に言う事ってあんまりないんですよ?ね?」
「いーなぁ、さよすけ!しょーこちゃんに誉めてもらっていーなぁ!俺も誉められたい!」
「ちょ、ちょっと!そんな事は今はどうでもいいんです!今は、一ノ瀬さんの話でしょう!?」
茶々を入れる立川先輩を睨みつけた後、咳ばらいをして柏木先輩はもう一度若王子先生に向き直った。先輩が赤くなったところなんて初めて見たよ。
若王子先生は「ふぅむ」と顎に手をやりながら私の補習プリントを覗き込む。
「でもねぇ、補習も受けてもらわないと…僕も一応先生ですから、はいどうぞと言うわけにもねぇ…」
そう言って言葉を濁す先生に、先輩は「大丈夫です」と淀みなく答えた。
「彼女の勉強なら私がみます。一年の範囲なら説明できますし…もう二度と補習なんて受けさせるような事はないようにします」
そう言った柏木先輩を、若王子先生と立川先輩がぎょっとした顔で見直した。それから恐る恐る私の顔を見比べる。
「ま、まぁ君がみてくれるなら心配ありませんが…大丈夫かな?一ノ瀬さん、がんばれる?」
「え?えっ…どう言う意味ですか?」
「さよすけ、やめとけ!お前には無理だ!精神崩壊するぞ!カタルシスだぞ!」
「黙りなさい。貴方、このまま一ノ瀬さんにのんべんだらりと補習を受けさせるつもり?そんな時間、彼女にも野球部にもないわよ」
「そ、そりゃ来てほしいけど…い、いやでも…」
言い淀む立川先輩を無視して、柏木先輩は私の方を見た。
「…さぁ、これで話は決まり。…久々に教えがいありそうで楽しみだわ」
「…許せ、さよすけ。何にも出来ない俺だけど、泣きたい時は胸くらい貸してやるからな…!」
艶然と微笑む柏木先輩と、「だから俺を恨むなよ!」と喚く先輩を、私はただただ茫然と見ていることしか出来なかった。。
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