「……ぅみゅ……はっ!」

ぱちん、と、くっきりとする視界。部屋の電灯がつけっぱなしのキッチンには、薄青い光が届いていた。

「え、うそ。…うそぉっ!…ぁいたっ!」

突っ伏していたところから勢いよく立ちあがった時に、椅子の足が私の足の指に当たった。何がどうなってそうなるのか全然わからないけれど、勢いでこけそうになるのだけは必死に堪えた。
家で、一人でこけるなんて、情けなさすぎる。ぶつけた足の指が、じんじんと痛みを主張し始めた。

(…どうして)

急がなくちゃいけないのに、どうしていいか急にわからなくてただ呆然と壁時計を見上げた。どれだけ目を凝らして見つめても、目を擦って見直しても、壁時計は何の変化もなく、きちんと一秒ごとに秒針が動いている。秒針が一秒動く毎に体の先の冷たさが増す。けれどもそれに気付かないくらい私の心は追い詰められていく。

(どうしてこうなっちゃうの!)

時の流れは無情だ。誰にも止められない。それとも、私の意志が弱いんだろうか。
青みを帯びた夜明けの光が、少しずつ白くなっていく。
とりあえず、とりあえずは学校に行かないといけない。





お前のためなら、俺は世界の決まり事だって変えてやるよ。





2月14日。通学路から既に空気が何となくふわふわと甘い。特に女の子たちはいつもより皆かわいい気がする。
だって、今日はバレンタイン・デイ。男の子も女の子も何となく落ち着かないのは仕方がない。

「一ノ瀬先輩、おはようございます」
「あ、おはよう」

校門前で声を掛けてくれたのは、野球部で一緒にマネージャーをしている後輩の鈴原さんだ。すらりと背の高い鈴原さんは、少し首を傾げたように私を見るのが、何だかかわいい。
鈴原さんは美人さんなので、それくらいの仕草でも周りを歩いている男の子たちの目を惹きつけてしまうみたいだった。何となく、視線が集まっている気がする。

「あ、そうだ。これ、こんな感じで大丈夫ですよね?」
「わぁ、かわいい!いいと思うよ、絶対!」

鈴原さんが見せてくれたのは、野球部員に配るチョコレートだ。二人で探して、それを昨日鈴原さんに買いに行ってもらってたんだっけ。
重いのにありがとう、とお礼を言うと「これくらい平気です」と鈴原さんは笑った。鈴原さんは男の子が苦手だったんだけど、それも少しずつ克服しているらしく、前より明るくなったみたい。
「お陰で色ボケ勘違い野郎が増えやがって困ってんだよ」と、部長の藤枝くんは怒ってたけど。
数もこれで間違いないよね、と、歩きながら一緒に確認していた時に、ふと部員に配るチョコが入った紙袋以外に、小ぶりの紙袋が一緒に持たれているのが目に入った。

「あれ、これって…」
「ああぁっ!あ、あのっ、ち、違うんです!これは別に!本命チョコとか、そんなんじゃないんです!ただ、その、いつもお世話になっているお礼というか、何と言うか…!」
「……」

私、まだ何も言ってないのに。こんなに慌てている鈴原さん、初めて見た。

「えぇっと…その、喜んでもらえるといいね?」
「それは…、でも、いいんです。受け取ってもらえるだけで充分ですから。…あ、受け取ってもらえれば、の話ですけど」

そう言って控えめに笑った鈴原さんは、どこからどう見ても恋する女の子だった。





(そりゃあそうだよね)

だって今日はバレンタインだもん。
昇降口で鈴原さんと別れてから、一人で歩きながら考える。今日は好きな子がいる女の子は皆ドキドキしているに決まってるよね。そして私も、今日はチョコ持参だ。
ただ、ちょっと問題アリなんだけど。

「はぁぁ……って、わわっ!」

数メートル先に、見知った、けれど見慣れることのない背中が見えて、思わず隠れてしまった。すごい偶然だけど、一瞬こっちを振り返ったような気がする。

(わー、なんでなんで!?)

朝会う事なんて滅多にないのに、今日に限って会えるなんて、何てヒドイ偶然。
少しずつ離れていく背中は、私に比べるとがっしりと広くてまっすぐで、それを見ているだけでドキドキしてしまう。

(うぅ…)

私だって、本当はこんな風に隠れたくなんてない。会って「おはよう」って言いたい。
その時、ふ、と、首筋に何かが突然押し付けられた。物凄く、つめたい。

「っひゃあぁ!な、何…っ!?」
「うははは!期待を裏切らない反応だなー!オッス!」

手をひらひらさせて上機嫌で笑っていたのは、ハリーだった。今日も赤い髪をツンツンにセットしている。どうやら、冷えてしまった手を私の首に押し当てたらしい。

「な、何するの、ハリー!びっくりするじゃない!」
「だって、びっくりさせたんだもんな。それに、こんな所でこそこそしてるお前が悪い!」

びしりと、私に指をさしたハリーは、私の見ていた方へ視線を移した。それから「お?」という顔をする。

(ま、まずいっ!)

「何だ、あいつ今日は珍しく早ぇーのな?おぉーい!し…もがもがっ!」
「ちょちょちょっと!ストップ!ストップ、ハリー!」

大声で彼を呼ぼうとするハリーの口に手を当てて、何とかそれを阻止する。…よかった、気付かれてないみたい。

「…って、おい!お前、イキナリ何すんだよ!息できねーだろ!」
「え!?えーっとえーっと…あ、ほら!チョコレートをね!ハリーに渡したいなと思って」
「…チョコレートぉ?」

もともと、ハリーにはあげようと思っていた(というか、子分はチョコを俺様に献上するもんだ!と言われた)から、嘘じゃない。
ハリーは訝しげな表情で私を見たけれど、チョコレートを渡すとゴキゲンになった。

「へぇ〜!結構、手が込んでんじゃん。よしよし、上等上等」
「そうでもないんだけど…味は大丈夫だよ」
「つか、こんなの俺がもらって良かったのか?まぁ、俺の心配するこっちゃねーけど」
「…うん、別に大丈夫」

だって、今更、贈る相手を変えるわけにもいかないし。
心の中だけで溜息をついて、ハリーに向かって私はへらりと愛想笑いをした。

(…それにしても)

それにしても今日は何故だかしょっちゅう志波くんを見かけるような気がする。普段、部活以外で見ることってあんまりないんだけど…。休み時間とか移動中とか、あとはお昼休みとか。
普段会えないのに、今日に限って、志波くんに偶然会える運を使い果たすかのように視界に志波くんが入る。

(だから、今日はダメなんだってば!)

いつもなら嬉しい事なのに(今だって充分志波くんの姿を見れることは嬉しいけれど!)私は、志波くんと会わないように会わないように逃げ回っていた。
自分の迂闊さが恨めしい。今日という日に、好きな男の子を避けるだなんて、恋する女の子失格だ。

(でも…)

こんな事、長くは続かない。授業が終わったら部活がある。ここでは絶対に避けようがない。
だって、まさか部活中にこんな逃げてたら、いくらなんでもおかしいし。
あぁ、でも。自意識過剰かもしれないけれど、今日はやっぱりダメ。

(どうしよぉ…)

普段は楽しい若王子先生の授業も、ちっとも頭に入ってこない。





放課後、練習終わりに部員全員に配ったチョコレートは好評だった。はるひちゃんが教えてくれたチョコクッキーの詰め合わせで、美味しくて、値段もお手頃な物だ。
私と鈴原さんで手分けして配る。志波くんには鈴原さんが渡していた。私は、挨拶以外はほとんど何も話していない。

(…うん、これで良かったんだ)

もうすぐ、一日が終わる。別に、チョコレートを渡さなければ普通の日と変わらない2月14日。私は結局何も出来なかった。
ちょっと寂しいけれど、仕方ない。だって、私は。

「…一ノ瀬」
「ふぇ…っ!?は、はい!」

静かな、低い声が鼓膜を震わせる。ドキドキしたり、安心したり、私のこころを簡単に動かしてしまう、声。
振り返ると、もうとっくに着替え終わった志波くんが立っていた。

「…また最後まで残ってたのか」
「あ、だって、今日は私が…」
「外で待ってたけど、中々出てこないから迎えに来た」

色々あって、志波くんは部活の終わりにはいつも私を家まで送ってくれる。志波くんはぐるりと部室を見渡しながら「何か手伝うことあるか」とぼそりと呟く。部室の空気って、どうしていくら掃除しても、こうも埃っぽいんだろう。

「…うぅん。もうほとんど終わったから何も…、そ、それに今日は早く終わったから志波くん、先に帰ってもらっても大丈夫だよ?」

今日は、とても一緒に帰れるような状況じゃないし、とは口に出さないまま、そう申し出た私に、だけど志波くんは軽く眉をひそめる。

「そういう問題じゃない」

声のトーンは変わらず、けれど反論は受け付けないと言った感じだ。もちろん、私が志波くんに反論なんてあるわけないけれど。

(…うぅ、気まずい)

いつもなら、もう少し色々お話出来るのに。でも今日は何を話しても「あの話」になりそうで迂闊に口を開けない。
仕方がないから黙って作業を続けていると、先に沈黙を破ったのは志波くんだった。

「…今日、正直少し期待してた」
「え?」
「チョコ」
「………へ?」

動かしていた腕がぎくりと強張る。聞こえてきた単語に耳を疑う。え?キタイ?誰が、何を?
チョコ。

「あ、あの…」
「朝、渡してたよな。針谷に」
「…っ!」

(…み、見られてた…!)

どきどきと鼓動が速くなる。作業していた手は完全に停止してしまった。
ううん、それより。そんなことより。

(ぅあ、な、なんか、近、近い…!)

いつのまにか、志波くんは本当にすぐ近く――志波くんと目を合わせる為に見上げなきゃいけないくらいに近く――にいた。思わず後ずさった腰の辺りに、備え付けの机の角があたる。
だめ、逃げられない。

「…自慢された。お前からもらったって」

私の後ろにある机に、志波くんは手をついた。視界が陰る。光は、志波くんに遮られているから。西日を背にしているせいか、志波くんがどんな顔をしているのかはよく見えなかった。
まるで、檻みたいだ。囚われて、逃げられない。

(……え?)

冷えた、かさついた感触が頬から伝わる。それが、志波くんの手だと気付くのにたっぶり3秒くらいかかったと思う。
私のほっぺたなんて簡単に包みこめるくらい大きな手が、するりと動く。長い指の先が、耳を掠めた。

「…っ、ご、ごめんなさいっ!」

気付いたら、そう言っていた。思った以上の大きな声で。
触れていた志波くんの手が、離れる。

「……いや、別に、謝ってほしいわけじゃ」
「ほ、本当は志波くんにも渡すつもりだったの。だけど、あの…」
「何だ?」
「ね、寝ちゃって…」
「…寝た?」
「他の人たちのを作って、それから志波くんのって思った時に、寝ちゃったの…!」

だから、会いたくなかったのに。こんな恥ずかしい話、言い訳にもならない。
昨晩、お父さんやハリーや真咲先輩に渡す分を作ってしまってから、志波くんのを作る予定だった。でも、途中でどうしても眠くなってしまって、ほんの少しだけ寝ようと思って…でも、それが間違いだった。
気付いたらもう朝で。志波くんのチョコレートを作っている時間はなかった。

「志波くんのは、その、ちょっと材料も違うし、時間もかかるから…ま、間に合わなくて、それで」

皆には、普通のチョコレートにしたけど、志波くんにはチョコ味のマフィンにしようと決めていた。それに、志波くんのは一番に最後に一番上手に作りたかったから。

「…それで逃げ回ってたのか」
「え?」
「いや。…ところで、何で俺のだけ違うんだ?同じものなら手間が省けるだろ?」
「…そ、それは」

もごもごと言い訳を探す私を、志波くんはまっすぐに見る。(正確にはまっすぐに見下ろす、だけど)
志波くんだけ違うのは、それは「特別」だからだ。私にとって、志波くんは「特別」だから。

特別に、好きな人だから。

「…え、えっと、志波くんは、その、部活もあるし、お腹が空くかなぁって。だから、普通のチョコレートよりお腹が膨れるものの方が、いいかなって、思って…」

これも、考えの一つだったから、嘘ではない。
はぁ、と、志波くんのため息が聞こえる。

「なるほど。…そういう事か」
「…あの!も、もし良かったら…今度、日曜日空いてる?私、志波くんにチョコレート…!」

そこまで言って、はたと気が付いた。私、勢いで何言ってるんだろう。志波くんも驚いたような顔でこっちを見てる。
本当に、今更だ。だって、今日でないとダメだったのに。バレンタインは、2月14日一日だけなんだから。
バレンタインでなかったら、私のチョコレートなんて別にいらないよね。

「ご、ごめんなさい。今のは、その、つい」
「あいてる」

つい勢いで言っちゃったの、と、さっきの言葉を訂正する前に、私の言葉は志波くんの言葉に遮られてしまった。

「…え、えと」
「作ってくれる、ってことだろ?」

そう言って、志波くんはふっと笑った。優しい顔。優しくて甘くて、そして、いつも胸が締め付けられる。
目が、離せなくなってしまう。

「でも、バレンタイン終わっちゃったよ…?それでも、いいの?」
「かまわない」

ぽん、と、頭の上に手が置かれて、ゆるゆると私の頭を撫でてくれた。
どうしよう。きっと今、顔が赤くなってる。けれど、隠す事も出来ない。

「お前からチョコレートをもらった日を、俺のバレンタインにするから」





全然動けなくなってしまった私の顔を覗き込んで、志波くんは言ったのだった。