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お前以外何もいらないと思えてしまうのは、幸せなのか不幸せなのか。
 
 
 
 
  
「ねぇ、待って。待ってってば、佐伯くん!」 
「うるさい。待たない」 
「何か変だよ。どうしてそんな怒ってるの?」 
「…怒ってない」 
「怒ってる!」 
「怒ってない!」
  
ずんずんと速度を緩めず歩く先は、蜂蜜色の光で淡く滲んで見える。冬の夕方は色彩が淡く時間も短くて、寒々しいけれども美しい時間だと思う。 
風は冷たく、一歩足を動かす度に忘れていた体の感覚を一瞬一瞬思い出す。両手に抱える重たい紙袋の取っ手の紐が、手に食い込んで痛い。あぁ、許されるなら今すぐに、こんなもの海に投げ捨ててやるのに。 
行く手からぶつかってくる風の強さは、どうしてか佐伯の心を勇ましくさせた。だけど、その勇ましさは今この静かな冬の夕方には不釣り合いで、むしろ滑稽で、ただただ苦しい。
  
本当に、嫌になる。どうして俺がこんな想いしなくちゃいけないんだ。おまけにこんなお荷物まで押しつけられて。 
バレンタインなんて、くそくらえだ。
  
「待ってよ、佐伯くん…!」
  
背中から聞こえる声が不意に小さくなった事に、たちまち佐伯は不安になる。さっきまでの勇ましい気分がみるみるしぼんでいくのが、自分でもわかった。 
だから、尚の事嫌になる。たったこれだけの事で不安になるなんて。待たなかったのは自分なのに、まるでこっちが捨てられたような気分になるなんて。 
足を止めて、ゆっくりと振り返る。白いケープと、灰色のワンピースの裾が風ではためいていた。 
彼女が、懸命に自分に迫る。それだけで安心したような気持ちになって、泣きそうになる。
  
こんな気持ちは、知りたくなかったのに。
  
「…遅い」
  
追いついた彼女にたったそれだけを言い、また前を向いて歩き出した。…さっきよりは、歩調を緩めて。
  
「だって、佐伯くんが待ってくれないからだよ」 
「知るかよ、そんなの。お前のこと、待ってる時間なんてないんだ」
  
「俺には店があるんだから」。二言目には口にするその言葉は、今では体の良い免罪符になってしまった。 
彼女から逃げるための、盾だ。 
周囲に向ける良い子面も、天邪鬼で捻くれた物言いも、時には理不尽な癇癪も、彼女には何も通用しない。どうしたって最後に無防備になるのはこっちなのだ。 
彼女がそうして笑顔で傍にいてくれることは、自分にとっては救いであり、そしてそれを通り越して自分は彼女に好意を持っていると――月並みな言い方をすれば恋をしていると――自覚している。 
それは、途方もない安心感と同時に強烈な不安をもたらす。変わりたくない、変わるわけにはいかない、でも変わりたい、変えられてしまう。 
瞬間、気持ちだけが先走りそうになることが、佐伯には恐ろしかった。彼女を傷つけてしまうというよりも、自分が変えられてしまうという恐怖。
  
だから、時々嘘をついた。お前なんて知らない。いなくてもいい、俺一人でいい。そのような嘘。
  
「…もう少しだけ、待ってよ」
  
ぎゅ、と、制服の端を掴まれる。両手には大荷物だ。その手を拒む事もできなかった。 
もとより、佐伯には彼女の手を拒むことなど出来ない。例え、両手が空いていたとしても。
  
(…なんだよ)
  
何の含みもない彼女の声に、静まりかけた苛立ちがまた疼く。人の気持ちを伺い知るとか、何となく思いやるとか、そういうセンサーのようなものがあるとすれば、こいつのはぶっ壊れてるんだ、と、心の中で毒づく。
  
「…10秒」 
「え?」 
「待つ時間。それ以上は待たない。早くしろよ」 
「わぁぁ、待って待って!」
  
能天気な声を聞きながら、あぁ、こいつは本当に何も知らないんだな、と、諦めとも安堵ともつかない気持ちになる。 
何も知らないから、こんな風に俺を追いかけてきたりするんだ。今頃になって。学校でのあいつと同じように。
  
――志波くん、これ、どうぞ!
  
紙袋を持つ手に、ぎゅっと力が籠った。 
彼女にとって、そこには何の違いもない、あるいは意味もないのかもしれない。チョコレートの質や量に多少の差はあったとして、渡す本人の気持ちはどこまでもボーダーレスだ。 
 
(…そんなもの)
  
佐伯にとって、本当に意味のあるチョコレートは彼女からのものだけだ。この手にある大量の押し付けがましいプレゼントではなく。 
確かに、学校では俺はお前とばっかりいられないけど。今日はバレンタインだったし、いつも以上にうるさい奴らに追いかけ回されてお前のこと探せなかったのは事実だけど。
  
「えっと、学校では渡せなかったから…はい!遅くなったけど…チョコレート、受け取ってくれる?」
  
がんばって作ったんだよと、はにかんで笑う彼女を見ながら、心が冷えてくる。
  
「…いらない」 
「……えっ?」
  
(どうして、あいつの方が先なんだよ)
  
にこにこと笑ってチョコレートを渡していた彼女の顔が忘れられない。思い出したくもないのに、頭の中から消えてくれない。
  
「どうして?せっかく作ったのに」 
「ウルサイ。いらないったら、いらないんだ」
  
(むかつく)
  
冷たく拒絶してやったはずなのに、彼女はきょとんとして佐伯を見返すばかりだった。少しも傷付いた風でない彼女に、ますます苛々する。
  
「どうしてって、見ればわかるだろ。こんなにたくさんチョコやらプレゼントやらもらってさ。その上、お前の作ったチョコなんていらないよ。許容オーバーだ」 
「別に…そんな大した量、ないよ。持って帰るのだって、その紙袋に一緒に入れて持って帰ってくれれば」 
「ダメだ」
  
ごおごおと、耳元で風が鳴る。この寒空の下バカみたいに突っ立って、俺は何してるんだ。足先も指先も、すっかりつめたくて感覚なんて無くなってる。むしゃくしゃする。 
こんな、つまらないものばかり押し付けられて、本当に欲しいものは意地張って受け取れないなんて。どうしてこうも、うまくいかないんだろう。
  
どうしてちゃんと、欲しいものに手を伸ばせないんだろう。
  
友達とバカやる時間もいらない、理解ある両親もいらない、「普通の高校生の生活」だっていらない。ただ一つだけ、欲しいものは決まっているのに、どうしてそれだけがままならない。
  
俺は一体、何やってるんだ。
  
「…もう、ワガママばっかり言うんだから。いいよ、そんなに言うなら、帰って遊くんと食べよっと」 
「…待てよ」
  
むぅっと頬を膨らませてむくれる彼女に、佐伯はぞんざいに言った。わがままに、偉そうに。
  
「何よ、いらないんでしょ?無理にもらってくれなくてもいいです」 
「…そうじゃない。言っておくけど、俺が怒っているとするなら、それは全部お前のせいなんだからな」 
「何それ!全然意味がわからないよ!私がいつ佐伯くんを怒らせるようなこと言ったって言うの?」 
「そんなの、しょっちゅうだよ」
  
ぼんやりで、いつも俺を振り回して、俺が必死に拒んでも簡単に入り込んでしまう。残酷な程の優しさと無邪気さに泣きたくなる。 
泣きたくなるくらい、好きなんだ。
  
「…これ、やる」 
「えっ…?」 
「その代わり、これ、もらってく。…サンキュ」 
「ちょ、ちょっと、佐伯くん…!?」 
「…ほら!もう時間切れだ。…俺、本当にもう行かなきゃ。また明日な」
  
彼女の差し出していた小さな紙袋を手にして佐伯は、呆気に取られた彼女を置いて前に歩き出す。自分の欲しいものだけ手にするというのは、何て軽やかな気分だろう。空でも飛べそうな気持ちだ。 
後ろのほうで、途方に暮れた彼女の声が聞こえたので、歩みはそのままに振り返る。
  
「佐伯くーん!これ、どうするのぉ?どうしたらいいの、私!」 
「だから、お前に全部やるって言ったの!」 
「だって、こんなたくさん…食べきれないよ!それに、もらったのは佐伯くんでしょ!」 
「捨てればいい。それが嫌なら近所にでも配ればいい。好きにしろよ。…俺はいらないから」
  
すう、と大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺に満ちて、きりりと引き締まるみたいだ。
  
「俺は、お前からもらったの以外はほしくないから」
  
はっきりとそう言い切って、今度こそ、佐伯は振り返らなかった。
 
 
 
 
  
手の中の小さな幸福を噛みしめつつ、佐伯は薄赤い夕焼けを見る。 
バレンタインはやっぱりどうでもいいけれど、今日という日は悪くなかったなと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
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