ある時から、びすたは「OSメイド」ではなくなりました。そして、OSメイドでなくなってからもご主人さまと一緒に暮らしています。
もうメイドじゃない、とは言われたものの、ご主人さまは物書きのお仕事以外はやっぱり出来なくて、だから、びすたがお家ですることは以前とほとんど変わりません。お料理にお洗濯にお掃除に…、結局、ご主人さまを「ご主人さま」と呼ぶのもそのままです。それに関しては、実はご主人さまはご不満なようなのですけど…、実は中々呼べなくて困っています。呼ぼうと思うと何故か胸がドキドキしたりして、どうしても言えなくなってしまうのです。
…話が逸れました。つまり、びすたは「メイド」ではないけれども、仕事はメイドの仕事を続けているという事で…変わったけれど変わらない生活を送っているというわけです。
今回の話は、そんな時に起こったとある事件のお話。
びすたちゃんの出張
「…出張?」
「はい、そうなんです」
今朝の朝食のメニューは、イングリッシュ・ブレックファースト風。カリカリに焼いたベーコンと、目玉焼き。ボイルしたソーセージにマッシュルームのソテー。焼きトマト、ビーンズ。トーストはちょっと焦げ目が付くくらいの焼き加減。ヨーグルトにはブルーベリージャムを添えて、あと、温めておいたティーカップには香り高い紅茶を注ぎます。
いつもなら一言二言誉めてくださるのですけど、今朝のご主人さまは、眉間に皺を寄せて憮然とした顔でびすたのことを睨まれていました。
「あのぉ…何か、お口に合わないものでも?」
「いや、メシは美味い。…そうじゃなくて、さっきの話だ。出張?どこの誰の話だよ」
紅茶を一口飲んで、カップをソーサーに置いてから、「まさか」とご主人さまは仰いました。…物凄く不機嫌な声で。
「まさか、お前がどっか出張に行くって話じゃないだろうな?」
「…うぅ…」
やっぱり、思った通りの反応でした。どう言っても「ダメだ!」と怒鳴られそうな気がして何も言えないびすたを、ご主人さまは変わらずじっとりと睨まれていて…あわわ、どうしたらいいかしら。
しばらく無言の時間が続いて、けれど、それを破ったのはご主人さまの方でした。「…仕方ねぇな」と深々と溜息をついて。
「…え?じゃあ…」
「言っただろ?お前はもうメイドじゃねぇんだ。だから、お前がやりたいと思う事を俺が無理に止めさせる権利はねぇ。…クソ忌々しいことに変わりはないが」
「…はい」
…ち、違うんです。これは怒ってらっしゃるんじゃなくて心配して下さっているんです。…ご主人さま独特の表現ですけど。
ご主人さまは、音を立てずに食器を操りながら、食事を進めていきます。特にお作法を習ったこともないそうですけど、ご主人さまはいつでも綺麗にお食事をされるのです。
「お前を俺から借りようなんざ…一体どんな奴なんだ?若い女が好きな、エロハゲオヤジとかじゃないだろうな?」
「違います。実はびすたもお会いしたことはないのですけど…女性の方です。会社に勤めていらっしゃる方だそうです」
「かいしゃ?職種は?」
「そこまでは…、ただ、最近とってもお忙しくて、家事まで手が回らない程で…短期でいいから手伝ってくれる人を探してるって担当さんに相談があったそうで…」
「担当?…それは俺の担当の事か?」
「はい、そうです」
ご主人さまはお仕事が「物書き」なのですが、その担当さんが、実は今回びすたに「出張」のお話を持ってきてくれたのでした。友達が困っているから助けて欲しい。そう頼まれたら誰だって力になりたいと思いますよね?
何より、担当さんはご主人さまのお友達でいらっしゃるので、それもあってびすたはこのお仕事を引き受けたかったんです。
けれども、担当さんの名前が出たとたん、またもやご主人様は深々と眉を顰めたのでした。
「あのハッピー野郎め…余計なことを」
「何か仰いましたか?」
「いや何でも。…しかし、一般職の独身女がお前を雇えるのかよ?実家が金持ちなのか?」
「今回はボランティアなのでお金は頂きませんよ?」
「はぁ!?ボランティアだと!?」
がしゃん!と、食器達が耳障りの音を一瞬だけ奏でて、その後には「ちっ」とご主人さまの舌打ちが鳴りました。…不機嫌な時によくされるご主人さまの癖。
ご主人さまが驚かれるのにはもちろん理由があります。「OSメイド」を雇う時に発生する料金は、元々一般家庭向けには設定されておりません。…つまり、それだけの金額を用意できるお宅にだけ派遣されるというわけです。(おまけに当時びすたは「新型」だったので、その中でも一等高額だった…と、それは後でご主人さまに伺って知ったのですが…)ですので本来、一般的なお家でびすたが仕事をするというのは例外的な話ではあります。…OSメイドであったなら。
「でも、ご主人さま」
冷めた紅茶を淹れなおしながら、ご主人さまに笑顔を向けます。皮肉とかではなく、本当に嬉しくなってしまう言葉なのです。
「びすた、もうメイドじゃありませんものね?だから、お金を頂かずにお仕事したっておかしくありませんよ?」
メイドじゃなくなっても、ここに居てもいい。ご主人さま、そう言ってくれましたよね。
ところが、そんなびすたにご主人さまは、「フン」と冷たい一瞥をくれたのでした。
「バカが。それとこれとは話が別だ」
「ふぇっ!?ど、どうしてですか!?」
きっぱりとびすたの言葉を撥ね退けて、そろばんでも持ち出しそうな勢いでご主人さまは更に言葉を続けます。
「いいか?この俺から、お前を借りようっていうんだぞ?お前の仕事云々でなく、俺への迷惑料として、料金が発生するに決まっているだろうが!それをタダでレンタルなんざ、ど厚かましいにも程がある!」
「はうぅ…そ、そんな、いいんですよぉ!びすたが要りませんって言ったんですから!」
「お前が要らなくても俺は要るんだよ!…まぁいい、アイツからふんだくってやるからな。…お前はきっちり仕事して来い」
…担当さんゴメンナサイ。と、心の中で謝ったのは、ご主人さまには内緒です。
「…ほんっとうに助かりました!ありがとうー!お金も払ってないのにこんなにしてもらっちゃって…!」
「いいえ、そう言って頂けるだけで充分です!」
数日後、担当さんから紹介された女性のところで、一週間程お仕事をしました。掃除も洗濯も手が付けられない程忙しい、と聞いていましたけど、予想よりもきちんとされていたし、何より注文だってほとんど無かったし、とっても優しい方だったので少しも苦労はありませんでした。…もちろん、どんな注文にも完璧に対応するのが「元メイド」の意地というものですけれど!
それにしても、やっぱり働いて、感謝して頂くのは嬉しいことです。こういう気持ちはメイドであった頃からと変わらないのかもしれません。
ごく普通の一人暮らし向けマンションの、そしてごくごく一般的なダイニングで「最後だから」と淹れて下さったお茶を飲みながら、ぼんやりご主人さまの事を考えていました。お仕事の間は他の事を考えません。でも、こうして何もしないでいい時間があると、いつも、どうしても心の中に浮かんでくるんです。
一週間。
こんなにも離れていたのは初めてだし、何よりもお家にご主人さまを一人で残してきたという事が気になって仕方ありませんでした。だって、ご主人さまはこの女の人と違って、お料理もお掃除もお洗濯も、丸っきり出来ないんですもの。
もちろん、料理も作り置きして、冷凍保存してきたし、掃除機の使い方、洗濯機の使い方、もし駄目ならクリーニング屋さんへお電話する時の電話番号、出前の取り方、珈琲の淹れ方…全部メモに書いて置いてきたから大丈夫。そう何度も自分に言い聞かせているのですけれど。
「あの…すみません。一応、お約束の日は今日までですし…、そろそろ失礼しようと思います」
あぁ、だめ。こんなつっけんどんな言い方をするつもりはなかったのに。でも、心配な気持ちが止まらなくて、早く早くと駆り立てる。
早く、あのひとのところへ帰らなきゃ。
女の人は、特に気を悪くされる事もなく、丁寧にびすたを送り出してくれました。「今度は遊びに来てね」と言って下さったので、いつかご主人さまと一緒にお伺いしようと思います。
ぴょこんとお辞儀をして、それから彼女がお家の中に戻るのを見届けてから、走りだします。サンダルを履いていて足元がちょっと覚束ないけれど、たぶん、大丈夫。
帰らなくちゃ、帰りたい。そんな気持ちがぐるぐると体の中を駆け廻っていました。早く帰りたい。あの人の待っているお家に。
「ただいま帰りまし…けほっ!」
はぁはぁと息を切らせながら玄関を開けると、もぁっと煙草の煙の匂い。ううぅ、目に染みそうです…。
玄関はともかく、郵便受けには新聞も郵便物も溜まり放題。入りきらなくてあちこちに散らばったままになっています。
一週間分の新聞と郵便物(幸い、お手紙は少なかったので助かりました)とを抱えて、リビングに入るとこちらも荒れ放題。お菓子の袋や飲んだままのカップや脱いだままの服がそのままに散らばっていて、テーブルにある灰皿には煙草の吸殻が山みたいに。台所の方は…口にするのもおぞましい状況。
「ご、ご主人さま…どこですかぁ…?」
あちこち窓を開けながら見て回っていくうちに、どんどんと心配が募ります。あ、あんなにしっかり準備していったのにこんなになってしまうだなんて…。寝室(洗濯物が散乱していました)もいなかったし、お風呂でおぼれているわけでもないようだし…、そうすると、後は。
「入りますよ?ごしゅじ…っ」
コンコンとノックしてから開けたドアの向こうの仕事部屋は…、まずは、とにかく空気が悪くて。こんな所にいたら、どんなに健康な人でも病気になっちゃう、というくらい煙草の煙が籠っていて。
そして、置いてあるソファにぐったりと横たわる、大好きな人の、姿。
「きゃ…、きゃああああああ!ごごごごご主人さまっ!し、死んじゃったなんてイヤですうぅぅぅっっ!!」
「…ぐえっ」
勢い余ってご主人さまの体の上に乗っかってしまい、すると、下からカエルの潰れたような声がしました。慌ててどくと、恨みがましい目でご主人さまがびすたを睨みあげていて。よ、良かった、生きていてくれた…!
「…アホか。生きてるっつの」
「で、でも家の中ぐちゃぐちゃだし、何か痩せちゃってるし、髭もそのままだし…っ!」
「…っあー、帰って来て早々ごちゃごちゃ喚くな、騒々しい」
「だって…っ!?」
ぐい、と引っ張られて、ご主人さまの胸元に顔が押しつけられてちょっと苦しい…というか、煙草臭いです。
でも、離れる事は、出来なくて。むしろ、くっついて、やっと帰って来れたと安心して。
「あ、あの…お家を片づけないと…ご飯の用意もしないといけないですし…」
ふがふが言うびすたに、ご主人さまは一言「後でいい」と言いました。
「やっぱり行かせるんじゃなかった。お陰でこの有様だ。…最悪」
「あぅぅ…ごめんなさい」
そうですよね、いくらなんでも一週間もご主人さまを放っておくなんて…メイド、じゃなくて………こ、コイビトとして失格ですよね。
何も言えないままでいると、ご主人さまに「ばーか」と、ぴこんとおでこを指で弾かれました。
「い、痛いですぅ…」
「冗談だよ。…帰って来てくれりゃいい」
おかえり。
耳元で、そう小さく聞こえた気がしました。
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