そこはとても暗くてつめたい。
そんな場所に、あの人は立っている。
何も言わずに、どこも見ずに。
呼んでも、手を伸ばしても届かない。
届かない。
おさなごは笑う
海野あかりが倒れたと聞いたのは、担当である化学の授業を終え、職員室に戻ってきた時だった。
聞いた瞬間、とにかく彼女に会わなければいけないと保健室に駆け込む。それは正しく「駆け込む」で、力任せに開けたドアの勢いに、保健医の先生が驚いたほどだった。
「海野さんは無事ですか!?」
掴みかかるような勢いで尋ねる姿に、保健医の方もまずは落ち着いてくださいと、やんわり彼を押しとどめる。
「貧血のようです。心配するような事は何もないと思いますけど…今は奥で眠っています」
保健医の口調から言って、どうやら大事ないらしい。
そこでやっと彼は大きく息をついた。張りつめていたものが緩む。固く握りしめていたらしい拳をゆるゆると開くと、それがじっとりと汗ばんでいるのが見てわかった。
「彼女を連れてきてくれたのは男子生徒ですけど…彼は授業があるので教室に帰しました。廊下で、フラフラしていたらしくって…、若王子先生?」
「…え。や、はい、すみません。安心したら少しぼんやりしてしまいました」
ぺこりと頭を下げる彼に保健医はくすりと笑った。
「若王子先生は生徒思いなんですね、あんまり慌てて飛び込んでいらっしゃるからびっくりしました」
「いえ…それほどでも」
それは彼女だからです、という言葉は飲み込み、曖昧に微笑んで返す。奥のベッドの方へ視線を移すと、白いシーツと掛布の中で横たわる彼女の姿を見た。
「私はしばらく外しますので、先生よろしくお願いしますね」と言って保健医は出て行き、彼は保健室に残される。誰もいなくなり、彼はあらためて大きく息を吐き出した。
授業時間中の学校はとても静かだった。グラウンドの方から聞こえるホイッスルや生徒達の歓声が時々聞こえてくるくらい。
今日はもう担当の授業はない。帰りのホームルームまでは彼女の傍にいられる、と近くの椅子に腰かける。妙な脱力感が体に残っていた。
「生徒思い」だと言われた事がふと頭に浮かび、しかし彼は皮肉気に口元を歪ませる。
生徒思い。僕の本心を知って、彼女はそれをもう一度言えるだろうか。
僕の本心。果たしてそんなものはあるのだろうか。心だなんて不確かで非現実的なものを、なぜ自分が持っていると言えるのだろう。
数字ばかり追いかけてきた、心なんてものからは掛け離れた生活をしていた、この僕が。
「…………っ、ん」
「海野さん?目が覚めましたか?」
しゅる、とシーツの擦れる音が聞こえ、慌てて彼はあかりの居るベッドに駆け寄る。
「……若王子、先生?」
「そうです。海野さん、気分はどうですか?まだ寝てていいんですよ」
ゆっくりとこちらを見る彼女の顔色を見て、とりあえずは悪い状態でない事を知りほっとする。彼女が目を覚まして、こうして自分を見てくれて初めて心の底から安心できた気がした。
「せん、せい…」
「はい、どうし…え?ちょっ…」
はじめは寝ぼけていたのか、ぼんやりと彼の顔を見ていたあかりだったが、その顔はそのうちにくしゃりと歪み、その両目からはぼたぼたと涙をこぼれる。そしてそのうちに嗚咽をあげて泣き始めた。
(ど、どうしたんだろう、急に…)
それは全く予期していなかった事なので、彼は大いに動揺し、戸惑った。それでなくても彼女に対してはどうしていいかわからないの
周りの生徒たちとは違う。いや、違わないが、同じでもない。
もっと知ってほしい、けれど、知られたくない。知られてはいけない。
彼女に対しては何故だか色々な気持ちが溢れて、だから、どうしていいかわからなくなる。しかも泣かれるだなんて、もう自分の許容範囲をとっくに超えてしまっている。
数式相手なら表情一つ動かさずに対処できるのに、こんな子供が一人泣いただけでこんなにも動揺するだなんて、滑稽すぎて笑えもしない。
とにかく、ここは早く泣きやんでもらいたい。彼はいかにも「先生らしく」落ち着いたフリをして出来るだけ優しく穏やかに声をかける。
「うっ、えっ…」
「どうしたのかな。もしかして怖い夢でも見た?」
「ゆ…っ、め…。…ぃっく、せ……がっ…うぅ…」
「…とりあえず、少し落ち着こう、ね?ええと、ほら、ゆっくり」
深呼吸して、と最後まで言う事は出来なかった。
首に、しっかりと回される、というよりはしがみつく腕。
嗚咽は耳元で聞こえる。
涙が首筋に伝う。
(子供なのに)
子供なのに結構強い力だなと、彼は抱きついて泣きじゃくる彼女を支えながらぼんやりと思う。
目の前で泣かれた時よりも、さらに慌てるべきこの状況で、しかし、彼は落ち着いていた。心地が良いとさえ思った。
しめった空気、日向の匂い。
甘やかなこどもの気配。
いまだ泣きやまない彼女の背をあやすように軽くたたく。
「…大丈夫。ほら、先生ここにいるから。もう怖くないでしょう?」
「…かないで」
「ん?」
「どこにも行っちゃやだ」
涙声で、けれどはっきりと彼女はそう言った。その言葉に、どきり、と心臓が反応する。
「せん、せいが、どこかに行っちゃう、夢を見た、んです。…行かないでって、言ったけど、ど、どんどん、遠くに行っちゃって…」
ぎゅう、と首に回る腕に力がこもる。
「こわ、かった。すごく」
「…心配ない。行かないよ、どこにも」
(行けるものか)
もうどこにも行けないよ。君の傍より大事な場所、僕にはもう見つけられないだろうから。
「こぉんな泣き虫さん、置いていけませんよ。また泣いちゃうでしょう?」
冗談めかして言うと、やっと肩越しから、えへへ、と笑い声がする。
「ごめんなさい。泣いたら先生困りますよね?」
「困る、というか…そりゃあ、笑ってくれる方が先生は嬉しいです」
「…じゃあ、笑います。それで先生を探します」
「…さがす?」
「もし先生がどこかに行っちゃっても探して、見つけて、笑って迎えに行きます」
「……」
ね、いい考えですよね?と尋ねる彼女に、けれど彼は何も答えられなかった。
うまく、声が出ない。
(君は、本当に)
こんなに小さくて頼りなくて、倒れたりして心配ばかりかけて、泣きじゃくって抱きついて。
まるで子供なのに、どうしてこんなにも簡単に僕を救いあげるんだろう。
誰にも、僕自身ですらどうしようもなかったのに。
先生、もう離してくれていいですよ、という彼女の声はもうしばらく聞こえないフリをする。
きちんと、笑って向き合えるようになるまで、もうあと少し。